ナルトです
Boa tarde! こんにちは🌱
ボアタルジ
プロ歌手になると決めて、
17歳で入学した大学を半年でやめて…
日本に来ちゃった日系三世ブラジル人です。
演歌歌手としてデビューした日が
緊急事態宣言が出た翌日…
こんな前代未聞のスタートとなったボクの
日本のルーツについて勉強したことを書いてます。
今日は12話目…
65年前ブラジルへ渡ったボクのおじいちゃんの
ブラジルでの娯楽について…です。
祖父「黒木 慧」くろぎ けい
1934年(昭和9年)宮崎県日向市生まれ
現在、85歳
【入植当時の娯楽】
さて今回は、日々仕事に励むブラジル農業移民、コチア青年たちの娯楽について紹介。
1955年に渡伯してから、一番の楽しみと言えば、町にやってくる、巡回映画であった。
年に4~5回、バルゼングランデにあるコチア産業組合の大きな倉庫まで観に行くのだ。そのときは皆でカミニョンと呼ばれるトラックに乗って、夜風に吹かれてウキウキしたものだ。
それから身近な楽しみといえは、森田さんの家には日本歌謡のレコードがあったので、それを良くかけて聴いていた。
今でも思い出されるのは…
リンゴの唄(並木路子)
君の名は(織井茂子)
長崎の鐘(藤山一郎)
白い花の咲く頃(岡本敦郎)
三百六十五夜(霧島昇・松原操)
…など重労働の疲れた体と心を癒す存在だった。
毎日の仕事がきつく、夜はヘトヘトに疲れていたので、残念ながら、なかなか本を読む気力まではなかった。
それから、長距離の旅行も行く機会があった。
200キロほど奥地にサンミゲル・アルカンジョという村があり、森田さんの甥っ子二人がここへジャガイモ作りの行っていて、遊びをかねて見学に何度か行ったことがある。
広大な農地で、土壌も良く、5~6台のトラクターを所有していて、一度に何十アール規模のジャガイモを植えていた。消毒も、芋掘りも機械化されていて、驚いた。
また、一度だけではあるが、サンパウロ市から南へパラナ州の境にに近いカナネイアまでの往復600キロをトラックの荷台に載って魚釣りに行ったことがある。
数少ない娯楽ではあったが、良い想い出として脳裏に焼き付いている。
当時はこれが当たり前で、まだ贅沢な方だったかも知れない。
日々の重労働の中にあっても、ささやかな楽しみというのは、明日への活路となる。
*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*
ボクもは日本に来て、富士山を見に富士五湖や温泉、大相撲、東京ディズニーランド、スキーなど連れて行ってもらい、たくさんの感動と活力がわきあがりました。
次回は、ブラジルでの言語の習得についてご紹介します。
さぁー
今日も一日
太陽スマイルでやりきります😊