ナルトです
Boa tarde! こんにちは🌱
ボアタルジ
プロ歌手になると決めて、
17歳で入学した大学を半年でやめて…
日本に来ちゃった日系三世ブラジル人です。
演歌歌手としてデビューした日が
緊急事態宣言が出た翌日…
こんな前代未聞のスタートとなったボクの
日本のルーツについて勉強したことを書いてます。
今日は5話目…
65年前ブラジルへ渡ったボクのおじいちゃんが
ブラジルへ向け船出する話です。
※毎年行われるブラジルの日系人イベントポスター
祖父「黒木 慧」くろぎ けい
1934年(昭和9年)宮崎県日向市生まれ
現在、85歳
【船出】
ブラジルへ向けて家を出たのは1955年7月15日
故郷宮崎の富高駅(現在の日向市駅)で、母との涙の別れをした後、まずは姉のいる東京へ向かった。
高校の親友も東京見物すると急に言い出し、思いがけず二人旅になり、東京までの長い一昼夜も含め楽しい旅となった。
戦後の復興の兆しが見え始めたばかりの東京は、何もかもが珍しく、街角のテレビに群がるたくさんの人々や、フォルクスワーゲンのカブト虫、ビートルの大きな騒音が印象に深く残っている。
7月22日には神戸へ到着し、移住斡旋所でブラジル渡航へ向け準備がはじまった。
乗船する船「あめりか丸」は、1万3千トン、全乗船者700名ほどの中、コチア単独青年移住者は福島と宮崎での研修者合わせて108名。
神戸の斡旋所では、渡航費貸付書類作成や、コチア産業組合との労務契約書の作成、旅券などの手続きを行った。宮崎県からの青年は11名いた。
神戸滞在中、金のなかった慧は動くことはなかったが、同僚は夜の街へ繰り出して行ったようだ。
いよいよ出発の日。
トランク一つで気楽ではあったが、何をしても初めての経験ばかりで、今と未来へのあまりにも変化の大きさに、大きな荒波にもまれているようで、心の安定が失われてしまいそうになった。
初めてみる大阪商船「あめりか丸」の大きさに、とにかく驚いたのもつかの間、丈夫な若者に割り振られた一番条件の悪い船尾の二段ベッドの下に落ち着いた。
ベッドの隣は高知出身者が多かった。
やがて出発の時がやってきた。
甲板での大勢の見送り者と、最後のお別れシーンは、数百本の紙テープが大きくゆらいだ後、しだいに別れの声とともに風に流れていった。
1955年8月4日船出。
またいつの日か、この日本の土を踏めるだろうか…との思い、諦め、そして、決意へと葛藤、交差しながら、遠ざかる神戸の港を見つめていた。
船は太平洋の大海原へ出ると大きく揺れ、多くの人が船酔いでグロッキー状態。バラス運搬船の重労働でなれていた慧も、さすがに最初は苦しんだ。
毎日毎日見えるのは海ばかりで、ときおり行き交う他の船に心が救われる思いだった。
それでも3日目から食事も美味しくなり、毎回の食事が楽しみになった。
そして、11日目。
遠くにアメリカ大陸が見えてきた。
*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*
ボクも初めての海外、見知らぬ国に1人ぼっちで渡航した18歳の記憶がダブって、おじいちゃんの気持ちがもう…よくわかって、心が大きく揺さぶられました。
次回は、祖父慧が、世界の国を経由した船の旅…です。
さぁー
今日も一日
太陽スマイルでやりきります😊