主体性こそ集大成-Beyond the Borders- -5ページ目

ビッグボイス

あのですね、これは昔からの悩みなんですけど、ミーティング中に、

 

「今から話すことは、社外秘でお願いしたいんですけど...」
「これはNDAものの話なので、シーですよ。」
「これはここだけの話なんだけど...」

 

ミーティング終わって、となりの部屋行ったら、声が丸聞こえらしいんですよ。内容まではわからない言ってましたが、存在はバレてしまうんですよね。となりの人が、耳をダンボにしてたら危ないんですよ。

 

もうね、本当に昔からそうなんですけど、声がものすごいデカイんですよ。それ以外もデカイんですけど、態度とか、唇とか、特に声がデカイんですよ。

 

3年前、青山で50人ぐらいの前で講演した時も、マイクがONになっていなかったのを開始1時間後に気づいたとかね、聴講者も誰も気づかないというね。マイクONにしてからの方が、若干音小さかったですから。

 

大阪支社立ち上げ時代も、僕ともう1人がオフィスでテレアポしていたら、僕の声の方がデカすぎてデカすぎて、もう1人の電話の先の人が、そいつじゃなく僕の声にウンウンうなづいて、しまいにアポが取れてしまったとかね。とんだダブルブッキングですよ。

 

声デカエピソードにおいては枚挙にいとまがないんですよ。

もし『太陽にほえろ』に出られるなら、声デカならぬ声刑事として、最後は「なんじゃこりゃ!」をジーパン刑事以上の声量で絶叫して殉職したいぐらいなんですよ。

 

もおおおおおおお!ぬおおおおおお!

 

気を取り直して次のミーティングへ。

 

あ、今ここで語った話も、内密にしておいてくださいね。お口にチャックで。頼みます。

マイ広辞苑

土曜日なので、若干マニアックな話というか相談していいですか。

 

昔から僕だけの広辞苑、マイ広辞苑を作成中でしてそれに関することなのですが、

 

仕事でもプライベートでも、ある人から何かお願いをされた時に、「わかりました」「了解」と言うのではなく、「余裕です」「すぐできるよ」と回答して自分の能力ややる気を見せたり、そのお願いがそんなに自分にとって重荷じゃないよと、依頼した相手を安心させようとする時ってありますよね。

 

僕ね、ビジネスもプライベートでも依頼してくれた相手をもっともっともっともっと安心させたいというか頼もしい男だなと思わせたいんですよ。

 

その際の回答としては、もはや「余裕」「楽勝」「すぐできる」「お安い御用」ぐらいじゃダメじゃないですか。ありふれてるじゃないですか。ありふれすぎて若干漏れ出してるじゃないですか。もっともっと思わせたいんですよ。思わせていきたいんですよ。僕は。

 

では「そんなの朝飯前だよ」という回答ならいいんじゃないかというにことなるんですけど、これも昔からけっこう使われてますよね。余裕だよとあまり受け取る側の安堵感は変わらないですね。

 

ならばですよ、これならどうですか?

「高野さん、〇〇さんを紹介いただけないでしょうか。」

 

高野「そんなのぜんぜん朝飯前むしろ夜食後ですよ!」

 

「はやと、この件について今調べていて、わかるなら教えてほしいんだけど来週あたり会えない?」

 

高野「そんなん夜食後だよ!オッケー!」

 

この「夜食後」ってのを使うのはどうですかね。

 

---------------------------------------------
夜食後【読み:ヤショクゴ】

夜食でお茶漬けすすって満腹になり、もう寝よかなと思って布団に入った後うつらうつらしていてもできるほど、物事がものすごいたやすいこと。またはそのようなさま。派生して非常にたのもしい人。そのような人の総称。

例 「彼らの生き様はまさに夜食後だ。夜食後そのものだ。夜食後すぎて寝小便をしてしまいそうだ。」
---------------------------------------------

One

僕ね、中国の上海からちょっと離れた町で小籠包をおまけしてもらったことあるんですよ。中国語一言もしゃべれなかったですよ。あのおっさんの「にーちゃん、もう1コおまけだ。持ってけ!」あの顔良かったな〜。

 

オーストラリア留学中に、ゴールドコーストで溺れて死にかけたんことあるんですよ。もうダメだな、ああ死ぬなと思った時にいきなり腕をぐっと掴まれて助けてくれたのが、徴兵制を終えて留学していたたくましい韓国人でした。

 

インドネシアでもシンガポールでもタイでもマレーシアでも台湾でもポーランドでもスペインでもスウェーデンでも行く先々でそういう人必ずいますよね。

 

僕ね、国というものを枠組みとして常に考えているのですが、国を構成している人、

 

1人1人の顔をずっと見つめていますからね。その上で発言するようにしています。いつの日も。原爆ドーム、平和記念公園の地下で、毎年、戦没者約14万人以上の1人1人の顔写真を眺めている時と同じように。長崎の資料館で7万5000人以上の1人1人の顔を眺めている時と同じように。アウシュビッツで収容される時に撮られた髪も眉毛もない1人1人、1枚1枚の写真を見る時と同じように。市民、国民どころか地球人として世界市民として、すべての問題を自分の問題と捉えようとする。

 

1人1人の顔を思い浮かべて。

 

その人々の笑顔が2度と消えることのないように。

若者のすべて

20代の皆さまへ

 

お願いがあります。今を死ぬほど真剣に生きてください。誰とも比べることなく、夢に向かってただがむしゃらに。それができなかった30代以降の人の勝負決まった感がハンパないです。それを変えられるのは20代の貴重の時間しかありません。30代で目が輝いてる人がたまにいます。それは10代20代で輝こうともがいてもがいてもがきまくったほんのわずかな人です。絶対貴重な時間を無駄にしないでください。

 

僕はその光景を完全に目の当たりにしました。絶対にゆらぎません。経営者でも政治家でも今後どんな職業に就いても。若者に光を。

 

昔は、長いこと100m短距離走で10秒をきるのは難しいと思い、誰もが諦めていました。でも、それがやぶられた瞬間、多くの人が9秒代で走れるようになりました。今では当たり前の事実です。

 

昔は、米国で黒人は、白人とバスに一緒に乗ることさえできませんでした。ホテルもそうです。職業はいわんやをやです。すべての黒人は諦めてました。ただその中で、諦めることをしない人がおりました。南アフリカでもインドでもそのような状況で諦めない勇敢な若者がおりました。みんな20代の若者でした。

 

その後どうなったと思いますか?その人の命と引き換えに、世の中は変わりました。指導者の勇気が世界を変えたのです。彼らは暗殺されたり投獄されましたが、世界を変えたのです。

 

99%の人が諦めていたのです。俺は私は黒人だからダメだ。植民地にされ支配されてるからダメだ。

 

能力の問題ではありません。意識の問題です。それを事実と受け入れてしまえば、それまでです。あなたも世の中も変わりません。一生何も変わりません。それを変えられるのは、若い人の勇気ある行動、主体性なのです。それしかないのです。

 

多くの人ができない理由ばかり述べます。悪いことではありません。未来が見えてないのです。だって先が短い未来をどう描くことができますか?難しいです。未来を描くのは20代、まだ生きてきた過去より、これから生きる未来が長い20代の君たちなのです。君たちは、まだ100mを9秒代で走れるのです。君が世界を変えられるのです。人々を笑顔にできるのです。

 

そのためには、君はできる理由しか考えてはいけないのです。君の前途に、すべてを実現できる未来があるのだから。

 

おっさんやおばさんが諦めの言葉やできない理由を述べても絶対信じないでください。彼らは君に自分と同じ人生を歩んでほしいと手招きしてきます。絶対信じないでください。彼らは自分の仲間が欲しいだけなのです。絶対信じないでください。

 

もう1度いいます。君は、100mを10秒きることができます。だって過去に、10秒きれないと思った人と10秒をきれると思った人、そしてそれを実現した人は、すべて同じ人なのだから。意識の問題です。意思の問題です。君は君という人生の主人公です。主体性を発揮して必ず世界を変える人になってください。僕もその気持ち、17歳の頃から変わりません。体力が衰えようとも、ずっと17歳の時抱いた夢を持ち続けています。死ぬまで変わりません。永遠に。


いけるところまでどこまでもいこう!

一人一人違う顔

僕ね、中国の上海からちょっと離れた町で小籠包をおまけしてもらったことあるんですよ。中国語一言もしゃべれなかったですよ。あのおっさんの「にーちゃん、もう1コおまけだ。持ってけ!」あの顔良かったな〜。

オーストラリア留学中に、ゴールドコーストで溺れて死にかけたんことあるんですよ。もうダメだな、ああ死ぬなと思った時にいきなり腕をぐっと掴まれて助けてくれたのが、徴兵制を終えて留学していたたくましい韓国人でした。

インドネシアでもシンガポールでもタイでもマレーシアでも台湾でもポーランドでもスペインでもスウェーデンでも行く先々でそういう人必ずいますよね。

国というものを枠組みとして常に考えているのですが、国を構成している人、一人一人の顔をずっと見つめていますからね。その上で発言するようにしています。いつの日も。原爆ドーム、平和記念公園の地下で、毎年、戦没者約14万人以上の一人一人の顔写真を眺めている時と同じように。長崎の資料館で7万5000人以上の一人一人の顔を眺めている時と同じように。アウシュビッツで収容される時に撮られた髪も眉毛もない一人一人、一枚一枚の写真を見る時と同じように。市民、国民どころか地球人として世界市民として、すべての問題を自分の問題と捉えようとする。

一人一人の顔を思い浮かべて。

その人々の笑顔が二度と消えることのないように。

鶏が先か、卵が先か

もうあのですね、さっき起きたことなんですけど、もうショックショックで...今週1週間良くないこと起きるんじゃないかなと思えるような事件で。多くの人には共感していただけないかもしれませんが、話していいですか。

 

さっきですね、1年に1,2回発作的に必ず訪れるんですけど、めちゃめちゃ親子丼が食べたなりまして、発作でコケコッコー!クックドゥルドゥー!って叫びたくなるほどになったので、渋谷と表参道の間のけっこう良い感じの店に1人で食べに行ったんですよ。

そこは、高級な地鶏と殻が茶色い濃い〜黄色の玉子を使っていて、けっこう良い値段するんですよ。1000円以上するんですね。それで、10分ぐらい待って、親子丼が出てきたんです。

 

そしていざ食べようと思った時に、僕親子丼を食べ慣れていなくて、どこから攻めていいかわからないので、とりあえず鶏肉を持ち上げて、口に持っていこうとしたんです。口に入れようとした瞬間に、軽く目つぶりますね。それで口元どころか手元も緩くなったんでしょうか。鶏肉が箸をすり抜けてテーブルの端に当たって床に落ちたんです!それで、あああああ!ってなって、親子丼を改めてしっかり見て、事態の深刻さに気づきました。

 

その親子丼、鶏肉が3つしか入ってないんですよ!ゴロンゴロンとした鶏肉3つしか入ってないんです!とろっとした卵を裏返しにしたり、ご飯をほじくり返したりしても、鶏肉が合計3つしか入ってないんですよ!大きいとはいえたった3つですよ。その3つのうち1つを失った今、僕はこの大量のご飯と卵とどう戦えばいいんでしょうか。どう対峙していけば勝つことができますでしょうか。

 

さらにいうと僕ね、卵、特に半熟の卵を食べ過ぎると具合悪くなるんですよ。ものすごい具合悪くなるんですよ。保健室行きたなるんですよ。卵かけごはんとか苦手なんですよ。もうこうなってしまった以上、後悔しかないです。

 

もし僕が親子丼を食べ慣れていれば、まず鶏肉の個数を確認して、卵の半熟具合とご飯への浸透度合いを確認し、そして「あ、これは鶏肉をもし落としたらもうゲームオーバーだからどんぶりを持ち上げてお茶漬け風に掻き込みながら食べようかな。」とか「あ、これは卵ゆるゆるだから箸よりスプーンで食べた方がいいかな。」とかありとあらゆる攻め方を3分ぐらい吟味してから食べればよかったんです。

 

結局僕は、もし鶏肉を1つ落としていなければ食べれていたであろう量のご飯と卵を残して帰りました。3分の1ぐらいの量ですわ。もう少し頑張ればよかったんですけど、卵とつゆでご飯もシャバシャバでダメでした。店員にスプーンをもらって食べればよかったのですが、スプーンもらう前にさじを投げてしまいました..

 

こういうことって日常で良くありますよね。まず、理論を先に学んでから実践するか、または実践して失敗を重ねながら真理にせまる答えを体得していくか。

 

まあどっちも必要という意味では結局、

 

「鶏が先か卵が先か」

 

みたいな話なんですけどね。

 

もういいわ。ありがとうございました。

なぜ大阪の軽犯罪は記事になりやすいのか

土曜日なので、ものすごいマニアックな話していいですか。

 

Yahooニュースなどで事件の速報でますよね。僕ね、その見出しだけで、その事件が「大阪で起きたかどうか」だけはだいたい瞬時にわかるんですよ!大阪の事件というのは、記事になりやすいという法則があるんです。

 

特に中年のおっさんが起こした事件はほぼ確実なのですが、「その事件を起こした動機(理由)のところで若干ボケる」んですよ。大阪は日頃から警察との距離が近いからなんです。そして警察が、その若干ボケた動機をそのまま事件帳に記載して、これまた距離が近いマスコミに発表するでしょ。そのまま記事にしよるんですよ。

 

最近ですと、

 

消防士、女子高生の胸触った疑い 「筋肉確認しただけ」

 

もうなんでそれで罪逃れられると思ってんねん!筋肉確認だとしても犯罪や!フィットネスクラブか!整体院モノか!考えられないでしょ。確実にボケてるんですよ。要するに、ツッコミ待ちなんです。

 

「男子高生にAV見せ股間触る 「距離感誤った」教諭停職」

 

これもね、「距離感誤った」みたいな発想というかボギャブラリーは普通出てこないでしょ。「配慮が足りなかった」ならわかりますよ。「距離感誤った」の距離感って何?間合い?そんなん使う?「おまえ、トークの時、もっと入ってこんかい」みたいな発想が、そもそも他の地域でないんですよ。なので、これは記事見るまでもなく、大阪で起きた事件です。男子高生にAV見せてる絵すら想像できるぐらいですね。

ちなみにですが「距離感」という言葉を使ったネタがこれですね。


「カレーうどんの汁を飛ばさずに食べる方法」

 

だから全員笑かそうとしてるんですよ。犯罪、特に軽犯罪へのハードルがごっつ低いんですよ。横山ノック知事の選挙カー事件が代表ですよ。

馴れ合いの文化で、人と警察とマスコミの距離感ですらぐだぐだになってるんですよ。「三方悪し」なんですよ。

 

めっちゃ好きで、ごっつ腹立つ街、大阪。

夢も成功も主観、階層は客観。人と比べて満足したまま終わんな。

先日こんな記事を発見した。
『社会の底辺から階層を上ると、努力しない底辺が許せなくなる』

(どうやら「立身出世?」に関してと、その人が陥るらしい「生存者バイアス」というものについて長々と書かれている。「出世」に関しては書かれているが「立身 」についてはくわしく書かれていない。人の人生の最初である生い立ちの部分がファジーになっている。)

まず日本だけに限っても「世の中生まれた時から、まあまあ不平等です。」(”まあまあ”というのは、僕がインドネシアに住んでいろいろ考えたので日本は”まあまあ”です。)唯一平等だったのは、アダムとイブだけです。理由は簡単、アダムとイブには親がいないからです。公平だとしても、親が皆違うので結果平等になりません。

「立身出世伝」というものがあります。本でも番組でも映画でも、今日であっても最も人気があるテーマの1つです。仮に「立身出世しない伝」というものがあっても、誰も見ません。理由は簡単、立身出世することがめずらしい、つまり難しいからです。その人の努力や周りの人の助け、強い多くの運を普通の何倍も必要とするからです。感動のストーリーが生まれやすい。

これは何を意味するかというと、立身出世いうぐらいですから、階層が存在することに他なりません。

「階層」とは何か。士農工商の時代ではないので、明確に規定されていません。何がその階層を決めるかなのですが、日本ではどうやら「職業」または「年収」のようです。

ちなみに、「成功してない起業家」は底辺です。何を持って成功かはおいといて、93%が成功しないとなるともう底辺です。底辺というか地下です。地下にどんどん潜っています。この女性から見たら、卑下の対象です。モテない職業1位です。収入がないどころか借金ある人多数です。
ただ、この階層の地下深いところをもぐっておりますので、そろそろ温泉か徳川埋蔵金が出てくる可能性があります。温泉か埋蔵金を掘り当てたら、一気に上昇します。なんの例えやねん笑

「生存者バイアス」について。これなんですが、そう思われるんでしょうね。そう見られるんでしょうね。ワタミ創業者の渡邉さんの話が出てますが、そう見られるんですよ。
成功は一足飛びにできないということに尽きると思います。加えて、成功というのは、主観的なことなんです。成功=幸せでもないです。夢を叶えるということを成功としている人は、「階層」が存在していることは知っているのですがぶっちゃけ「階層」なんてどうでもいいのです。「階層」は客観なので。むしろ「階層」をも自分の問題と捉え、解決是正しに行きます。

「無理というのは、嘘吐きの言葉なんです。途中で止めてしまうから無理になるんです。-渡邉美樹」

会社の経営者である渡邉さんが、誰に対して発した言葉なのか。これは、ワタミの従業員とワタミに入社してほしい方、つまりやる気のある学生、そして本を手にとった読者、テレビを見た視聴者なのです。1つの会社のトップの立場がそうさせるんです。1つの会社のトップかつ創業者が、「さあみんなであきらめよう!ミリオンスロット!」って言えないじゃないですか。誰がそんな人、会社に魅力を感じるねん。自分と同じような考えややる気を持った優秀な人を最初は大企業より低い給料で集めないとやっていけないんですよ。特に飲食店は。何か独創的なものをやったり開発したりするわけじゃないので。成功は一足飛びにできないんです。

その後、渡邉さんは都知事選に出馬したし、参議院議員になりましたね。ここでは1つの会社のトップではなく社会の代表になりました。創業経営者という過去は生かすだろうけど、立場が違う。ここでやっと念願の「富の再分配」が出てくるはずです。「努力したくてもできずにいる弱い立場の人、不利な立場の人」を助けてあげよう。どころか「努力したくてもできずに無念にも死んでいった多くの人々をも助けてあげたい。その人の死を無駄にしたくない」どういうことまでちゃんとした政治家ならきっと考えていると思います。

このブログにも書いてありますが、それができるのが政治なのです。

人生一度なので、一時で2つのことを思い描くことはできるのですが、2つのことを同時にやるのは難しい。だから立場が違うので、発言も変えざるをえない。でもなるべく将来の夢とリンクするようにしていく。

「自分の運命は自分の努力で変えられる」と思っている人はね、周りに感謝するんですよ。それは1人では絶対叶えられないことをわかっているから。同時に、自分の努力で変えられない人もいることを認識するんです。そういう方々の境遇、悩みを知る努力を怠らない。無視するなんてもってのほか。だって、その人も立身出世する前はそういう境遇にいたのだから。そして、いかにしてそういう人にも笑顔を与えられるかを常に考え、夢に向かって進んでいく。

いけるところまでどこまでもいこう!

ジュリアナ世代のロマンティックが止まらない件


あんまり詳しくは書けないんですけど、備忘録として。僕ですね、40代から特に40後半ぐらいの方々に夕食を誘っていただくこと、可愛がっていただくことが多いのですが、ものすごく有難く思っています。

今日も「高野ちん、渋谷行くから飲もかー」ゆーて、その方の話をずっと聞いていたのですが、タイトルは「同窓会での再会」。もう詳しく書けないのですが、ものすごいんですよ。こうメルヘンチックというかアバンチュールというかアバンギャルドというかオートクチュールというかジュリアナ世代というかなんというか。もうおつまみとかいらないですもん。その話を肴にハイボールガブガブ飲んでベロンベロンなってましたもん。

こういうこと言ったらシバかれるんですが、先輩たちがかわいいんですよ。2億4000万以上のつぶらな瞳で少年のように語ってる40代後半の経営者の方々ってめっちゃ素敵なんですよ。雄弁に語ったと思ったら、泣いたり、笑ったりね。ズルいんですよ。手口が。もう僕でなんとかやっとこさなので、さらに一回り下の人たちだと確実についていけないですよ。ヒーヒーですよ。ヒーヒーヒヒ〜ンですよ。全部持ってかれますよ。かくじつに。

もうなんなんでしょうか。僕より干支でいうと一回り上の人たちの若さというか力強さというか愛しさというか切なさというか心強さというか馬力というか。ヒヒーンヒヒーンって聞こえてくるぐらいの馬力。ブリンブリンですよ。とんでもないんですよ。まったく具体的に書かれへんし、描かれへんし、描きたくもないけど、もうそれはそれはものすごいんですよ。僕らの世代だったら落馬してますよ。落第してますよ。落伍者の群れですよ。

最終段落にきてもなお詳しく書く勇気が出ないんですけど笑、もうね、すごいんですよ。ジャニーズでいうとトシちゃん世代の人達が。ビンビンなんですよ。はっきりいうとびんびん物語なんですよ。同窓会って、相手も同い年、つまりたのきん世代っていうことですからね。トーク中にいきなりバク転しだすんちゃうかなと思えるようなその年になってもそんなことあるかみたいな驚きの話なんですよ。

話聞いてるとき、ずっとサザンの『愛しのエリー』や、ユーミンの『リフレインが叫んでる』、CCBの『ロマンティックが止まらない』が頭の中流れてましたわ〜。
もうお金もあるし、地位もあるし、経験もあるし、隙を見せれる「余裕」があるからなっかなか勝たれへんぞー。


まとまりのない文章になりすみませんが、本日もごちそうさまでした!飲みすぎました!いつもありがとうございます!

「エイト」の意味を求めて

8月8日の本日だからこそ投稿したい話。8月に広島を訪れるようになり8年目となる今年気付かされたことについて。

8年前より気になっていた店がありました。広島平和記念公園から橋を渡ってすぐのところにその店はあります。「エイト」という喫茶店です。古ぼけた喫茶店で中は真っ暗で開店しているのかもわからず入らずに8年が経っていました。

私の会社はチャプターエイト(Chapter8)と言います。意味は私自身の名前や生まれ月、生まれた場所や30歳で訪れた場所などいろいろ意味が込められているのですが、一番大きな意味は、8という数字が末広がりという意味があるのと、横にした時に無限大∞になることから、「終わりなき物語」「永続的発展」、それに加えコーポレートカラーが赤であることから「飽くなき挑戦、成功への情熱」という意味を込めています。いつまでもどこまでも広がり続けるという意味です。

今回、大阪から来た仲間2人とこの喫茶店に恐る恐る入ってみました。店内には誰もおらず、奥の方におばあちゃんが1人ご飯茶碗を持ってテレビを見ているだけでした。その方が、53年前にこの地で喫茶店を始めた人でした。71年前に原爆が落とされた時には国民学校の5年生で11歳でした。当時呉市に住んでいて、広島市内に救護に向かった時は地獄絵図のようで長らくだれにも話せなかったそうです。またこの世代の人は学校もなくなり教育も受けられず、仕事に就くのに苦労したそうで、最もかわいそうな世代とおっしゃっていました。戦後、結婚をし子供ができましたが夫が早く亡くなり、この地で縁があって1人で喫茶店を始めることにしたそうです。楽な仕事だと思ったそうですが、過去3回過労で倒れたことがあるそうです。今では、周りの喫茶店がどんどん店を閉め、喫茶エイトだけ残っているそうです。僕は最後に尋ねました。


「ところで、店の名前をエイトにしたのなぜなんですか?」

「私の考えです。私の気持ちです。物事はなんでも8分ぐらいがええということです。多くを求めない。すべてを求めない。求めすぎない。お腹も8分目がいいと言うでしょ。」

戦争を原爆を経験した方の非常に重みのある言葉。

僕の中に新たな気持ちが芽生えた、新たな考えが加わった瞬間でした。

「ありがとうございました。また来年来ますね。」

「私がまだ元気だったら。来年待ってますね。」