主体性こそ集大成-Beyond the Borders-
Amebaでブログを始めよう!
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>

私高野勇斗の半生(誕生〜大学時代)

[前編]進出のリアル-アドウェイズインドネシア高野社長

 

プロフィール:高野勇斗(たかの はやと)

1982年生まれ。北海道函館出身。早稲田大学卒。2007年インターネット広告代理店のアドウェイズにに入社。入社わずか1ヶ月後から大阪支社立ちあげに始まり、名古屋、福岡支社を責任者として立ち上げる。その後、2011年よりインドネシアに渡りPT. Adways Indonesiaを設立しインターネット関連事業を開始。デジタルマーケティング事業、メディア・ゲーム事業に続き、PC・スマートフォン向けのアフィリエイトサービスなど、複数の事業を手がけている。

こどもの頃から「自分で決めて、自分で掴み取る、目立ちたがり屋」

−− どういう幼少時代を過ごしたんですか?

3歳の時に両親が離婚して母子家庭だったんですよ。なので何でも『自分で決めろ』と母親には言われてきました。だから誰かに何かをしてもらうことや、強制させられることがない時代を送ってきました。


−− なるほど、ちなみに小学校の通信簿にはなんて書かれてました?

落ち着きが無い。協調性が無いっていつも書かれてました(笑)。とにかく「目立ちたい、モテたい!」って思ってましたね。劇の主役にいつも立候補するタイプだったんですよ。でも、ある年のバレンタインデーのチョコの数で、同じサッカー部員たちに完敗して自覚したんです「俺はモテない奴なんじゃないか」って。友人は9個くらいで自分は2個だった。そこからは『これは目立ち方を考えなければ』と思い始めましたね。それとそれ以来、甘いものが嫌いになりました(笑)


−− その後どうなっていったんですか?

幸い、勉強はできる方だったので、中学までの成績は良かったんですよ。それで高校は地元の進学校に行くことができたんです。けどその中では落ちこぼれてました。学年で280人中260番くらい。進学校だったので、同級生は親が地元の公務員や医者などが多かったですね。。母子家庭は自分だけでしたね。


ビッグになる!政治家になる!決意させた一枚の写真との出会い

−− 将来政治家になる!と明言されてるんですけど、どういうきっかけなんですか?

修学旅行で広島の平和記念資料館に行った時のことです。鮮明な記憶ではないのですが、偶然目に止まった写真に衝撃を受けたんです。既に亡くなった弟と思われるこどもをおぶっている、いわゆる「火葬場に立つ少年」と、お母さんが助けを求めて叫んでいるけど、腕の中のこどもは既に亡くなっているという写真でした。

担任の先生に声をかけられるまで、気づいたら2時間ぐらいそこに一人立ち尽くしていたんです。


その時「戦争ってなんなんだ」と思いました。そして日本人としての責任や日本人であることを初めて強く認識したんですよ、この時に。これ(戦争)って今後も起きるんじゃないかと思ったわけです。

そして、その時「じゃあ、お前をあの時代に戻してやると言われたら、『是非いかせて下さい』と言えるのか?」という質問が頭に浮かんだんです。この時代に自分が生まれたとしたら、原爆投下を止められたか、戦争に反対することが出来たのだろうか。多分爪の間に針とか刺されて、ボコボコにされて拷問受けたりしたら「戦争バンザイ」とか言っちゃうんじゃないか。

それで思ったんです、今の高2の小さい自分では駄目だ。世の中の空気が変わった時にも自分の意見を貫ける人間に、つまり世の中を変えられる人間になろうと。じゃあとにかくビッグなやつになろうと決めたわけです。ビッグになる理由は分かった。じゃーどうするか?


−− どうしようと思ったんですか?

短絡的なんだけど、「じゃあ政治家になろう、というか総理大臣になろう」と思ったんです(笑)


−− 面白いですね(笑)普通一枚の写真からそこまで思わないですよね。ビッグになろうとか、政治家になろうとか。

その時は視野狭窄なんですよ。函館の片田舎出身の高校生ですから。みんながみんな「ビッグになりたいもの」だと勝手に思い込んでましたし、政治家になるには東大に行くしか無いとも思ってました。短絡的ですから(笑)でも、東大入ってやる!総理大臣になってやる!とかビッグマウスたたくのに何もやっていなくて、当然東大には入れず、最終的にギリギリ早稲田大学にひっかかることができました。   


田原総一朗氏が塾頭。ネクストリーダーを養成する「大隈塾」に入塾

-- 早稲田大学に入った後はどんな日々を過ごしてたんですか?政治家になる勉強とか?

早稲田入学後、特に何かやれていたわけじゃなかったんですが、大学3年の頃に「大隈塾」というものに偶然出会いました。当時、小沢一郎氏や前原誠司氏、宮澤元首相などの大物政治家や各界のとんでもない大物が毎週交代で田原総一朗先生と講義をしてくれる人気の塾です。倍率がものすごい高かったのですが運良く通ったんです。

でも、僕はその大物ゲストが話していることが全然理解できなかった。議論にも参加できず、同級生や後輩には下に見られていたと思います。

こいつらは政治家になりたい、そして俺も政治家になりたい。でもこいつらはゴールやルールが決まっている中では、むっちゃくちゃ強い。これは一緒の土壌では100%勝てないと思ったんです。だって圧倒的に僕は、勉強が足りない、劣等生なんですもん。こりゃヤバい。何とかしないと、と思ったんです。

でも、欲に流されてるわ、楽の方に逃げようとするわで、特に何もできていない日々なわけです。昼は大学、大隈塾、夜はバーバリーブラックレーベルやドルガバで身を固めて、手には"University of Tokyo"と印字されたバッグを持って出勤し、渋谷で「カラオケいかがすか〜」とかキャッチとかティッシュ配りしているめっちゃくちゃ気持ち悪いやつになっていたんですよ(笑)

でもギャル男とかになりきることもできないし、渋谷でバイトの合間にも、朝日新聞とか読売新聞のバッグに入れて、社説とか比較読みしているし、ほんと中途半端な気持ち悪いやつでした。


ホリエモンとITの世界の衝撃、そしてアドウェイズとの出会い

-- そんな日々だったのがどうして今につながるんですか?

ある日、ニュースでホリエモンこと堀江さんの近鉄買収と選挙出馬のニュースを見て衝撃を受けました。インターネットもライブドアもよくわからない僕だったんですが、そのホリエモンが今度は無所属で出馬すると世間を賑わしてたんです。この人、もともと金やコネ、そういうものは何もなかった。この出馬も無所属じゃなくて、もし自民党に公認してもらってたら受かってたんですよ。

それとサイバーエージェントの藤田さんの『渋谷ではたらく社長の告白』と出会ったんです。サイバーエージェントの何がキラキラしているかって、社長がキラキラしているんです。当時から、社長が世間に露出して広告塔として知名度を拡大していたんです。


-- なるほど、そこでIT、政治家、ビッグになる、とつながるわけですね。

そうです。政治家が、他の職業とただ1つ決定的に違うのは「選挙に絶対勝たなきゃいけない」ということなんです。そのためには多くのひとに自分のことを知ってもらう必要があります。良く思われても、仮に悪く思われてもいいのですが、その判断を国民にしてもらうには、まず自分を自分の考えを知ってもらうこと、知名度が絶対的に必要なんですよ。

ふつう上場していて大企業の社長の名前とか顔とかあまり知らないですよね?でも堀江さんや藤田社長は既存の業界に新たなものを持ち込んだり、ルールがないところを自分の力で事業を作り上げて、結果的に世間に注目をしてもらい、知名度を上げている。『こりゃヤバイ!これだ!』と思いました。

ルールやゴールが整っている世界では自分より強い人がたくさんいる。でも彼らみたいに、ルールが無い世界、整っていない世界において、自分の力で事業を興して成功するというやり方でなら勝負できるんじゃないかと思いました。

ちなみに、この時大隈塾ゼミの卒業論文で「いずれネット選挙の時代が来る」という内容で書きました。ネット広告費が伸びていて、ちょうどラジオの広告費を抜いた頃。ネット選挙の時代が来れば、ネットのこと、特にネットのマーケティングにくわしい人が、選挙で有利になる。という主張。ゼミ担当でジャーナリストの高野孟先生には「高野、論理が破綻しているじゃないか」と怒られたんですけど、最近、あれ!?もしかしてちょっと文章力はおいといて、書いた内容自体は徐々に実現に近づいてきているんじゃない?と思ったりしてます(笑)


就職活動とアドウェイズとの出会い

−− アドウェイズにはどういう経緯で入ったんですか?

最初は政治家に、大企業出身者が多いのもあってそこを目指したんですよ。でもぜっんぜん受からなかった。しかも行きたいなと思った会社も、僕が気づいた時にはエントリー終わってましたね(笑)その後、ライブドアや『渋谷で働く』に出会い、ベンチャー企業を目指すのですが、サイバーエージェントも落とされました。それでIT系企業の「あ行」から探しはじめて、出会ったのがアドウェイズです。


−− 「あ行」からですか(笑)。でも、何でアドウェイズだったんですか?

究極的には会社の経営目標がすごくよかった。「世界のインターネット商社」っていう、規模や場所も含めて限定していない、さらに「日本一」とか目標が小さくないんですよ。規模も限定していなくてよくわからないけど、「世界のインターネット商社」って曖昧だけど、すごいことやるんじゃないかと思ったんですよ。

そして、中卒で見た目がちょっとチンピラみたいな岡村社長と、当時取締役なのに金髪だった松島さんが衝撃的だった。あと、すごいくすぐられる言葉をかけられたんですよ。『高野くんって、大企業に入るのと、大企業作るの、どっちがいいと思う?』とか。その後内定決まった後すぐ『高野くん、次の講演会出てよ』とか『夕食行こう』とか『オーストラリア行っていいよ』みたいな。今でもくすぐられ続けてますけどね(笑)でもこんなコンビはいないんですよ。クレイジーだなと。



−− 入社後はどういうことしていたんですか?

新卒入社1ヶ月後に大阪支社立ち上げに始まり、名古屋、福岡と立上げばかりをやってきました。東京から西へ西へと立ちあげまくってきた、結果福岡まで来て、その先に海しかなくなった。それで(中国は既に他の社員が行ってたので)東南アジアに目を向けて、実際にいくつかの国を回ろうと計画してました。それでインドネシアに行った瞬間「ここにしよう!」と思ったんです。携帯はめちゃくちゃ使われてるし、人口も多いし若い。だけどインフラは整ってないし、生活環境も決していいとはいえない。国自体が整っていない。でもだからこそチャンスだと思いました。そういう整っていないところを切り開いてビジネスを立ち上げていくことこそ自分の強みが活かせると。

「観光する」の本当の意味

最近つくづく思うのが、人生って本当楽しいですよね。なんでこうも楽しいのですかね。暑さ和らぎ、秋の匂いが漂う時期だからより感じるのでしょうか。これもまた風情があるというか春夏秋冬がある日本のいいところですね。

最近暗いニュースがありますよね。例えば、自殺のニュースとか。僕は若い子に良く言ってることがあるんですよ。

「おまえ自殺なんてしたらぶっ殺すからな。」強い表現ですがこの本意を汲んでほしいです。そしたら、「はい!絶対しません。だって死ぬのイヤなんで。」と回答してもらえるよう努力します。そうじゃない子に対してもいろいろしてあげられることあるので。聞いてあげられる話も微力ながらあるし。君の知らない視点をきっと与えられるよ。何かしらのことはできるよ。できる限りの力で。

さて、GoToキャンペーンのニュースに関してですが、「観光」という言葉がありますね。我々も観光業界に所属しています。この「観光」という言葉は、「光を観る」って書くんですよね。かっこよくないですか?この「光」そして「観る」という言葉の掛け合わせ。

今までの文章で気づいた方いるかもしれませんが、僕は「見る」と「観る」を使い分けてます。SeeとLook,Watchも。

観光では、「光」と「観る」ということが非常に大事です。あなたがどこか旅に出るとします。その時にとらえたいと思う「光」を探してみてください。意識して自分の意思でその光を見つけるんです。そしてその光の本質にせまろうといろいろむちゃむちゃ調べるんです。そしてアンテナを強く張るんです。

「観光」の本来の意味知ってますか?それは「国や地域にまなざしを向ける」という意味です。古代中国の書物『易経』の「観国之光」が元であると言われています。海外であれば、新たなことを発見するという意味でもいいし、国内の地域であれば、今まで見えていなかったものを再発見するという意味でもいいと思います。


つまり観光というのは、できるなら、できるならば、ただ流されるままに無目的に旅をすることではなく、しっかりと光を観ようとするんだ。その場所、その地域の光を意識的に発見しようとすることなんだ。

それが、TravelでもTripでもない観光なんだ。俺は観光が好きなんだよね。「観国之光」が意味するものが。観光することで日本という国の光を観ることにつなげようとしているんだ。

日本という国は、場所もあるけど、季節もあるじゃないか。春夏秋冬、どの時期に行くかでも観る光が変わってくるじゃないか。光は何色にも変化するものなんだ。時間空間が変わればそれに合わせて変化する。それを捉えるのもまた趣深いじゃないか。だから飽きない。だから終わりがない。それは自分というものが変化しているということでもあるんだ。だから自分というものにも終わりがない。絶えず変化してゆけるから。

こういったことを秋の夜長に考え、まだ見ぬ光に思いを馳せてみよう。自分の人生の先にも、自分の住む町、自分のいる国にも一筋の「光」が差してくるじゃないか。何か日々の日常が意味のあるものに見えてくるじゃないか。

毎日暗いニュースが流れても、自分の思い通りに行かないことが起きても、自分の先にある「光」を忘れるな。そしたら絶対人生おもしろいものになってくる。そして、徐々に自分の意思でめちゃめちゃおもしろいものにしてゆけるから。


「観光」


ありふれた言葉だったけど、良い言葉に思えてきたでしょ。


秋といえば、読書の秋、芸術の秋、スポーツの秋、食欲の秋...睡眠の秋でもいいね。人それぞれの秋を見つけに行こうじゃないか。



そういう気持ちで、光を見つけにGoToしてみよう!


そして、一歩踏み出しのたら、


いけるところまでどこまでもいこう!


頑張らなくていい


楽しもうぜ、永遠に。

終戦の日

一つの絵に目が止まった。

じっと見つめる。よく渡る橋だ。見慣れた景色だ。

空から人が見ている。どの雲にも人がいる。

題名は、『江東 弥生の空 もっと生きていたかった』

弥生の空。75年前の3月10日の東京大空襲を描いたものだ。

今日は、終戦の日。

いつもは目を閉じて手を合わせるのだが、

今日はその後、空を見上げ、ほほ笑みかけてみた。

澄みわたった青い空だ。まさに日本晴れだ。

日本晴れには、もう一つ意味がある。

「心配事、心にわだかまりなどがまったくないこと」

戦争がなく、自然と共生し、いつまでもいつまでもこの青い空が見られることを願い、もう一度空を見上げほほ笑みかける。

東京大空襲•戦災資料センター(江東区北砂)

つながりの輪

4年ぶりに長崎を訪れました。

今年は人々の「つながり」について深く考えさせられる1年となりました。

楽しみにしていた大小様々なイベントがことごとくなくなり、楽しみにしていた学校授業がなくなり、ふとした時にくる会合の誘いも、楽しみに待っていたお盆の帰省もなくなろうしています。今までつながっていた多くのものが断ち切られるような思いをしました。

オンラインで置き換えられた部分、ビジネスを中心にそれがプラスに転じた側面もあると思いますが、逆に私は人間の営みというものは「オンラインには置き換えられない」ことが多いと実感しました。人間というものは、衣食住を物理的に完璧に満たせたとしてもやはり1人では生きてゆけないのです。

長崎でも多くの場所を周り、多くの体験を知りました。

広島と同様、原爆で生き残った人々の多くは「私だけなぜ生き残ったのか」「私はなぜ見殺しにしてしまったのか」と己を責めます。後悔の念を口にします。それは、被爆者の多くが失ったものは、家を失ったことでも食べ物がないことでも衣服が焼けたことでもお金が燃えたことでも、火傷を負ったことでもなく病気になったことでもありません。家族を失った、友人を失った、愛すべき人々を失ったこと、つながりを失ったことによる喪失。そして何よりそういったことを引き起こしてしまったのは自分であるという呵責の念に苛まれることにあると感じました。75年で長崎の街は復興を遂げましたが被爆者の「心の傷」が癒えることはありません。

今年は広島、長崎共に行くべきか非常にためらいましたが、多くの話を伺い、自分の問題と捉え直す機会を得られたことに感謝します。

過去の記憶を未来の人につなげる。世界中の多くの人にこの"つながりの輪"がここ長崎から広がることを祈ります。

2020年8月9日長崎にて


弱さからの出発

初めてこの地を訪れてから21年の月日が経とうとしています。

今年も38歳の誕生日を迎えることができたことに心から感謝し、ここ広島で手を合わせます。

今年は、人間は、誰も一人では生きてゆけず根本的に弱いものだということを痛感されられる1年であった。

ほぼすべての人がマスクをしている。連日、感染者数が報道され、店にものがなくなり、イベント自粛のニュースが流れた。平和記念式典も例外ではなく、去年とは全く違うものとなった。

しかし、ふと耳をすませば、セミは相変わらず賑やかに鳴いていて、見渡せば、木々は鮮やかな緑色をし生い茂っている。去年と変わらず時を刻んでいる。

75年前の姿が想像できないぐらい自然はその強さを見せている。

今年も多くの被爆者の体験を新たに知る機会を得た。

壮絶な体験は誰もできれば思い出したくないし語りたくもない。差別されるかもしれない。でも、残そうと思わないと消えてしまう。その生き抜くことができた人、生かされた人が次の世代に語りつぐ使命として勇気を奮い起こしている。

今を生きる私としては、過去の壮絶な体験を自分の事として受け止め、考え行動する。その過程こそが、過去を未来に伝え原爆の惨禍を2度と繰り返さない方法だと信じて疑わない。

「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」

この慰霊碑のメッセージ。意味がはじめてわかったような気がする。

コロナウィルスで認識した人間の弱さであるが、人々の75年間の勇気や想いが、人間の強さの象徴として、広島から日本、世界中に広がることを祈る。


2020年8月6日広島にて




売上が0になりました

最近めちゃめちゃ連絡もらうんですよ。今まで出会って起業した人たちですね。99%は後輩からですけどね。

「ご無沙汰してます。高野さんのところは調子どうですか?うちの売上が0になりました。」

かなり増えてきたのでここでそれに対する返信を書いておきます。


いろいろな20代の若者が、少ない資金でつまり資金を貯めることなく挑戦できたのが、インバウンド業界の中でも特に民泊業界なのですね。


ここで、今苦しい思いをしている若者に2つのことを言いたい。

1つ目は、

"良い経験になったな。良い時と悪い時を20代でしかも経営者として経験できてるんだから。とんでもない貴重な経験やん。

20代の急成長のために、必要な5つの栄養というものがある。それは"苦労、苦悩、苦痛、苦行、苦境"だ。この1つ1つの意味をしっかり考えながら生かすんだ。

人生の大半は自分の思い通りにいかないことばかりなんだ。それが人生だ。思い通りに行かない時に試行錯誤するんだ。そうして次にうまく生かすんだ。それが成長を促すんだよ。

2つ目は、

"日本で生まれてきた時点で、今おまえが経験してる困難なんてぶっちゃけそうでもないから。たいしたことないから。すべてが揃っている、世界の中でも圧倒的に恵まれている日本に生まれてきてるし、五体満足なんでしょ。そんな状況で生きてこれて、何を悲観してんの?”

あれもダメだ。これもダメだ。あれもなくなった。これもなくなった。と言う前にさ、今まだあるものに目を向けなよ。失ったものより失わずにまだあるものに目を向けなよ。仲間は?やる気は?夢は?失っても痛くないと思える勇気は?若さは?未来は?そして何より、これからいけるところまでどこまでも拡大できる"余地"があるやん。


未来から過去を振り返った時に、コロナがターニングポイントになったと言えるぐらい良い思い出に変えられように。そう思ったらやれることまだまだあるじゃん。

まだまだ先長い未来。想像以上の上昇志向があんだろ?

いけるところまでどこまでもいこう!


がんばろうな。いつでも連絡してこい。飯ぐらいおごるよ。

 

マスクがなくなりました

あのですね、腹立つというか、コロナもここまで長びくとまともな判断できない人が増えますね。ほんとに。
 

先月コロナのニュースが話題になった時に、"マスク"が売り切れましたよね。わかりますわかります。病院や診療所などのニーズだってあるし怖いですもんね。

次にさまざまな施設の感染対策として、"除菌スプレー"がなくなりましたね。わかりますわかります。それは対策しないとダメですね。対策してるアピールにもなるしね。

次に”うがい薬”がなくなりましたね。うがい大事ですもんね。わかりますわかります。予防としてね。

 


次に、ハンドソープがない。ハンドソープがない。って騒ぎだしましたね。


うちもハンドソープなくなりましたよ。キレイキレイがきれいに空になりましたよ。


それでですね、近所のイオンに行ったんですよ。棚を見たら、ハンドソープないんですよ。"品切れ"って書いてて。やはりないかと。

そしてパッと横の棚見たら、

ボデーソープは少しも減ってないんですよ。


いやいやいやいやいやいやいや、手洗いはなんでボデーソープじゃアカンの?


なんで?なんでアカンの?ほんまに。まじめに。なんでアカンの?


例えば、お風呂入りますね。シャンプーとリンスで頭洗います。次に洗顔で顔洗います。ボデーソープで体洗います。

あ、ちょっと待て。手だけはしっかりハンドソープで洗っとかな...


ってなるわけないやろ!!!


どう考えてもボデーソープやん。むしろボデーソープであるべき一番の部分は完全に手やん。まず手やん。


となると、ハンドソープより、よりデリケートな上位の品質のものとしてボデーソープやん。ボデーの方がナイーブやん。the most ナイ〜ブやん。
 

だったら、ハンドソープないなら、ボデーソープ買えや!形状が嫌なら、詰め替え用のボデー買うて、ハンドソープのボトルに入れろや!流し込めや。プッシュしたら一緒やん。


なんでわからへんの?どうゆうことなん?


石鹸しかないならまだわかるんですよ。石鹸でもぜんぜんいいんだけど若干キツいじゃないですか。他の人が使った石鹸て...もしかしたらうつるかもってなる人もいると思うんですよ。


ボデーソープはええやろが!ボデーソープはむしろええやろが!


だからボデーソープの方が低刺激とか薬用とか肌に合うとかぜんぜんこだわってるゆーねん!


たとえば、しょうもない民泊とかゲストハウスとかアジアのバックパッカーズホステルとか行った時にね。シャワー浴びます。浴室入ったら、シャンプーあります。でもリンスがない。リンスinシャンプーってなってる。
 

これは嫌なんですよ。一番嫌なんですよ。リンスorコンデショナーがないのが。髪がバッシバシになるじゃないですか。


もっとひどいところだと、浴室入ります。何かボトルが1つだけあります。パッケージ見ると「シャンプー+リンス+ボデー」てなってます。これはキツいですね。全部一緒。大事なところタダレてまうんじゃないかとか。ハゲちらかしてまうんじゃないかとか心配になりますね。
 

これは絶対嫌なんですよ。WiFiがない施設より嫌なんですよ。
 

でもですよ、ボデーソープが洗面所にあります。それはぜんぜんいいじゃないですか。「あ、これで手洗うんやな」ってわかるやん。
 

その逆はいけるか!?
 

浴室入ります。シャンプー、リンス、ハンドソープ。
 

いけるかー!ボケ!

即クレームや。体の方がナイーブや!

 

しのごの言わず、はよ、ボデーソープ買え。docomoのたまったデーポイントでしのごの言わずはよ買え!40倍キャンペーン中のデーポイントではよ買え!

摩擦を起こす

週末に入る前に1つ。
 

人生って、本当に楽しいですよね。僕は人生を悲観することが少年時代から比べるとどんどんなくなってきました。特に35歳超えてからはまったくなくなりました。なぜか?
 

「自分はどのような状況になったら、人生を悲観するか」と時折考えてみるようになったのです。


仕事で失敗する。

失恋する。

誰かにバッシング、非難される。

誰かにパッシング、無視される。

事業で失敗して全て失う。

何か大きなものに自由や権利を奪われそうになる。

不治の病にかかる。

何かにいくつかの自由を奪われる。

連行され、そして拷問される

強制隔離されすべての自由を奪われる。

 

順番をどうするかは人によりますが、最悪と捉えるものを程度で考えてみます。そしてその状況を、最悪と想像するためにはその状況がどのようなものかを知ればいいのです。列挙したものを想像するために必要な事柄を学びます。いや既に学んだからこそ、最悪と捉えられるのかもしれませんが、より明確になるまで勉強します。
これらは人間の歴史においてそのような状況がありましたし、列挙した中で最も最悪なもの、つまり一番下から歴史が始まり進歩したと言ってもいいかもしれません。

そう思うと今が最高の状態と捉えることができます。つまり自分が考える最悪な状況というのはたいした悲観するような状況ではないということです。

 

しかし、自分がさまざまな事柄に触れ、それらを自分の血や肉になり、周りの事柄がある程度想定可能で悲観するようなことはないという確信に変わったとしてもそれはマイナスがなくなったということで、プラスを生み出すことはまだできないかもしれません。それは「石橋を叩いてみたけど、まだ渡れない」状態と言えるかもしれません。
 

次に、一歩を前へ出る時の心構えについてです。

ここで質問です。みなさんはキャンプに行ったことがありますか?

田舎出身の人は、少年時代は毎日がキャンプだったという人がいるかもしれません。子どもの頃、僕は夏はテントに冬はかまくらに住みたいと話していましたが今となっては完全に常軌を逸してますね...自分だけの基地を見つけるのが好きだったのです。

 

キャンプで火をおこしたことはありますか?

木を敷いて、そこに木を突き刺して擦り、煙が立ってきたから紙をくべるやつです。そうです。あれです。

 

あの体験というのは、少年時代、僕の中では非常に記憶に残っています。木という道端に落ちていて、家を立てる時にも使う、一見安全でなんの変哲もないものから、なぜ火のような強大なかつ恐ろしい存在が生まれるのか?我々人間は2人で擦り合わせても火は生まれないですよね。「おい!やばい!火事だ!」となったら怖くてハグすらできないですよね。
 

あの火が生まれる瞬間の「摩擦」。あれこそが人生で大事だと思うのです。摩擦があるから、そこから強く燃え上がる、今まで見たこともないような力が生まれると。
 

摩擦というのは、自分の人生においては、自分と異なる意見のことかもしれないし、自分と異なる文化に触れることかもしれないし、自分と異なる環境に身を置くことかもしれない。その摩擦は、危機をもたらすかもしれない。自分はそれを排除してしまうかもしれないし、逆に排除されてしまうかもしれない。それを取り込んで自分の糧にできるかもしれないし、混ぜ合わせて新たな何かを生み出すかもしれない。
 

その摩擦、摩擦の1つ1つが、子どもの頃、細長い木で何度も擦り合わせていたあの動作と重なりますよね。決して1回では火はつかないし、もしかしたら火がつかないまま諦めてしまうかもしれない。ライターもチャッカマンもない時代。なんとかああしよう、こうしようと木の長さを変えたり、木を削ったり、早く擦ってみたりと、摩擦をうまく扱おうと工夫してみるでしょう。
 

ここまで来るとわかることがあります。悲観がなくなったとして、次に起こすのは「摩擦」なんです。

この摩擦を起こさないことには、火を生み出すことはできないのです。


「摩擦」は、他の何にも触れずにいては起こすことはできません。1度や2度ではなく何度も何度も摩擦を起こさないとその先の火は生まれないのです。毎日の日常生活で摩擦が起きる瞬間はどれほどあるでしょうか。
 

やっとのことで火が生み出すことができて、ある程度の大きさになれば、燃え上がるのはそれほど難しいことではありません。逆に消す方が難しいでしょう。その大きくなった火、つまり炎というのは、夢や成功に向かう情熱のようなものかもしれないし、何か事業の成長のようなものかもしれないし、何か幸せのようなものと置き換えられるものかもしれません。
 

そう考えると、自分の中に火が生まれるまで何度も何度も擦り合わせること、最初に何度も何度も摩擦を起こそうとすることが難しいのです。それこそが自分の意志で、自分で考え選択しやるべきところなのです。
 

「若者よ海外に出よ」とかつて書いたのも、この「摩擦」の起こし方の具体例にすぎません。摩擦を起こせるなら、新興国で異質な体験をせずとも、どんな体験でもいいのです。今目の前にいる外国人の観光客に道案内をすることも草の根の異文化交流という観点からは良いかもしれません。
 

若ければ若いほど、自分の周りには知らないこと異質なことがたくさんある。そこから一歩前へ、摩擦を怖がるな。安住するな。怖い時は、悲観の程度を知りさえすれば、怖いものは実は自分の頭が勝手に作り出しているもので、大したことではないんだよ。

人生って楽しくなってきましたね。

 

Just do it!You can do it!
 

10代、20代、30代、いや死ぬまでいけるなら絶対いっとけ!

この調子で、いけるところまでどこまでもいこう!

事業譲渡のご報告

ご報告が遅くなりましたが、今月8月1日、37歳の誕生日を迎えた日に弊社チャプターエイトのメインプロダクトである「ABCチェックイン」を事業譲渡いたしました。

5年前にインドネシアより帰国し、「国と国を隔てるあらゆる障壁を乗り越え、人々が共有共感し合える世界を創る」ことを目標に2015年に株式会社チャプターエイトを創業しました。

訪日外国人とそれに伴う民泊の増加を鑑み、

「人々の草の根の交流こそ、最大の安全保障」

と考え、民泊が合法化されるタイミングで必須となる"無人空間での本人確認業務"に着目し、ABCチェックインを去年よりローンチ。多くの宿泊施設にご利用いただき、心より感謝しております。この度、業界のさらなる成長とシェア拡大を目的とし、ABCチェックインを譲渡することにいたしました。

今回の件に際し、惜しみないアドバイスをくれた起業家やファイナンス業務に従事している諸先輩、契約書レビューしてくださった國峯弁護士、譲渡先あるエイジイの皆さま、そして弊社で開発や営業CSを担当している皆さまをはじめ多くの方々に感謝申し上げます。ご協力ありがとうございます!

いや〜それにしても、起業する前に予想はしていたが、それを楽勝で超えるほど予想外のことが起業してから本当にたくさん起きますね。起きることの大半は、やはり自分の思い通りにいかないことです。高波に襲われたらこんなところまで流されてしまったか...と思うこともしょちゅう。ただ、今までは未知であった自分に振りかかる問題を、必ず将来役立つことであろう自分の糧と捉え、一つ一つを自分の経験にしていくことは、たまらなく楽しいことでもあります。

これからも変わらず、いけるところまでどこまでもいきたいと思いますので、引き続きよろしくお願いいたします!

高野勇斗

「民泊向けセルフチェックインアプリ「ABCチェックイン」の事業譲渡につきまして」

74年目をむかえて

初めてこの地を訪れてからちょうど20年の月日が経とうとしています。
 

今年も37歳の誕生日を迎えることができました。


毎年ここを訪れるたびに、死の悲しみと同時に生の喜びを感じる。


生きたくても生きられなかった人たち、生き延びてもなお苦しんだ人たち、共に生きようとしていた人を失った人たち、その人たちが「平和をよろしくね、平和をお願いしますね」と呼びかけているように感じます。


広島は原爆投下直後「75年間は草木も生えないだろう」と言われました。


74年後の今を生きる僕たちには今の広島、今の日本がはっきりと見えていますよ。

1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>