ナルトです
Boa tarde! こんにちは🌱
ボアタルジ
プロ歌手になると決めて、
17歳で入学した大学を半年でやめて…
日本に来ちゃった日系三世ブラジル人です。
演歌歌手としてデビューした日が
緊急事態宣言が出た翌日…
こんな前代未聞のスタートとなったボクの
日本のルーツについて勉強したことを書いてます。
今日は7話目…
65年前ブラジルへ渡ったボクのおじいちゃんが、
南米大陸へ到着します。
祖父「黒木 慧」くろぎ けい
1934年(昭和9年)宮崎県日向市生まれ
現在、85歳
【赤道横断】
ブラジルへ向け、ベネズエラの港町ラガイラを出航した「あめりか丸」が、アマゾン河の沖合いを通るころ、赤道祭が甲板で催された。
これは地球を北から南へ渡る時、北の神様から南の神様へ「鍵」が渡されるというセレモニーで、女王役は乗客から推薦された女性たち。皆それぞれ仮装して、楽しい一日だった。
この日にもらったお土産がうれしかった。
このとき知ったのだが、この船に、前年のアジア大会陸上女子100m金メダリスト南部敦子選手が同船していた。同い年の有名人だった。
また、ブラジルでじゃがいも作りで成功した植田さんという方が、日本へ遊びに行った帰りだと同船していて、ブラジルのことをいろいろ話を聞かせてもらうことができた。
そうこうするうち、いよいよブラジルに寄港する。
ブラジル最初の寄港地は、南米大陸の東端、ペルナンブコ州の州都レシフェだった。
レシフェでは、源田さんという日本人がアイスクリーム店をやっていて、大人気ときいて、皆で食べに行った。
日本で、堅い棒状のアイスキャンディーは食べたことはあったが、クリーム状のものは初めてで、十種類以上の色と味に感激した。
次の寄港地は、シドニー港、ナポリ港と並んで世界三大美港と言われたリオデジャネイロ港である。
ここではコチア産業組合の移民課の方が乗船してきて、目的地サントス港での上陸に向けた準備や、ブラジルでの常識などをレクチャーをしてくれた。
この港町で一つエピソードがあった。とても真面目な同郷の義満くんが、トイレに入って顔を洗おうとしたら、便器ともう一つ器があるのでそれで顔を洗ったと言って帰ってきたので、みんなで吹き出して大笑した。ヨーロッパ文化を感じるエピソードである。
そしていよいよ…
1995年9月15日
故郷、宮崎県日向を7月15 日に出てから、ちょうど2ヶ月となるこの日、サンパウロ州のサントス港へ到着した。
祖父慧、20歳と11ヶ月。
さあ、この日がやってきた!
*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*
ボクが日本の成田空港に到着したときのことが思い出されます。身ぶるいするような、わきあがる感情が、心の奥の方では熱く、でも到着の緊張で静かな…いりまじった不思議な気持ちでした。
次回は、祖父慧が、上陸してからのお話です。
さぁー
今日も一日
太陽スマイルでやりきります😊