私高野勇斗の半生(誕生〜大学時代) | 主体性こそ集大成-Beyond the Borders-

私高野勇斗の半生(誕生〜大学時代)

[前編]進出のリアル-アドウェイズインドネシア高野社長

 

プロフィール:高野勇斗(たかの はやと)

1982年生まれ。北海道函館出身。早稲田大学卒。2007年インターネット広告代理店のアドウェイズにに入社。入社わずか1ヶ月後から大阪支社立ちあげに始まり、名古屋、福岡支社を責任者として立ち上げる。その後、2011年よりインドネシアに渡りPT. Adways Indonesiaを設立しインターネット関連事業を開始。デジタルマーケティング事業、メディア・ゲーム事業に続き、PC・スマートフォン向けのアフィリエイトサービスなど、複数の事業を手がけている。

こどもの頃から「自分で決めて、自分で掴み取る、目立ちたがり屋」

−− どういう幼少時代を過ごしたんですか?

3歳の時に両親が離婚して母子家庭だったんですよ。なので何でも『自分で決めろ』と母親には言われてきました。だから誰かに何かをしてもらうことや、強制させられることがない時代を送ってきました。


−− なるほど、ちなみに小学校の通信簿にはなんて書かれてました?

落ち着きが無い。協調性が無いっていつも書かれてました(笑)。とにかく「目立ちたい、モテたい!」って思ってましたね。劇の主役にいつも立候補するタイプだったんですよ。でも、ある年のバレンタインデーのチョコの数で、同じサッカー部員たちに完敗して自覚したんです「俺はモテない奴なんじゃないか」って。友人は9個くらいで自分は2個だった。そこからは『これは目立ち方を考えなければ』と思い始めましたね。それとそれ以来、甘いものが嫌いになりました(笑)


−− その後どうなっていったんですか?

幸い、勉強はできる方だったので、中学までの成績は良かったんですよ。それで高校は地元の進学校に行くことができたんです。けどその中では落ちこぼれてました。学年で280人中260番くらい。進学校だったので、同級生は親が地元の公務員や医者などが多かったですね。。母子家庭は自分だけでしたね。


ビッグになる!政治家になる!決意させた一枚の写真との出会い

−− 将来政治家になる!と明言されてるんですけど、どういうきっかけなんですか?

修学旅行で広島の平和記念資料館に行った時のことです。鮮明な記憶ではないのですが、偶然目に止まった写真に衝撃を受けたんです。既に亡くなった弟と思われるこどもをおぶっている、いわゆる「火葬場に立つ少年」と、お母さんが助けを求めて叫んでいるけど、腕の中のこどもは既に亡くなっているという写真でした。

担任の先生に声をかけられるまで、気づいたら2時間ぐらいそこに一人立ち尽くしていたんです。


その時「戦争ってなんなんだ」と思いました。そして日本人としての責任や日本人であることを初めて強く認識したんですよ、この時に。これ(戦争)って今後も起きるんじゃないかと思ったわけです。

そして、その時「じゃあ、お前をあの時代に戻してやると言われたら、『是非いかせて下さい』と言えるのか?」という質問が頭に浮かんだんです。この時代に自分が生まれたとしたら、原爆投下を止められたか、戦争に反対することが出来たのだろうか。多分爪の間に針とか刺されて、ボコボコにされて拷問受けたりしたら「戦争バンザイ」とか言っちゃうんじゃないか。

それで思ったんです、今の高2の小さい自分では駄目だ。世の中の空気が変わった時にも自分の意見を貫ける人間に、つまり世の中を変えられる人間になろうと。じゃあとにかくビッグなやつになろうと決めたわけです。ビッグになる理由は分かった。じゃーどうするか?


−− どうしようと思ったんですか?

短絡的なんだけど、「じゃあ政治家になろう、というか総理大臣になろう」と思ったんです(笑)


−− 面白いですね(笑)普通一枚の写真からそこまで思わないですよね。ビッグになろうとか、政治家になろうとか。

その時は視野狭窄なんですよ。函館の片田舎出身の高校生ですから。みんながみんな「ビッグになりたいもの」だと勝手に思い込んでましたし、政治家になるには東大に行くしか無いとも思ってました。短絡的ですから(笑)でも、東大入ってやる!総理大臣になってやる!とかビッグマウスたたくのに何もやっていなくて、当然東大には入れず、最終的にギリギリ早稲田大学にひっかかることができました。   


田原総一朗氏が塾頭。ネクストリーダーを養成する「大隈塾」に入塾

-- 早稲田大学に入った後はどんな日々を過ごしてたんですか?政治家になる勉強とか?

早稲田入学後、特に何かやれていたわけじゃなかったんですが、大学3年の頃に「大隈塾」というものに偶然出会いました。当時、小沢一郎氏や前原誠司氏、宮澤元首相などの大物政治家や各界のとんでもない大物が毎週交代で田原総一朗先生と講義をしてくれる人気の塾です。倍率がものすごい高かったのですが運良く通ったんです。

でも、僕はその大物ゲストが話していることが全然理解できなかった。議論にも参加できず、同級生や後輩には下に見られていたと思います。

こいつらは政治家になりたい、そして俺も政治家になりたい。でもこいつらはゴールやルールが決まっている中では、むっちゃくちゃ強い。これは一緒の土壌では100%勝てないと思ったんです。だって圧倒的に僕は、勉強が足りない、劣等生なんですもん。こりゃヤバい。何とかしないと、と思ったんです。

でも、欲に流されてるわ、楽の方に逃げようとするわで、特に何もできていない日々なわけです。昼は大学、大隈塾、夜はバーバリーブラックレーベルやドルガバで身を固めて、手には"University of Tokyo"と印字されたバッグを持って出勤し、渋谷で「カラオケいかがすか〜」とかキャッチとかティッシュ配りしているめっちゃくちゃ気持ち悪いやつになっていたんですよ(笑)

でもギャル男とかになりきることもできないし、渋谷でバイトの合間にも、朝日新聞とか読売新聞のバッグに入れて、社説とか比較読みしているし、ほんと中途半端な気持ち悪いやつでした。


ホリエモンとITの世界の衝撃、そしてアドウェイズとの出会い

-- そんな日々だったのがどうして今につながるんですか?

ある日、ニュースでホリエモンこと堀江さんの近鉄買収と選挙出馬のニュースを見て衝撃を受けました。インターネットもライブドアもよくわからない僕だったんですが、そのホリエモンが今度は無所属で出馬すると世間を賑わしてたんです。この人、もともと金やコネ、そういうものは何もなかった。この出馬も無所属じゃなくて、もし自民党に公認してもらってたら受かってたんですよ。

それとサイバーエージェントの藤田さんの『渋谷ではたらく社長の告白』と出会ったんです。サイバーエージェントの何がキラキラしているかって、社長がキラキラしているんです。当時から、社長が世間に露出して広告塔として知名度を拡大していたんです。


-- なるほど、そこでIT、政治家、ビッグになる、とつながるわけですね。

そうです。政治家が、他の職業とただ1つ決定的に違うのは「選挙に絶対勝たなきゃいけない」ということなんです。そのためには多くのひとに自分のことを知ってもらう必要があります。良く思われても、仮に悪く思われてもいいのですが、その判断を国民にしてもらうには、まず自分を自分の考えを知ってもらうこと、知名度が絶対的に必要なんですよ。

ふつう上場していて大企業の社長の名前とか顔とかあまり知らないですよね?でも堀江さんや藤田社長は既存の業界に新たなものを持ち込んだり、ルールがないところを自分の力で事業を作り上げて、結果的に世間に注目をしてもらい、知名度を上げている。『こりゃヤバイ!これだ!』と思いました。

ルールやゴールが整っている世界では自分より強い人がたくさんいる。でも彼らみたいに、ルールが無い世界、整っていない世界において、自分の力で事業を興して成功するというやり方でなら勝負できるんじゃないかと思いました。

ちなみに、この時大隈塾ゼミの卒業論文で「いずれネット選挙の時代が来る」という内容で書きました。ネット広告費が伸びていて、ちょうどラジオの広告費を抜いた頃。ネット選挙の時代が来れば、ネットのこと、特にネットのマーケティングにくわしい人が、選挙で有利になる。という主張。ゼミ担当でジャーナリストの高野孟先生には「高野、論理が破綻しているじゃないか」と怒られたんですけど、最近、あれ!?もしかしてちょっと文章力はおいといて、書いた内容自体は徐々に実現に近づいてきているんじゃない?と思ったりしてます(笑)


就職活動とアドウェイズとの出会い

−− アドウェイズにはどういう経緯で入ったんですか?

最初は政治家に、大企業出身者が多いのもあってそこを目指したんですよ。でもぜっんぜん受からなかった。しかも行きたいなと思った会社も、僕が気づいた時にはエントリー終わってましたね(笑)その後、ライブドアや『渋谷で働く』に出会い、ベンチャー企業を目指すのですが、サイバーエージェントも落とされました。それでIT系企業の「あ行」から探しはじめて、出会ったのがアドウェイズです。


−− 「あ行」からですか(笑)。でも、何でアドウェイズだったんですか?

究極的には会社の経営目標がすごくよかった。「世界のインターネット商社」っていう、規模や場所も含めて限定していない、さらに「日本一」とか目標が小さくないんですよ。規模も限定していなくてよくわからないけど、「世界のインターネット商社」って曖昧だけど、すごいことやるんじゃないかと思ったんですよ。

そして、中卒で見た目がちょっとチンピラみたいな岡村社長と、当時取締役なのに金髪だった松島さんが衝撃的だった。あと、すごいくすぐられる言葉をかけられたんですよ。『高野くんって、大企業に入るのと、大企業作るの、どっちがいいと思う?』とか。その後内定決まった後すぐ『高野くん、次の講演会出てよ』とか『夕食行こう』とか『オーストラリア行っていいよ』みたいな。今でもくすぐられ続けてますけどね(笑)でもこんなコンビはいないんですよ。クレイジーだなと。



−− 入社後はどういうことしていたんですか?

新卒入社1ヶ月後に大阪支社立ち上げに始まり、名古屋、福岡と立上げばかりをやってきました。東京から西へ西へと立ちあげまくってきた、結果福岡まで来て、その先に海しかなくなった。それで(中国は既に他の社員が行ってたので)東南アジアに目を向けて、実際にいくつかの国を回ろうと計画してました。それでインドネシアに行った瞬間「ここにしよう!」と思ったんです。携帯はめちゃくちゃ使われてるし、人口も多いし若い。だけどインフラは整ってないし、生活環境も決していいとはいえない。国自体が整っていない。でもだからこそチャンスだと思いました。そういう整っていないところを切り開いてビジネスを立ち上げていくことこそ自分の強みが活かせると。