ナルトです
Boa tarde! こんにちは🌱
ボアタルジ
プロ歌手になると決めて、
17歳で入学した大学を半年でやめて…
日本に来ちゃった日系三世ブラジル人です。
演歌歌手としてデビューした日が
緊急事態宣言が出た翌日…
こんな前代未聞のスタートとなったボクの
日本のルーツについて勉強したことを書いてます。
今日は9話目…
65年前ブラジルへ渡ったボクのおじいちゃん…
4年間の契約労働のスタートです。
祖父「黒木 慧」くろぎ けい
1934年(昭和9年)宮崎県日向市生まれ
現在、85歳
【森田農場での暮らし】
ブラジルに到着した20歳の祖父慧が、サンパウロで見習いとして4年間の契約期間働くことになった森田農場について紹介。
サンパウロの都会から西に向かって組合のあるコチア、その先にあるバルゼン・グランデの部落に森田農場はあった。
ナルトの生まれ育った「サン・ロッケ」は、そのお隣の町である。
森田農場では、採卵養鶏、アルカショフラ、ジャガイモ栽培、ワイン用のブドウ…と、数本立ての営農で、この部落の百家族くらいの農家の中でも規模の大きな農場であった。
▼森田農場の家族
森田さん、奥さん、3人の子ども
奥さんの兄家族
農場のあちこちに、カマラーダと呼ばれるここで働く請負い労働者も住まわせていた。
▼一日のスケジュールについて
朝6時に起床。パンとコーヒーを飲んですぐに仕事にとりかかる。9時半に昼食、午後2時にパンとコーヒー休憩。カマラーダは午後5時でやめるが、自分たちは暗くなるまで仕事をした。夜ご飯は8時ころ。
15歳から小さな体で人に負けず重労働に耐えてきたが、ブラジルにきても重労働が待っていた。
▼食事の様子
日本と違うところは、とにかく食べものが格段に良かった。日本と違って、毎日、米の飯が食べられた。大きな皿にフェイジョン(豆料理)と山盛りの米の飯を腹一杯…毎食二皿平らげた。
農場では豚を常に20頭ほど飼っていて、毎年5〜6頭潰して食べていた。屠殺の手伝いも随分とやった。
豚脂は大きな缶に保管し、肉はこの脂に埋めておくと長く保存ができた。毎日のフェイジョン作りや、パスタにもこの脂を使った。
魚も買ってきてくれたし、正月にはマグロや、かつおの刺身もあった。
毎日のコーヒーの時間はパンの代わりに、トウモロコシの粉を焼いて、熱いコーヒーをかけ、練って食べることもあった。
仕事は重労働だったが、こんなに豊かな食生活をとることが出来るのは、やはり幸せなことだと思える毎日だった。
*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*
ボクも日本にやってきて、日本の料理のバリエーションの多さと、珍しい料理、レストラン…その多さと、おもしろさ、美味しさに、幸せだなと思います。
ブラジル実家のお店で鑑賞用に販売していた「どじょう」を料理店で見たとき、固まりましたが、食べたら美味しかった😋
次回は、森田農場での仕事についてご紹介します。
さぁー
今日も一日
太陽スマイルでやりきります😊