ナルトです
Boa tarde! こんにちは🌱
ボアタルジ
プロ歌手になると決めて、
17歳で入学した大学を半年でやめて…
日本に来ちゃった日系三世ブラジル人です。
演歌歌手としてデビューした日が
緊急事態宣言が出た翌日…
こんな前代未聞のスタートとなったボクの
日本のルーツについて勉強したことを書いてます。
今日は13話目…
65年前ブラジルへ渡ったボクのおじいちゃんの
ブラジルの暮らし…です。
祖父「黒木 慧」くろぎ けい
1934年(昭和9年)宮崎県日向市生まれ
現在、85歳
【ブラジル語の習得】
異国の地で生きるという上において、なんと言っても言葉の問題が切り離せない。
渡伯した祖父慧は、ブラジルの言葉、ポルトガル語をどのように習得していったのだろうか。
森田農場から西へ4キロほど行ったところに、ソロカミリンという部落があり、小学校4年生までの小さな寺子屋風の学校があった。
そこの先生が、森田さんの友人宅に下宿していたことから、一緒に働く田原君と二人で勉強を教えてもらえることになった。夜1時間くらい、週に2回、トラクターに乗って通った。
仕事は毎日きつかったけれど、日本ポルトガル語会話集から、単語を別の紙に書き写して、いつもポケットの中に入れて仕事をしながら勉強していた。
日常会話は、農場のカマラーダと呼ばれる労働者たちとのコミュニケーションもあり、数年でだいぶ解るようになり、仕事の話し合いなどの意思疎通は充分とれるようになっていった。
ブラジルに渡ってから、脇目もふらずに仕事と日常会話の習得に忙しい毎日を送っていたが、少し落ち着いた…1年を過ぎたころだったろうか…
独り畑仕事をするときなど、急に故郷を思い出すことがあった。
今、ふるさとの母や、きょうだいたちは、どうしているだろうか…と日本のことを思い出しては…
「大変だろうな…苦労しているだろうな。」と、感極まって涙がボロボロ次から次へと湧いてきて、どうしようもなくこらえきれない衝動に襲われることが何度もあった。
日本への手紙は、年に2~3回は出していたので、後から聞けば、良く書いていた方だったようだ。
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ボクも日本に来て、とにかく1年というのは、ブラジルに気軽に電話してしまうと言葉が真剣に覚えられないからと、家族と一切連絡をとらないようにして、ガラケーで過ごしていました。
日本語がわからなくて、何度も挫折しかけましたが、そのたびに、おばあちゃんや、おじいちゃんからの手紙をもらって、気持ちを切り替えてきました。
おじいちゃんの話には、ボクのいろいろな出来事が重なり、いつも心がザワザワします。
次回は、独立に向けてのお話です。
さぁー
今日も一日
太陽スマイルでやりきります😊