ナルトです


Boa tarde! こんにちは🌱
ボアタルジ




プロ歌手になると決めて、
17歳で入学した大学を半年でやめて…
日本に来ちゃった日系三世ブラジル人です。




演歌歌手としてデビューした日が
緊急事態宣言が出た翌日…





こんな前代未聞のスタートとなったボクの
日本のルーツについて勉強したことを書いてます。






今日は10話目…

65年前ブラジルへ渡ったボクのおじいちゃん…
4年間の契約労働のスタートです。




祖父「黒木 」くろ けい

1934年(昭和9年)宮崎県日向市生まれ
現在、85歳




【森田農場での仕事】


ブラジルに到着した20歳の祖父慧が、サンパウロで見習いとして4年間の契約期間働くことになった森田農場。





サンパウロから少し離れたバルゼン・グランデの部落にある森田農場での仕事は、どんなものだったのだろうか。





森田農場は、養鶏、野菜栽培、ワイン用のブドウ…など、複数の事業展開をする大規模農場であった。




その労働内容については、20歳の青年男子ということで、とにかくキツい仕事がまわってきた。

馬を引いての除草、トラクターや二頭立ての馬を引かせての土地の耕地、鍬での除草。

※1958年森田農場にて


ジャガイモの消毒、土寄せ、除草、収穫の芋拾いから、そして袋詰めまで、なんでもやった。



とくにトラックの積載作業は、袋を頭に乗せて放り投げるのだが、背の低い祖父慧にはかなり苦しい作業だった。

※1958年森田農場にて

しかし負けず嫌いのため、ぜったいに根をあげたことはなかった。

ヘトヘトになりながらも、ひたすら働き続けた。




15歳から小さな体で人に負けず重労働に耐えてきたが、ブラジルにきても重労働が待っていた。







では、その報酬はどうだったのか…


請負労働者と変わらない安給料であったが、使う必要もなかったので、ほとんど貯金して、ある程度貯まると日本の母へ送金していた。



当時、一度に300ドルまで送金が出来た。


※現在のブラジルのお金(ブラジルレアル)





毎日重労働ではあったが、契約期間を経た後の成功を夢みての日々は、充実した時間であった。




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おじいちゃんは、ブラジルに渡ってから、いつも全力で必死にがんばった。ボクはまだ3年半。まだまだおじいちゃんに比べたら、内容も時間も足りてないなぁー。




おじいちゃんのこんな「がんばり」があったから、ボクたち孫は、自由によい暮らしをさせてもらったんだな。





あらためて、ありがとうございます。





次回は、森田農場での楽しみと、名産品をご紹介します。



さぁー
今日も一日
太陽スマイルでやりきります😊