ナルトです
Boa tarde! こんにちは🌱
ボアタルジ
プロ歌手になると決めて、
17歳で入学した大学を半年でやめて…
日本に来ちゃった日系三世ブラジル人です。
演歌歌手としてデビューした日が
緊急事態宣言が出た翌日…
こんな前代未聞のスタートとなったボクの
日本のルーツについて勉強したことを書いてます。
今日は4話目…
65年前ブラジルへ移民したおじいちゃんが、
故郷、宮崎県日向を出るまでです。
祖父「黒木 慧」くろぎ けい
1934年(昭和9年)宮崎県日向市生まれ
現在、85歳
【夢へ、そしてつらい別れ】
ブラジルへ渡る決心をし、家族の同意をとりつけた祖父慧は、さっそく手続きをし、宮崎県農業中央会の試験を受けることになった。
しかし、はたと困った…試験に来ていく服がない。この20歳になるまで背広など、見たことはあったが、触ったこともなかった。もちろん買う金もない。
どうしようかと考えていたら、義姉が兄さんから背広を借りてくれた。小柄だった慧にはブカブカの上下だったが、初めて着る立派な服と、希望に満ちた未来のための試験ということで、心は踊っていた。
そして、1955年6月15日合格通知が届いた。
すぐに、ブラジルの予備知識学習と、実際の農業体験講習会に参加することになった。
この講習会は、北部の人は福島県白河で、残りは宮崎県高鍋で受けることになっていて、近い場所での研修で幸いであった。
この講習所での規律は、実に厳しいものだった。食事はいつも麦飯だったが、うれしいことに、とにかく腹いっぱい食べることが出来た。この研修でブラジルでの生活について学び、不安よりも希望に満ちた未来を想像することができた。
同じ目的をもった青年らと同じ釜の飯を食べ、心をかよわせ、友もできた。
講習が終わった7月上旬、家に戻るとすぐ旅立ちの準備にとりかかり、作業着や地下足袋などを生活最低限のものを買いそろえトランク一つに詰めた。
多少なりとも現金を調達するため、畑一反歩を2万で売った。母と何年も耕してきた畑だったので断腸の思いだったが、他に資金調達の手段はなかった。
土地の面積を表す1反は、991.74平方メートルで300坪= 約10アール、当時の2万円は今の50万円くらいだろうか。一部は残る家族の生活費に当てた。
地元の友人らが、浜辺の食堂で、壮行会をしてくれたことも、良き思い出である。
出発は神戸の港からだったが、姉2人が東京にいたので、出発前に東京見物をする段取りをつけた。
故郷を出たのは、7月15日ころ。
貧しく苦しい歳月ではあったが、生まれ育った美しい海や山、川…これが見納めかもしれない…そう思うと熱いものがこみあげてきた。
出発の日、神戸の斡旋所で過ごす2週間分の米を持参するきまりだったので、母がどこからか貴重な米を調達して、駅まで持ってきてくれた。
つらい別れだった。
母と二人、涙が止まらなかった。
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ボクも18歳になってすぐ、プロ演歌歌手になれると信じて、おじいちゃんと同じくトランク一つに、生活最低限の必需品と、夢をいっぱい詰め込んで、日本にやってきました。
家族との別れは、それはそれはせつなかったですが、今はスマホやアプリもありますからね、今とは比べものにならない状況だったかと…。
次回は、祖父慧が、日本を旅立つ…です。
さぁー
今日も一日
太陽スマイルでやりきります😊