ドイツ船の設計、私にとりドイツは最早懐かしい響きを伴う。
G.L.(ジャーマニッシュ ロイド)の事務所は神戸山の手マンションの一室、ドイツ人のオルロートさんが待っていた。 事務所開設以来6ヶ月、始めて仕事上の来客らしい、ドイツ語での挨拶や会話も彼には懐かしそう。 早速 GL船級協会のルールブック(英文)とSBG(エスベーゲー・ドイツ国内細則)を手渡され鹿児島ドックから託された資料を基に本題に入る、 しかし資料は「主要寸法」と簡単な「中央横断面図」に「英文仕様書」のみ、肝心な「船体線図」がないのだった。 
 
 従って、計算のLs(スカントリング・レングス)が算出できず、打合せは一般論。 いきなり彼曰く、 折角だから私の言う通りにしろ、間違いなく良い結果が出る!    ドイツ人らしい言質、 一様にドイツ人気質は一度切り出したら絶対に引かない国民性。  確かに此れまでの経験から、構造細部では相当異なり感心する事多く、発想の自由度は高く、常々機械やクレーン、航空機で経験の設計・計算の思想に近く納得出来る。
 
 当該船(8,000GT)ノーブラケット、ベールキャパシティ(船倉容積)最大限確保の為。
船は基本ラーメン構造、ビーム(甲板梁)、フレーム(船側肋骨)とボトム(船底)で構成の矩形断面。 ビーム・フレーム・ボトム、その接合部には補強のブラケットがこれまでの常識。 進化しているがコーナー部では無限の負荷が予想され処理が技術。 

 

 又ラーメン構造は土木・建築で多用し高層ビルは多層ラーメンとなる。 しかし船舶は波浪や波により常にヒール(前後・左右傾斜)が伴い、ボトム(船底)フレーム(肋骨)に海水圧、ホールド(艙内)やビーム(甲板梁)には積載荷重の分布、つまり傾斜分布荷重となり建物の等分布荷重とは相違し多少複雑化している。

 

 SBG規定の振動や騒音の項目が「鹿児島ドツク」成功以降に問題が多発。 国内市場不況もあり各社ヨーロッパ特にドイツ船に営業展開、果たして振動騒音の技術的課題の解決ならずキャンセルが続出、宇品造船・金輪ドック・波止浜造船・旭洋造船(航研開業初期世話になった)等々7~8社倒産の憂き目になった。  西欧の船舶は一様に船員居住区の快適性は厳しい。
 
 かって国内船で振動や騒音は問題視する事無く、各社初めて直面する経験で、
より強固に構造を決定、つまり剛性を高める方向で対処、主機関の起振力やプロペラの振動はモロに上部構造(居住区)に伝わり解決不能となり最悪(各社倒産)の結果となった。
 
 私が当初オルロートの、私の云う通りにしろ、実は柔構造の発想だった。 船の喫水下の海水は附加水として振動を吸収の需要な役割を果す、その利用は当然。 彼とはラーメン構成の適合した式を打合せ、直接応力からフレーム等の部材決定。 
 
 ルールブック算出(工学的経験式)に較べ当然アウトのケースも有るが彼等には通用するのだ。 直接応力計算に当たり、船体フレームの許容応力に加え断面二次モーメントを限度ギリギリに留めるのがコツだった。 いわゆる船体喫水以下の海水は附加水として振動吸収の重要な役目を果たし、 従って船側のフレームの剛性を最低限(柔構造)にし機関の振動を水中に逃がして上部への伝達を軽減させた。 起振力(振動源)は推進のスクリュウから船尾船底の振動も解決策が、 構造の形態は出来る限り非対称を基本に、相互干渉して増幅と為らぬ様に振動の分散に努めた。    
 かってゼロ戦の開発当初、フラッター(異常振動)から空中分解を起こしパイロットを失った。 結果操縦系統のロッドの剛性を弱め振動を吸収(バランスウエイトも装着)させてフラッターを解消し、やがて名機の誕生となった。
 
 試運転は造船所から請われ立会い、別のドイツ人だったが鹿児島湾内で往復し試運転中、ドイツ人検査員と検査課長やスタッフ数名が居住区各部屋で振動計を壁や床・天井に当て、騒音計マイクをあらゆる方向に向け計測。 結果、その場でドイツ人親指を立てアレス・グート(完璧)、船内歓声に沸いた、会社上げて心配事だった。  
 
 かって造船設計を始めて以来疑問ながら、海運局やNK(日本海事協会)に従っていたがGL船で応力レベルでの技術論で初めて溜飲を下げた思い。 後発の「鹿児島ドック」建造の成功は、その後国内各社に等しく波及し隈なくドイツや欧州への営業に拍車が掛かり、 受注建造に挑んだものの、 その後ほぼ全社ことごとく検査(振動・騒音問題)をクリア出来ずキャンセルとなり、 軒並み全社が倒産の憂き目に。
各社、後発無名「鹿児島ドック」の建造成功が油断に繋がったと今も確信している。   
 
 福岡造船とはその頃は齟齬が有り一時期疎遠になっていましたが、 受注のGL船級貨物船の設計を呉の西日本設計(IHI資本)や長崎の西日本設計(長崎・三菱傘下)等々有力大手設計事務所に依頼するものの、 GL船の実績が無くしかも難解でクリアー(特に振動・騒音の構造的対策)が困難である点で設計を相次ぎ断られていた。 挙句にH部長が自ら再三訪ね来られ、一方過去教授頂いた義理も有り設計に応じる事に。  結果 日本国内では私が設計した2社(福岡造船、鹿児島ドック)のみがGL船の実績となった。 オルロート(GL駐日検査官)から受けた数時間のレクチュアーが全てに幸いしたものと感謝(幸運だった)。
 
 三菱が近年受注のドイツ豪華旅客船(GL船)が予定の1年余り遅れこの4月(H29)2隻目を完成し引渡しを終えたが、晴れやかな船出とは行かず静かに長崎を去った。 
受注金額は2隻で1.000億円に対して、関連損失は1.872億円、 クリスタルハーモニー(最初の豪華旅客船で㈲福岡航研・コンサル引受)や飛鳥(アスカ)の建造実績はあるが、基本設計から手掛けた経験は無く、GL船の落とし穴にはまり、三菱経営の根幹を揺るがしており旅客船事業の撤退が囁かれ、三菱・長崎の縮小も検討の模様。
 
  愚息(長男)が福岡市内で建築内装関係を生業としており、 奇しくも当該船の応援に加わり工事に半年以上に渡る苦闘の姿を見ていた。 矢張り以前にGL船で建造の造船所全ての倒産が思い浮かぶ。
 
 以前長崎県庁商工課の仲介で三菱・長崎研究部門からFEMナストラン(構造解析システム)応用での協力を頼まれていたご縁有り、何んとか成らぬかと私も悩んだ。
 
 約1年後、 「鹿児島ドック」より499トン型(実質2,000GT)RORO船を同じくGL船。
この船は上部構造が甲板上の台にクッションゴムを介してに乗っかった構造。
ドイツ気質に慨嘆、 コンサルタントの云わばアイデア程度の資料。 詳細は全て
こちらで検討に委ねる極めて無責任とも思える形式。 配線や配管も一度船体甲板下と甲板上操舵室や居住区(ハウス)と縁が切れ防水対策も新たな試みを要し、 ゴムの硬度等メーカー相手に個々な打合せと計算が伴い、 又随所に新しい試みが為され其れなり苦労した設計の作業。
 
 可笑しかったのが、 試運転出航で主機関始動のスイッチを押せども反応がない。  操舵室に不安な空気が漂い計器見れば判る筈だが、 機関室の試運転要員に電話、主電源等確認し始動を迫った所。 機関制御室から動いてまぁ~すと答えがかえってきた、 防振対策が完璧に機能していたのだ。 主機関を始め補機、ポンプ類全て防振ゴムが施され、 ファンネル(煙突)も構造上、 居住区とは切り離して防振。 従って操舵室では一切の音や振動が伝わらず機関始動も気付かなかった。  以上は、 設計課長から聞いた話で私も立ち会いたかったと悔やんだ。
 
 今回初めて、船級協会と接し二つの事が判り、 新たな手法の展開が見通せた。  図らずも、今回拙くも語学に道が拓け助けられた訳だった。 まず検査官対応と判断能力(所掌範囲の制約?)の違い。 現在年数も経て詳しく知らないが。当時 海運局検査官が造船所に到着するや所内の空気は一変する、 まるでお上の如き存在。
 
 鋼製船舶構造基準に到っては条文が「テニヲハ」の世界、 以前記述の構造算式は経験式。 しかし算式により求められた数値は絶対不可侵に付き容赦なく切捨てられる。 実際の荷重は分布し応力も相応な変化があり局部補強のみで解消する。  経験式は簡便なだけに、全て一様にあらゆる想定を加味し安全率も高く設定。  よって重量管理に於いて非常に不利かつ不経済となっていた。
 
 もう一点、 彼等に疑問の点は次々問い掛けが可能なのだ、一見当り前の事だが従前(海運局・検査官)ウッカリ滑ると、感情的にも取替えし付かなくなり、 恐れ多き存在であった。  以後、 クラス(外国・船級協会:検査機関)での打合せは検査では無く照合の作業。 ルールブックは脇に置き応力レベルの話に終始。 尤も船級協会夫々数値は多少異なり単位もN(ニュートン)つまり重力単位での扱いとなる。 
 
 更に、強度計算では荷重(負荷)の算定が90%以上を占めるといっても過言では無い。  スペック(仕様書)からローディング・コンディション(積載要領)で該当箇所の数値を求め、板厚や部材を決定する。 クラスの打合せは最早アプローバル(建造許可)取得の為、 準備資料を提示し当方の疑問の箇所をピックアップし相談の上判断を仰ぐ。  其れなりに相当の裏付けと準備怠り無くは当然、 検査は製造物への最終責任に帰さず、 全て造船所の責任つまり設計当事者、私の責任である。
 
 晴れて数万トンの船も1日でアプローバル獲得は、 造船界歴史は有れども有史以来の
快挙といえる。 各外国クラス全てで同等の扱いを受けた次第。  依って、 設計に時間の余裕と造船所は鋼材の発注が可能となり経済的効果は時間と共に利益を生む。 鋼材は厚さは0.5ミリ単位、幅・長さで夫々製鉄所に注文、 しかして製造工程にもゆとりが生まれた。
 
 残念乍ら、相当する売上げ反映させる手段に欠け、仕事の確保に留まったのは。
当時、 コンサルタント業務の評価定まらず、自己評価売出しに欠けていたと反省。
             
                    

 

 

  社名 福岡航研 長崎時代オヤジさん突然の逝去に拠りドイツ行の思いを断ち、福岡で学生やOB達の拠り所として火を残すべく使命感多々、福岡へ同行予定のO君と話し合いの場で社名の話題となった。 彼は「木村航研」を推奨も私物の感あり「前田航研」は恐れ多く結局地名に因み「福岡航研」に 無論航空への志を込めた社名。
但し、客先の造船所には当面伏せ「航海」の意を伝えていた。
 
 事務所開設直後は電話も未だ無かった、ビル向かいのタバコ屋店先の公衆電話を利用する始末。 当時電話は申込から数ケ月を要し、特に下関時代深夜駆けつけた時書置きのメモが全て。 暖房は石油ストーブしかし灯油が切れている一夜寒さに震え腹立つが皆懸命な時、其れ位いの事件?は数多く不慣れ不憫は覚悟の上。
 
 一方造船所も担当者が直接事務所に駆けつけ打合せや指導をして頂いていた、皆真面目で若いから将来が楽しみだとの理解に甘えてのスタート。                          
私が初っ端なから林兼造船の300tの灯台敷設船を設計した事を思えば未だましの感、兎もかく同じ室内でコンタクト出来るから。 指導しながら納品の設計図面は6~7割方私の手により消化、常に時間に追われその都度担当のGさんやIさんが駆けつけ心配を掛けていた。 
 
 半年以上過ぎた頃からか、多少個人差は有るが、らしくなり日曜の休みが取れる様になる。 少しづつ楽になって来た頃、心身共に疲弊の度合頂点に達し、漸く普通の生活が送れる様になった。 皆下宿や部屋を間借り生活、残業は深夜に及び殆ど仕事に費やしていたのでプライベートは等しく無かった。 労働基準法からは恐ろしく逸脱、素人集団乍ら皆の仕事に掛ける思いが出来た事。 結婚はその様なタイミングの時、世帯を構え多少普通の生活が送れる様になる。 其れまで早良の国民宿舎下の民家を借用していたが、バスは1時間に1本、その間帰宅は4~5回泊っただろうか。従い事務所のボンボンベットが寝床食事も満足にしてたか記憶に無い。
 
 設計は主に漁船「鋼製漁船構造基準」を基にキープランから船体全ての構造図
作成の仕事。 長崎の水産会社で運用の漁船が多く、見慣れた船舶にマサカ携わる事になるとは、と長崎時代より。 五島の慣れ親しんだ船名に当時を思い、完成前の新船に見覚えの船員も数人見かける。 徳島造船は門を入り目の前が船台、数ヶ月遅れで設計の漁船が見える。 設計当事者には現場作業の観察は大切な事
従い1年交代で現場実習を課し、皆に苦労を掛けるが内心事故の恐れに怯える。 
しかし本物に触れ、現場従事者の苦労を体感してこそ本物が見える高邁な思い。
 
 翌年頃から、仕事も順調にこなせ、より仕事の量確保に迫られる。 隣の福岡造船 
の中型船にも手懸けるべく働きかけ。 同じ船舶だが構造様式は全く異なり一からスタートに等しい、私も同様の立場で挑む。 当然これまで付き合いの地元有力設計事務所がメイン、 端々の付帯的な仕事などが任せられるのが精一杯。
 
 その様な中、H部長会社が早く閉められ帰途、 遅くまで仕事中の当方の事務所で計算書作成が日常となる。 部長とは云え猛烈仕事熱心で、九大造船科の後輩がノイローゼの噂になる位い、 漁船から中型船に転換の技術的中心を為したお方。
自然傍目から船舶設計の基本的構造、計算の過程を直接目にし教えられる。
又しても門前の小僧、 当初船舶の構造決定の簡単とも思える算式も次第に理解。
 
 叙々に大部分設計を任されだし、貨物船・コンテナー・タンカー・フェリー・自動車運搬船等々多種多様な船種に及び、社員相応な努力の甲斐が報われだした。
1万トンクラスでは可也な成果、尤も現在その後の造船不況で各社船台能力を減じ、 港から遠望する限り船舶は当時よりかなり小型化している。
 
 同時期、鹿児島「鹿児島ドツク」の仕事も手懸ける、社長の肝いりで起業の中型では後発造船所、全国から鹿児島出身技術者を集め創業。 云わば揺籃期に当たり
自社での設計消化に窮していた。 数ヶ月経た頃だったか営業の日商岩井からドイツ貨物船を契約、付いてはGL(ジャーマニッシュ・ロイド)ルール(英語版)共一切をとのお達し。 下請け設計事務所は須らく納期に追われる。 建造に当たり船級協会の承認(約2ヶ月)と鋼材発注(0.5ミリ単位)に時間を取られるからであった。
 ㈲福岡航研事務所
          事務所の一部、 21インチのディスプレーは秋葉原で当時75万円!
 80年代にはCADシステムでの設計を行っており、外国の船型計算ソフト導入や
 システムで千万円(当時)の資本投下で設計事務所としては傑出、 船体原寸図フイルムの出力やディジタイザー(A0版)で図形入力での船型計算ソフト自社開発していた。
 
 次回 ※⑤-2 世界各国船級協会との接触      
          
 オヤジさんの葬儀後、初七日までの約一週間。ご子息や世話になった昔の仲間達皆遠来に付き、師自宅2階に10名余りゴロゴロ、同窓会の如く師の思い出話に耽り又、近況を互いに交したりでの居候。 その間奥様や長女(山の神)次女(里の神)毎日三度の食事に大変なご無礼を、思い出すたび申訳無く。 
 
 ある夜散歩がてら次男・建(タテシ)さん、学生時代より出入りの山口ノリ(人力機飛行テストで総指揮)さんと3人福岡城天守閣跡での事。今後の話で一年後を目途に各自福岡に職を求め参集。 何れの機会か前田航研の再興を期そうと真っ暗な中相談が纏った。 互いに独身だが、ご両人大手企業勤務の東京暮らし。 時は高度成長期、就職の道はかなり開かれていた良き時代だったが。
 
 オヤジさん生前、会社(工場の意)を継ぐならターボ(建さんの愛称)やろうなと言われていたが本人に伝えていたかは不明。 だが建さん航空関係は殆どノータッチ、土木専門の技術者。 会社早期退職(定年直前)後、現在「西日本航空協会」を初め普及活動に励んでるのは、最早オヤジさんの予言と見通し正に神懸かりの感。 
 
 私は個人で営々と設計業務、身軽な筈だが長男の身、両親以下弟妹共々一家上げての覚悟。 予定の一年、福岡で旗揚げ独立開業は仕事先含め時間は余りに少なく焦る。 世話になった仕事関係先や、何をどう行動するか名案ない侭約束。
 
 帰長後、如何に福岡へ上洛(?)を果たすか、色々と思いを廻らす日々となった。 幸い仕事は造船、機械、工場設備やクレーン、ボイラー等幅広くこなしているものの、
当時福岡は支店都市、果たして工業分野でネット等無い時代皆目検討付かず。
 
 取り合えず、仕事で世話になったT社長と一席の場で相談。 請負の割合をお礼奉公を兼ね1割減を申し出。 又その為、準備では仕事面で支障来たさない範囲で
適宜行動起こす事を快諾頂いた。 正直私の守備(仕事)範囲広く後任を求めるには、ほぼ不可能に近く心苦しい思い。 その後幸いご長男のK君、造船大学卒業後広島の造船所に武者修行中、学生時代より手伝い船舶は既にベテランの域。    
且つ船体構造設計と船型の計画設計部門をも引受け間口を広げる事となった。
 
 適宜、地元各造船所スタッフ通じ福岡での伝手を求めるが、そう問屋は卸さない。
福岡には「徳島造船所」(以前博多ドック)と「福岡造船」2社のみ、特に徳島は徳島水産の子会社で漁船専門、福岡は漁船衰退に伴い中型船(2000~1万㌧)に移行期。
しかし共に設計は委託先と固い絆が伺われる。 再々福岡詣での中、徳島より辛うじて設計課長の肝いりで一部仕事を頂き、長崎から都度通いながらの下請仕事に有り付いた。 時既にS46(1971)9月、予定の1年を過ぎ2年目に差掛りつつある時。
 
 一方起業に当たり隼君名城大学後輩で長崎在のO君(操縦技術は天才と)、人力飛行機機OBの天本君と後輩2名、皆航空機メーカー勤務。 4月を期し開業の旨を伝え各人夫々準備を終えており、ぎりぎりのタイミング。 
 
 又、井筒造船所のU部長紹介で下関・旭洋造船所吉田工場長を紹介頂き仕事を
早々にも協力をと即決。 丁度彦島から長府埋立地に新築移転で新工場稼動、中型船に拡張の最中。 U部長と吉田工場長は戦前、戦時標準船建造、戦後「三無事件」で有名な香焼・川南造船所での元同僚。 吉田氏時々設計室(50名程度)に怒鳴り込んで来る豪快なお方、しかし彦島の我々の部屋を訪れ親しく歓談はオヤジさんを彷彿。
 
 S47年1月4日松の内明け早々長崎発一番列車で目的の下関へ出発。 途中佐賀平野で有明海から昇る朝日の光景未だ鮮明に記憶、O君と長崎から応援のMさん2名と晴れの門出を祝うかの如き当時を思い出す。下関・彦島工場で関係者紹介と早速社宅の空き部屋を当がわれ、3名で泊り込みで仕事開始、都合4月半ば迄続く。 
 
 その2月福岡での事務所を荒戸2丁目のビル2階1室を拠点とする。
それに合わせ天本君達も集結、以後私は福岡と下関を毎日往復の日々となった。 
つまり昼間は下関、夜福岡で翌日各自の漁船構造図、全て下書きを徹夜で済ませ、朝一番で下関での通常業務、車中睡眠と下関駅での立食いそばが救い。  
一様に皆ズブの素人、つまり線の引き方からの指導に当人達も並みの苦労では無かった。 4ケ月半、青雲の志とでも、良くぞ体が耐えてくれた物だと体に感謝。
 
 下関の仕事も一段落、引続きの要請されるが二股状態に限界と二兎追うが如き事態に地元福岡に専念を決断応援のMさんも長崎に帰られた。
替わりに、T事務所のS君が設計経験者、慕って福岡に参加は助かった。
 
 4月 (有)福岡航研として正式発足、これからが本当のスタートだった。
当面資金は、昨秋から徳島造船の売上60万円と呉長女(姉)からの50万円が当座の資金、売上げは半額3ケ月の手形なので資金繰りはギリギリ、仕事も通常の倍程度の時間費やし良くぞ・・・だった。 皆の直向な努力の姿勢が救い、製図板での泊り込み徹夜状態は10月頃迄続く。 
 
 私事ながら6月、正月以来初めて長崎へS君の車で帰宅。 その翌朝突然お父さんから電話連絡、お見合いだった。 場所はT事務所からほんの数軒先「喫茶店」お相手の親戚、長崎時代喫茶店など無縁なだけに知る由も無く。 相手(現家内)も諫早で叔父の手伝いの中、突然の事。 その後双方の家庭へ数度(2~3回?)で10月には長崎の中華料理店で結婚式。 因みに家内の実家は大浦の旧家、 両親、長兄私と同年の弁護士、弟妹2人。多少臆したが料理等一通り、我家の皆なに喜び迎えられ。      
 
 福岡で猛烈な繁忙を極めている時全て親任せ、数度会うも私の仕事話に終始、
僅か4:月後、手さえ握る事無く。 その年、生涯を左右する出来事を二度も経験。 神様のご判断としか、数日経ずして両親一家共々福岡へ移転、以来同居。
 
 S47(1972)は忘れ難い年、人生の基点となり後は、私自身公私の頑張り次第。
しかし会社の状況皆の頑張りで、かろうじては変わらず造船所の相次ぐ新船建造
に助けられ(有)福岡航研として叙々に歩む事と成りつつあった。   
 
       次回  ※⑤ 福岡航研
          
   愈々初飛行の記述に差掛る所で、 衝撃的な新素材に俄然興味を受けている。                  
セルロースナノファイバー(以下CNF)は木を構成する繊維をナノレベルまで細かくほぐすことで生まれる最先端のバイオマス素材。  30年前ACM(先進複合材料)製軽飛行機開発・飛行の経緯は一部先述、その早期実用化を願っていたが最早時代遅れを痛感。 今 CNFの時代到来を確信し用途開発が日本の将来を決定付けるものと断言する。 何れ此処で私心を披露したいと思っています。        
 
 人力飛行機テスト飛行(米軍板付基地 現:福岡空港)  
 板付米軍基地には当早朝より、佐藤先生(久留米工大学長)も駆けつけオヤジさんと共に作業の模様を眺めておられた。 空港は時間が止まっているかの如く静寂に包まれている中、一部の場所でハリボテの様な真っ白い機体が横たわり、その周りをアリが蠢いている、俯瞰すればその様な光景。 やがて学生各自配置に付き目は一点を凝視していた、そして山口ノリさん(福大航空部OB)合図と共にプロペラが回り始める。
 
 車輪と連動しておりスタートを始めプロペラが次第に回転を上げ加速している、やがて離陸速度に達している筈が中々浮かない。 しかしエンジン(岩崎さん)は未だパワー全開とは行ってないと思った瞬間、ファッーとジャンプらしき具合に飛んだ!  見つめていた全員瞬間の飛行を疑わなかった。 しかし機体は着地し少し滑った状態で直後停止。 すぐさま全員機体に駆け寄りコクピットのチャックを開けパイロットの表情を伺う。 私達は瞬間でも浮いた! は当時十分な喜びだった、何しろ浮くか浮かないかの境目での挑戦だったから。 
 
 しかし我々の意に反してパイロット浮かぬ表情に私達もフト我に返る。
彼は寡黙でおとなしい性格だがより沈んでる感じに気が付いた、どうも彼には合点ゆか無いのか、やがて彼の話で何かに当たり乗り上げ瞬間跳ね上がった事が判明。 結果は悔しいが失敗ともいえる事態に全員先程の喜びから奈落へと墜落。 
原因はそこが駐機場、 隈なく平面と思っていたが電源設備が3M四方台形に4~5cm程盛り上がっていた。 大海で僅かに突き出た瀬に接触、奇跡にも近い出来事。
 
 だが自転車前輪が先程の衝撃で折れ曲り、胴体後部に繋がるFRP釣竿のパイプが捻じ切れており最早続行不能、従ってテスト中止の憂き目に、又先程の道ならぬ広い空港を撤収、全員期待が大きかっただけに、そのギャップは埋まらず。
イメージ 1
  試験飛行中止直後の記念の一枚、佐藤先生(中央コート姿)
    左側 川邉忠夫(ベレー帽黒シャツ)氏
     前田航研、戦前16時間余り日本記録樹立時のパイイロット
   中央黄色いマンホールが問題の電源設備、遠目から気が付かなかった?
 
 後日、RKB栄文さん編集前のビデオで見ると、当時気付かなかった様々な要因が次第に判明して来た。 ビデオは斜め後方と前方正面からの映像が有り、走行した時点で前輪(動輪:主輪ではなく)がフラ付き、方向が定まらずその後衝撃で破損。 走行姿勢が主輪と垂直尾翼下部尾輪との関係でスタート時点マイナス仰角は良いが、飛行速度に達しても引起し出来ず、つまり尻餅の状態揚力不足で浮楊不能。
 
 オヤジさんと共にショックは大きく、学生さん達もさぞやと思うが心の余裕無くは立ち直るに暫く要し年を越した、芽吹く頃だったか例により呼出し。 既に一部改造に掛かられていた。 軽量化追求の余り、サドルとハンドル(操縦桿)は釣竿で繋いでいたが直結、つまり自転車で致命的な事を迂闊にもパイロットから知らされ。 従って①一体化と共に前輪を廃止動輪のみとする。 ②ペダルと上部トルクチューブにはVベルトをチェーン伝動に変更とベベルギア(傘歯車)使用。 ③トルクチューブは釣竿からアルミパイプに交換、動力はほぼ完璧とも云える改造がその後成され、④プロペラは地面ギリギリまで直径(10数㎝?か)を増し矩形を楕円翼に効率は約30%程度アップ。 
 
 原因模索とその解決に半年以上を要した。 しかし一番苦労し支えた人力機功労の1期生とも言うべき天本、小野、寺恒君達はその間既に卒業、後輩達の手に。 学生達の優れた面は先輩程、率先し真っ先に苦労と努力を背負ってる姿であった、彼ら黙々と苦労厭わずの作業は、師の指導力と共に真の教師と生徒の姿誇り高い。   
 
  翌夏(S44)再度挑戦の機会が来た、 所は佐賀・神埼 目達原(メタバル)陸上自衛隊ヘリコプターの基地。 RKB手配で近くの旅館が用意オヤジさんと前夜最終チェックを兼ね宿泊。 学生達は自衛隊宿舎に臨時入隊の如く、昼食は隊の食堂を利用。
 
 基地にはその後、「東芝日曜劇場」撮影で再度お世話になる事に、模様は何れ。
その夜体調、聊か心労と体疲れが薄々感じられる齢65だったか。学生は次第に作業や段取りも馴れ師の負担かなり楽にはなっている。 翌日テスト時は酸素ボンベとリヤカーが用意されていた。 しかし日頃から心臓の不調は日頃もチョクチョク額から汗ばみが見られ気にはなってたがゼーゼーと吐く息もこの数年見慣れていた。
 
 真夏の太陽が照りつける中の試験飛行。 愈々スタート、例により翌端を支えた学生達の走りで速度が見える、前回とは明らかな違いのスムーズな加速。 やがて翌端が学生達の手を離れ大きく撓みを増しながら、飛行速度に達したと思えた途端スーッかフワーッと見上げる高さに舞い上がった。 真っ白な機体が両の手を思いっきり広げ空に浮んだ! 見上げる角度は4~5Mは上がったかの如くに錯覚、実際は1.5~2M程度か。 ※実際パイロット目線は地面より1.5M、従い3~4Mは実の高さ、つまり見上げたは正しい。 青空に映え美しく眩しい程の真っ白い主翼と骨組みが下からは透けて見える。 が距離は今一だったが充分な飛行、一瞬だが定常飛行は俄然大成功。 この3年間、正にこの瞬間を信じて待ち且つ励んでいたのだった。
 第二回飛行試験 「飛翔」の劇的瞬間瞬間 (佐賀・神崎 目達原陸上自衛隊基地)
 
 パイロットの岩崎さん浮き揚った瞬間一切視界が消え去り、思わず下げ舵を切ったと本人談、オヤジさんリヤカーで運ばれ立上がり彼と固い握手、満面の笑み。
何か言葉を交していたが、感謝と喜びの気持ちを伝えている様子、遠目乍ら。
 
 その後、パイロットの体力の許す限り、テストを繰り返し、結局67Mの飛行距離
無風状態で換算すると96M飛行に相当、 当時世界第三位に位置する記録を樹立
通常、記録への挑戦は最良のコンディションで為されるが日程上許されず。
願わくば、早朝 無風状態で記録挑戦が望まれたが、場所確保や費用負担叶わず。
 
 苦しみ、色々数字を弄くり悩んだ挙句、いとも簡単に「SM-0X」号は飛翔してくれた。 三面図を目にして以来、一部駆動系や細部は多少手を加えたが、機体本体は
殆ど当初計画の侭。 詰り筋が良く、オヤジさんの勘冴え渡っていた結果だった。 私に取っても一件落着となった。
 数年後「ジェーン航空年鑑」(英国・世界権威の書)当日の様子が写真と共に掲載。
 
 その間、勤務の漁業会社不測の事態から、 心機一転フリーで設計仕事に勤しんでおり、それ所では無くなり数度ご機嫌伺いに通った程度。 その後中村君(福大航空部OB)がその頃より出入り、 親父さんの片腕としてタンデム複葉機が計画され一部着手されていた。今度はそれらを脇から応援、又学生達の作業を見守る立場に

 

 

  オヤジさん訃報の知らせ
 忘れもしない、S45年8月31日珍しく早く打合せが終わり仕事すべく帰宅した夕方。 
師の次女、智子姉から初めての電話。 オヤジさんの死を知らされる・・・・心不全。
絶句、途端目の前が真っ暗!! マサカッ?  オヤジの死は全く計算外の出来事。
即、仕事関係先に連絡し当夜、夜行の鈍行列車で福岡に向かった。 車中、出会いから、軽飛行機製作、空白のドイツ以後人力機の日々が走馬灯の様に駆け巡る、無論一睡も出来無いまま。 早朝5時過ぎ到着も数時間中州沿いのベンチで時間調整と心の準備に過ごす。 8時頃伺うと顔見知り数人既に駆けつけ寝ずの番。
 
 地元新聞紙上に早くもデカデカと死亡記事、枠は作家佐賀潜氏を凌いでいる。
恰も準備されてたかの如く。 余談だが西日本新聞社発行「福岡県百科事典」栄文さん
推薦「前田建一」の項執筆依頼に、原稿用紙2枚分約2ケ月を要したが。
 

 葬儀は多少顔振れに通じた私が帳場担当、各界多数著名な方々のご会葬に師の偉大さ更なる尊敬の念。 又、1年前飛行試験前夜、目達原旅館で床に伏せ雑談の折りふと一言「一人位いお前に付いて来るヤツ」が居ろうやな。 前後の話記憶無く、その一言忘れ難い。 折角育てた人材、何れはと思いつつおぼろげだった目標のドイツ行きは福岡に向かった。 師から「嗣世」(ツグヨ)と名付けられたご縁。 

    
       
 人力飛行機への発端 !
  長崎で義兄の仕事に就いた5月(S41)、出て来いとオヤジ(前田建一師)さんからの呼び出し。「フクニチ新聞」(福岡の地方紙:現在廃紙)から取材の申し込み、ドイツの話を記事にらしい。 当紙には高校時分、私達の記事掲載、発表の義理が有り。
 
 オヤジさんとは毎回夜を徹した話が楽しみ、帰国後長崎に帰省途中寄ったきり。
車中読むべく長崎駅で雑誌「航空情報」を求め、ページをめくる内特集で日大「木村秀政」教授指導で学生が人力飛行機「リネット号」製作、飛行に成功と詳細記事。
 
 元々、同誌で毎号「飛行機を斬る」の連載で世界各国の軍民最新鋭機を航空ジャーナリストと対談形式で専門的に解き明かす項を楽しみに読んでいた。
記事は発想から世界の取組みの現状と賞金が懸かっている事も詳しく記載。
 
 取材後、 オヤジさんと「リネット」機をめぐり夜を徹して喧々諤々云わば斬る。
グライダーで培ったオヤジだが、私も構造の詳細はアレッハテナの部分ただ感じる。
推進システム、とその方法、配置、スラストライン、パイロットの駆動姿勢等々で盛り上り、
最も驚いたのが主翼縦通材が翼表面に出ており凸凹は果たして?やるか、の疑門。 
 
 記事に拠ると、学生の脚力最大0.8HPで約30秒、0.3~0.4HPで3~4分カーブは下降線を辿る実測データも記されている、 人力を効率良く発揮・吸収させるには・・・等々。 深夜だろうか話がほぽ出尽くした頃我々ならとの話になった。
当時 灰皿は淡い水(緑と中間?)色の大きな器に吸殻が山盛り、自動販売機無く、互いに目ぼしい吸殻を見つけ爪楊枝を刺して1~2ふく部屋はモクモク燻ぶっている。 大概数箱用意するが、二人とも超ヘビースモーカー座卓の回りも灰だらけ。
 
 オヤジさんの背後壁には奥さんが広告用紙裏の白紙を束ねぶら提げており、
いつもメモ代わりに準備されてるが、その用紙が尽きる頃には概略数値的な目途。
 
 我々がやるなら、 オヤジさんと一夜構想をシュミレート
 概ね ①車輪は初動からプロペラと連動 ②スラスト軸は主翼と上下近接させモーメントロスを最小限に ③パイロットは自転車姿勢が自然 ④構造は細部まで精緻を追求、木製機では当然な配慮、最も得意とする分野。 以上4点が「リネット」機を斬り返した結果(御免 ! リネット有ればこそ) 互いにイメージは湧いて来た。
我々の案が纏ったがマサカその後、5年余り苦闘のドラマになるとは夢にも。
 
   驚きの三面図 !
 7月例により呼び出され伺うと既に三面図が出来上がっていた。 違いはプロペラ三枚翼だが直径が少し小さめな感じ(馬力吸収効率上不利)。 スパン22Mのキャンチレバー、2本桁で全長7M?足らずで推進式、さすがの思いはその時の印象、疑念の箇所全て勘案されていた。
 
 早速性能計算を行い、逆算から構造重量見積もり、出力は日大のデータを活用。 しかし上昇率を考慮すると厳しい、リネットは材料がバルサ材、高価に過ぎる。
オヤジさん、時に福岡第一高校航空機関科講師として就かれておられた。
自腹予算に当然手馴れた檜(ヒノキ)材で製作が基本、学生3名既に着手?か。
 
 8か9月頃、自宅にはスパー(桁)とリブ4本分、主翼の一部モックアップが出来ていた、イヤハヤ。 学生は天本、小野、寺垣君達3名既に工場で作業に取掛かってた。
師の本気度満々を肌に感じると共に、私の学生当時の中断が浮かばれ完成までを願う。
 
 戻るが、機体自重は45~50kg以下が最低条件、主翼強度はオヤジさん決定の部材寸法は計算上ほぼ、は流石。 但し剛性面で計算上翼端部最大2M近くの撓み量、2.5度の捻り下げを付けているが。 心配は捻り剛性、主翼が捻られると仰角が異なり空力特性から目的の性能はおろか破壊に繋がる。 破壊は大概捻れを伴い破壊へと繋がる。 特に本機は軽量化追求の余り、材料物性から極限の数値設定、安全率等余裕は無く柔構造として計画。 従って飛行試験まで気がかりな侭。
ダブルスパーの内メインは荷重試験で実証しているが後部桁は省いている故の事。
荷重試験結果、実機では桁上下フランジを繋ぐウエブを構成のトラス斜材コンプレッション・メンバー(圧縮材)をテンション・メンバー(引っ張り材)へと組替え、翼の撓みを抑制(目的から宙返りは有得なく)で計算外の要因は取除かれた。
 
イメージ 1
 主翼前桁の破壊試験  写真から斜め圧縮メンバーが撓みダメージ、
            実機では全て引張りメンバーに変更する。
 
 私も1~2ケ月に一度六本松の自宅通いは続く、オヤジさんも学生相手は多少気疲れと孤独感も伺え、夜私との計算や技術論がひと時の気休めか呼出しは時に電報。
私は義兄経営の漁業事務所勤務、小間使いにコキ使われてる時分で同様な思い。
 
 翌年、学生も後輩達10数名が参加、 工場はプライマリー以来の賑わい。
しかし工場は長男の創(はじめ)さんが空調機器の会社を起業、2/3近くに仕切られており少し狭くなっていた。 
 
 数度、佐藤教授(当時:久留米工大学長)南区和田の自宅に訪ね性能や強度計算書をチェックと共に、意見を伺う。 両氏は昭和5年九州航空界、同6年九大航空界以来のお仲間。 佐藤・前田で日本滑空界をリードされた名コンビ、今回人力機の機名「SM-0X」はその意味合い。 時に茶話で往時の話題に及び、著名人の話も時に混ざり又お二人共、話し上手聞かせ上手は名人の域、私一人では勿体無かった。 
 
 佐藤先生第一回「西日本文化賞」、 前田建一師、第二回共に受賞者。 佐藤先生、先般 「勲2等瑞宝章」を(昭和)天皇陛下より宮中で直接授与される。 同時授賞の作家火野葦平氏ら「天皇陛下」交え御歓談の席上火野氏例のカッパ論、宮崎には飛行ガッパ(宮崎航空大学の意)が~。 宮中庭園の池を指差しあそこには「・・カッパ」が~と、 途端陛下が指先と池を眺め見て真剣な眼差しに、当の火野氏自身コロガランばかりに驚かれたとか、描写が実に真実味を帯び話振りに感動する。 私事だが後年、前田航研テストパイロツトで日本記録達成の川辺忠夫氏ご長男と私の妹の結婚式では仲人頂き、恐れ多くも「勲章」下られたお姿は印象深い。                                                                         
 余談乍ら、人力機を通して学生達の賭ける努力は、私自身幾多の経験と勉強させて頂いた。  オヤジさんより計画から設計・製作・飛行まで一貫した流れと手法を目にし脇役ながら実体験、それをものにし又、伝える義務が芽生え始めた頃だった。 その意味では一番良い立位置に恵まれ幸運だった。
 
  木村栄文氏(RKBディレクター・芸術大賞二度の受賞)

 オヤジさんと共に栄文(エイブンさん)の功績も認めなければならない。 RKBディレクター・ドキュメンタリー取材で当初より係り、時に製作過程での取材が疎ましく思う事も正直、しかし栄文さんの執念が今も事実としての記録は有難く、と共に当時学生達の励みになってたからだ。

 
 飛行試験に於いては、米軍や自衛隊基地使用の段取り、運搬費用負担から時に足代わりや、宿泊手配などオヤジや学生達が結実に向けた努力の結晶を、花開かせるべく常に下支え頂き、我々にとり成功の可否をも左右したと云える。
それが取材とは云え栄文さん個人献身的な意思が働ていたとしか思えない。
後年「東芝日曜劇場」撮影現場に於いて所掌外にも係わらず寄添う如き働きはその証明とも、オヤジさんに惚れ込んだ、お一人。  
 
  栄文さんは、私も画面フレームに納めようと仕掛けるが、学生とオヤジさん主体の作業。 以後 福岡で「福岡航研」後も再々1本撮らせろは口癖の如く、「芸術祭大賞」二度も受賞のお方。 恐れ多くとても私の器小物に付き、又笑顔の奥に潜む心眼は怖い、こちら酔っ払って大口叩くもニコニコは時に惹き込まれそうになる。
 
 一度だけ、西日本新聞コラム「紅皿」連載となり、その初回稿オヤジさんとの思い出や私の仕事を紹介、新聞社特段記事の扱いで紙面を飾る。 高倉健、戸塚某、九大女医(本来八代のお姫様)、女優宮崎美子、杉山龍丸(夢野久作長男)、大楠九大教授(東大から、高速艇制御部門委員長)、作家森崎和江、音楽家、美人アナウンサー等々多士済々は吾が生涯では絶対ご縁のない方々を紹介、会飲食の機会を頂いた恩人。  尤も高倉健さんとは折角の機会に出張で時間がズレすれ違い失礼をば。 
 
 又健さんとは、 当時マル秘滞在の地「西表島」で余暇を過ごす為のレジャー艇、 全くの別ルートで受注・建造。 現地若者に一切を任せ依って対面の機会が無かったが、営業担当からは詳しく話しを聞かされ、お人柄は評判通りのお方だった。 主に洋上で停泊、お昼寝が専らだった様子。
 
 序に 日航機羽田沖「片桐機長」不時着事故の時RKB「モーニングショー」担当プロデューサー、急遽解説を頼まれたが、佐藤先生を紹介事無きを得た。 マサカ片桐機長の挙動が後日明かされるに付け、私なら技術論で話したかも、冷や汗。
 
 長崎から福岡通いはその後も続くが、私も不規則な仕事柄夜伺い一夜、都度の案件を検討や打合せ済ませ、朝長崎で仕事が多くなる。 従って工場には余り顔出しは出来なかった。 依って天本君ら上級生3名以外余り知らない侭。 しかし製作が着々は、伺った際の話と写真が次々と送られて来たので、その間詳しい状況知らねど完成に向かってる。 翌々年の12月晴れて板付飛行場で初飛行の時を迎える。
写真はその直前送られた工場内記念の1枚。
 胴体と主翼前縁はスチレンペーパー、他は和紙に塗料を塗布。
 中段右端がオヤジ、左端エプロン姿が奥様(津奈)、影の主役
「ぜんざい」でも振る舞われたのか、甘辛両党の私も何度か節目に。
 
 飛行試験を翌日に控えた前夜から、六本松自宅で最終計測の重量を基にオヤジさんと何度も計算を繰り返し、プロペラ効率、有害抵抗を過小に底上げ等々するも一向に期待の数値が出ない。 パワーは栄文さん紹介で競輪界推薦の即席パイロット岩崎さん、期待の若手で申し分無い。 上昇率はマイナスと出る始末に計算上パワーを2割程度割増しで、辛うじて最小飛行速度確保となるが、後は長スパンに依る地面効果に期待が前夜の状態。 学生達の期待に反する事態に重苦しい思いで翌日板付飛行場に向かった。 
 
 当時現福岡空港は、米空軍板付基地として全て米軍の指揮管理下。 前日から広い格納庫内で学生等により組立てられていたが、細々とした作業は数時間要した。 格納庫は西側にあり、米軍ジープ先導で管制と無線連絡を取りながら、広大な飛行場滑走路を横切り東側つまり現ターミナル前まで機体を押しながら移動は大名行列の如き光景。
 
 無論 その間飛行場は全て飛行停止B727数機待機、基地司令官も見学に来ていたが。アメちゃん、この様な事は大好きなのだ基地上げて支援体制は凄いの一言。
数年前、 堀江謙一さんヨットで太平洋単独横断、サンフランシスコ無事到着の際、
米国はもとより世界を驚かせ一躍ヒーロー扱い。 日本国内は不法出国が問題化。
私の経験、 軽飛行機試験飛行で運輸省所轄の小倉空港で関係者懸命な手続きと努力の末、 空港運航前午前5時~7時前が辛うじて許可は彼我の差異に暗然。
当時、 定期運航便は無く報道関係小型機のみの稼動状況だった様に見えたが。
 
 周囲の家々の二階窓や屋根上には大勢の見物人も見え、道路脇は車が連なる。
現第一ターミナルビルは鉄筋骨組みの建設途中。 私は高校時代このフェンスの向う側を毎朝自転車、夜はランニングしていたのを思い出し感無量。
 
         勿体ぶる様で申し訳ないが、推敲に長き文面が手間取り
         未だ書き記すべき内容中途に付き、 悪しからず。         
  フリーになり仕事もそれなり順調にこなし、当初の力みも無く比較的落着いて来た。
 世話になってるT社長からも信頼され、次々新しい仕事を任され事務所には依頼された案件が、私に回され何でもこざれとばかり遊軍の如き立場で取り組んでいた。 
 
 その様な時大瀬戸の造船所社長が訪れ、クレーン台船(バージ)がクレーン搭載の為回航中妙な軋みが発生、補強したいので問題の解決を検討指示を依頼される。 L(全長)45M・B(幅)18M・D(深さ)2.5M で自社設計の図面を広げ見せられる。 造船所は殆ど設計者を数名抱えている、無論私以上のベテランばかり。 しかし日頃からの疑問だったが、船の構造はL・B・D・d(喫水)で外板や骨組み以下ほぼ自動的に算出される。 鉄や綿を積載も経験工学から簡単数式で算出、ほぼ全構造が決定。
 
 各船当たり前の如く数千トン~数万トンの船体も又全世界共通。 航空機やクレーン・構築物然り荷重による負荷から決定が当然の筈。 そこで船体設計のベテランと云えど、その手法で皆仕事はこなされている。 従って予期せぬ事態の対応能力に欠けてるきらいは否めない(失礼)。 早速専門書を数冊買求め、同船の構造を剛性や重量から又様々な角度から比較検討、問題と思われるあらゆる要素・要因を塗り潰す様に追求の結果、スラミングの現象が航海中に発生したとの結論に達した。
 
 過ってゼロ戦開発当初高速飛行中、機体が謎の空中分解(フラツター現象)、パイロット死亡の悲劇が有名だが。 つまり機体(船体)の剛性と外部の力(外力)が同調、つまり固有振動数が一致したまたま共振現象(スラミング)が発生したものと推測。
これらの現象は異常振動による損壊若しくは疲労によるダメージに繋がる事となる。   
 
 問題の台船は、クレーン搭載前と未だ様々な機器や設備がなされる。 つまり船体固有振動数は今後変化が予想され、当時は偶々の現象であったとの結論。
一切補強や改造無用を計算書を添えて提供、実際それ以後の発生は無く解決。
 
 余断乍ら、後日同社からの支払いが滞って仕舞った。 T社長の請求に対して
金額が互いに齟齬が生じたのである。 つまり費用対効果の問題で立場の違いから評価が別れたのだった。 造船所サイドでは何も無かった、工事が省かれたのである。 こちらサイドは技術力の粋(?)を発揮し必要最小限に事を治め解決を見た。
T社長の迫力ある説得で事無きを得たが、 技術力をどう自己評価は経営上、常に横たわる問題であり私の不徳のいたす弱点でもあった。                                      
 もう一点、前記の経験から後年経営の福岡航研では振動解析や直接応力解析では国内稀有な存在となり、特に外国検査機関から重用の機会を再々戴いた次第。
 
 炉の設計も私の仕事。 S築炉は長崎の企業ながら営業先は全九州に渡る。
耐火煉瓦を積重ねガスバーナーで高温度な環境を造り出す設備で特殊技術。
三菱では造船所と共に、 巨大船用のデーゼル機関も製造している。そのクランク等、鍛造で加工された半製品を残留の内部応力を除去の為、再度高温下で焼鈍す為の焼鈍炉設計をしていた。 車のクランクやカムも同様な処理をされてる筈?だが。 
浦上の同社事務所で打合せ中、背後のテレビが騒がしく皆、集中して釘付け!
三島由紀夫の自衛隊突入事件が勃発、正にリアルタイムの中継だつた、悲劇に終ったが、炉の設計は常に当事件が蘇るお粗末な話。  
 
 林兼造船(現:福岡造船 長崎工場)の2万5千トン用の乾ドツク水門も記憶に残る仕事。 乾ドックだが陸上側は通常の船台で海側は海面下に有り、半乾ドツクとでも当時初のユニークな発想。 工場では新設のドック、 船台全長190M 幅は36M。
従って水門は幅38M、高さ7~8Mの規模、出入船時はポンプで海水を注排水。
 
 水門は開閉で無く、クレーンで吊上げ除去、従いクレーン能力から重量制限が課されており、 一方水圧は深さにより圧力が変化する、即ち荷重分布が異なり直接応力計算が必要、私の得意分野。 初めて造船所に吾が腕前を披露された。 
尤も、初の灯台敷設船や中型貨物船、船尾式漁船(スタントローラー)、補機台や翻訳等々で出入りの仲、信頼されての仕事。 応力レベルでの計算と設計は自信作。
 
 所で計算云々が随所に書連ねたが、特に強度計算は丸型の計算尺を常用。
電卓など無く、数値は指数で扱い整数以下3~4桁で行う、従って少々の計算は、ほぼ暗算で読取る事が可能になった。 特殊才能では無く経験の積重ね(ルーチンワーク)から勘が作用、本当の科学的な勘が働いていたが。
現在、 電卓やPCの時代に適合(多用)、脳は最早化石と化して仕舞っている。
 
  油絵が県展に入選?!
 所得もそれ相当の稼ぎは同世代をかなり超える様になる、次なる投資即ちネオン街への散在で週3~4日は銅座通い。 独身の身で最早夕刻より出勤の如き有様。
6~7軒馴染みの店、仕上げはクラブ後同伴で深夜レストラン、しかし女性との誤解を招く事は断じて無かった。 30歳までに福岡で事務所を旗揚げの夢有ればこそ。
 その様な中、自身設計の店で将来性ある画家の卵(同世代だが)達を店内で展示応援。 県立N高校OB美術部仲間が集い私も同席、芸術論で盛り上っていたが。
皆さん一様に近々募集の「県展」に向け作品の完成に勤しんでいる間のひと時。
 
 しかし 美術論も聴いてると何か空理空論の応酬に思え、酒席での成り行きから、
だったら私も応募すると宣言!  且つ皆が落選し私が当選も有り得ると豪語。
尤も彼らを応援の立場、鼓舞する気持ちが言わせたのだが、行きかがかり上。
 
 私は50号の油絵パリ滞在時の記憶で「ソルボンヌ散策」を出品。 果たして、不幸?にも現実のものとなり皮肉な結果は長崎で数少ない友を失う事になって仕舞った。 
2名離婚、4名絵筆を断ち彼らのショックは、私の飛行機への夢が断たれた如く。
入選の喜びに浸る所か、爾来一切絵筆は持つ事無く今日に到っている。
 
   次回 ※④ 人力飛行機  
           前田建一師と福岡第一高校生達のドラマが・・・
           
 独立
  先月末(S43/7月)を持って水産会社退職、清算整理がほぼ終了。   S43/8/1が私の記念?すべきリスタートの日、 しかし当面の当てが或わけでも無い。  しかし何なのかこの開放感、 夏空の太陽が眩しく心清々しい思いが当時の心情。
 
 矢張り自分には技術関係以外考えられない。社会順応や適応力の限界も知る。 ドイツでのバイト探しの様に訪ね歩く事とした。 長崎は造船の町で水産時代にも度々造船所や鉄工所には出入りしてたが、 以前にも増して敷居は高く、 パス。 何軒か訪ねた中で、 T船舶設計事務所社長から雇われないが請負いならと。
 
  当事務所は若い女性4~5名、 通りの奥まった狭い一室で細々といった印象。 中小造船所相手に漁船構造図、クレーン、ボイラー、炉等手広く手掛けており、長崎では珍しく仕事の所掌範囲は私に取り幸運だった。 尚 長崎では三菱関係で数人の「下請けグループ」は無数にあり、 三菱付近山の手は民家の開け放たれた窓・窓・窓から多くの姿が風景の如く見られたもの、 当時冷房は普及してなかった。 
 
 後年知った事だが、彼らの仕事は専門的に別れ例えば、 基本計画(船型)、船穀(船体構造)、艤装(機関、甲板、内装)、電装(電気設備・機器)等々専門的に特化、 いわゆるツブシ(応用)が利かない。 又、殆んど二次若しくは三次下請けで仲間内の離合集散自然消滅も々。 長崎は工業高校造船科や造船大学も有り人材は豊富。
 
 製図道具一式は手持所有も自宅での仕事に製図板や椅子等揃え準備は万端。 しかし、T設計事務所からの電話を待つ日々、暫らく一向にその気配が無い。 顔を出し伺うも私の力量図りかね逡巡の風、 私も機械設計のみ経験丈に当然。
 
 最初の仕事は田上の山頂付近にあった無線局から。 当時珍しく高価なA0サイズでマイラーフイルムに烏口(カラスグチ)で桝目を描画する作業、暑さで滴る汗にタオル鉢巻、 失敗許され無い。 何しろプロとして初仕事、 事務所の面子も背に感じる。  納品の際、 相手担当者の言葉に安堵、依頼先に相当困ってたらしい。 一丁上り! 
 
 二度目が良く思い浮ばないがデリックの図面と強度計算が次々、クレーンの一種でポストと吊上げ用のブームで構成、能力500kg~2トン程度の吊上げ荷重。 鉄工所や造船所で内製されたケースが多く、控え構造も様々あるが労働基準監督署(当時)係官と荷重検査立会いまで所掌。 殆ど各社自前で造られたが監督署の指導で計算書提出を求められ、云わば救いを求めて依頼のケースが多く立ち位置は監督署サイド。 この仕事は私に取り計算する上で基本的に多種多様なケースに多くの勉強を強いられたが、荷重試験での緊張感は構造部材の軋む音と共に怖さと責任を実感。 技術者として机上計算と現場での実働を目にして、努力の要諦を学ぶ。
 
 造船・船舶設計(船体構造:船穀)のきっかけ !
 T社長や検査官の信頼も次々得られ、長崎県内各地からの仕事に一部光明が。
話はその数ケ月後、いきなり船体設計をする様求められた。 内容はODAでタイの保安庁に納める300トンの灯台敷設船だった。 2機2軸の鋼船で長崎市郊外、林兼造船からの依頼。 尤も佐世保重工からの下請けで、分厚いスペック(仕様書)や参考資料含めトランク一杯程度の量、図面はLine(船型線図)のみ、しかも全て英文なので回されたらしい。 仕事欲しさと若(馬鹿)さが貪欲にも喰らいついた。
 
 数日、独り資料に目を通すがサッパリ。 部屋は2階で手元に電話無く身近に問い質す相手も無い!  聞きようにも用語すら全く解らず正に「群盲象を撫でる」状態。  又 同じ設計でも機械の一品一葉が基本、一方はブロツク全体が図面一枚。   後年、福岡で設計事務所開設直後、新人に線の引き方からの指導に四苦八苦したが、 今尚  無茶苦茶な依頼に驚く、私は仕事領域の拡まりに期待したが、恐らく日本語資料でも同様な苦労を強いられただろう。
 
 昼間 何度も電車バスを乗換え都合半日がかり、造船所を訪れ恥ずかしさ厭わず基本から尋ねたが、そこは技術者同士気持ちよく接して対応頂いたのは救い。  質問内容の稚拙さに大概不安に思われた筈、今思うも恥ずかしさにゾッとする。  自宅での作業だけに24時間フルに使えたのが幸い、時折横たわる自由は助かる。 
 
 図面と共に構造計算書も全て英文が基本、専門用語や慣用句は普通辞書に記載無いのも混乱要因「めくら蛇に怖じず」日を経るほど後悔の念益々募った。
 
 彼此2ケ月余り、四苦八苦の末CAL.Sheet(構造計算書)・Const.Profile(全体構造図)・midship(中央横断面図)・ShellExp.(外板展開図)・BowConst.(船首構造図)・SternConst.(船尾構造図)・以下、甲板・船底・機関室・機関台・甲板室・上部構造・操舵室・アンカーベルマウス(船首アンカー口に覗いてる品)・シャフトブラケット等々都合20数枚。 納めた時点でほぼ造船のイロハ程度は理解出来る様になったと思う。  実質2ケ月以上の作業は、ど素人ゆえ堂々巡りが災いもT社長からお褒めの言葉。
 
 又 林兼造船所の課長以下スタッフ(総員5~60名程度)からは、此れまで多くの設計者を観て来たが、 造船設計すら初めてにも係らず、しかも単独でやり遂げた者は造船界でも恐らく無い事と断言し感心される。 私の仕事は、同社内で内々心配してた気配が伺えた。
T社長異国帰りの私を吹聴し引受けた事を後刻一杯の席で知る。  思い遣りと、一方造船所サイドでは持て余していた案件でもあった。
 
 その後、林兼造船所からは外国に納船クレームのテレックス(1~2M以上の長文)や米国の構造基準A.B.等々翻訳仕事を頂く事に。 博多工高時代のA.V.授業?(授業では無く、棚町ちゃんのボランティア)に感謝。
 
 後年、福岡で外国船設計には独自路線、造船所の中枢部から委ねられ、設計事務所では異例の役割を果たす。 その模様は福岡航研の項で記述の予定。
 
 時を同じくしてセキスイより延伸(熱収縮)フイルム製法特許が認証され金千五百円の特許料、現金書留で届く。 硬貨はご丁寧にもテープで台紙に止められていた。 記念にゴッツイ英語辞書を購入、翻訳には多数の辞書が必要で多様な活用に適宜其れらしい文言を探し解釈を当て嵌める作業、正直な所。
 
 以後 漁船の設計が中心となるが、水産業時代出入りの造船所では私の変わり様にマサカの表情。 くどい様だが私の人生ではこのマサカが常に付き纏う。  其れまで客扱いが、現場と設計の違いと担当部署も違えど仕事を頂く立場に逆転。  時に現場事務所で怒鳴り散らした覚え多く、倒産の事情も皆さん承知の筈。
混乱を生じたのでは、つい数年前の事。
 
 当時 造船業法の改正で新造船建造の造船所は3トン以上のクレーン設置を義務付けられる。各社軒並み対応に追われ、労働監督署担当者のご使命で県内隈なく回る事に。 大概打合せと監督官立会いの試運転に二度は訪れる。 業界では監督署は恐れ多いお役所、そのご指名なので扱いは全社上げての親切過ぎる対応は、監督官並み。 送迎も地域各社で分担持ち回り、特殊技術は立場や主導権をも左右し並の努力以上の可能性を知る。 
 
 ここで、お立寄りの皆さん不可思議に気が付いたお方はおられないだろうか。  建築では建築設計資格、や施工管理技士等々資格や試験の件。  しかし 航空機設計含め造船設計は全て無資格で有り、全世界共通の事情。  しかも人命や資産財産を委ねているにも関らず結果が全て。
 
  何れも、提出資料や実施の試験で実証と整合性は都度吟味される。  これら万一事故に対峙も、検査結果が通行手形で無く監督官庁の責でも無い。  全て製造側責任が問われる、今「製造物責任」が話題だが、とうの昔よりの事。  私が、船舶や航空機に係れる由縁。 
            
 クレーンの話で二話
 その一つが三菱香焼工場。 当時世界最大の百万トンの乾ドツク含み新設されていた。 大きな工場棟が数多く建設、 当然内部に天井走行クレーンが何基も設置。  新期クレーンはメーカーサイドだが、 中に本工場より移設のクレーンも20基余り鋼板組立てボックス構造やトラス構造も有り、明治以来の資料不足の案件も有る、工場の建屋幅一杯のスパン20~30M位だったか。 クレーンは定格荷重に対して静荷重・動荷重・過荷重・水平動荷重・地震荷重屋外の場合、風荷重(60M/秒:当時)の動圧等各係数が積算され、それに安全率1.25倍(定格荷重で数値は異なる)実質定格荷重約5倍程度の負荷を基に計算される。 因みにワイヤーはその6倍の抗張力保持を要求。 エレベーターも同等以上の安全率を課されてる筈、ご安心を。
 
 曲げ応力・せん断応力とそれら合成応力と長スパン(L)の場合撓み量(1/1000・L以下)が制する。 断面係数より断面二次モーメントが主要チェック項目。 それら飛行機設計の過程で主翼の強度計算は高校生以来経験済み、 但し主翼はこれ等に捻り応力、せん断剛性が加味される。 又トラス構造はクレモナ力線図で幾何学的に求める手法で、軸力に負荷される圧縮や引張り力で個々の部材強度を検証。  尚トラスの場合、 各格点に自重を配し各箇所のモーメント総和は0(ゼロ)が基本。
 
 監督検査官立会いの荷重試験は極度の緊張に包まれる。  荷重は過荷重つまり定格の1.25倍の鉄塊かコンクリートブロックが準備され数十人固唾をのみ見つめる。 しかし全体を把握してるのは私ただ一人。 目視検査し各部を検査官と金槌で打音検査して回る。 当然最高部にも昇る事となるが高所恐怖は元々、 足場も監督官の検査対象。 地面と繋がってると怖い不思議な感覚。 
 
  最大負荷の状態で撓み量測定は真下での計測ゆえ、 頭上が気になる。 検査結果は事務所にて関係者一同揃って、チェックリストに従い一部改善点も指導し、大概その場口答で合格を告げられ証書は後日発行。 帰路は検査官と送りの車で同道帰宅するが検査官も人の子、 我々互い顔見合わせホッとする。
 
 クレーン話 
 その二、 当時長崎在住の方なら大抵目にした事がある三菱造船所有の湾内に名物、 象の様な巨大フローティング・クレーン確か定格荷重60トン吊りだった記憶(?)高さも6~70M。 トラス構造で明治か大正時代建造の代物。 現在なら確実に「歴史遺産登録」と思われる。
 
 時は春の連休前、 旧い発電用ボイラーを整備補修の為、 船から陸上岸壁に降ろす際、 見掛け重量を誤り見事鼻先付け根部分で折れ曲がって仕舞った。 私もTVや新聞で事故の模様を目にし、当時長崎では評判の話題となった。 当時私の手になるとは思いもしなかった、 マサカの思い。 数日して労働基準監督署から呼出され、 その解決に協力を頼まれ引受ける事に。
 
 既に前田建一師亡くなられ、 来年福岡で事務所旗揚げの予定で、学生リーダーだった天本君達数名が連休を利用して、 神戸や関東から来る予定だったので正直困った。 折角の来長に自宅で本件計算の最中、連休明けにもと緊急事態に三菱からの要請強く徹夜の作業。 彼等には申し訳無い事になって仕舞った。
 
 戻るが、 変形なトラス構造なる物は初めての経験。 業務の場合大概書物が私の先生代わり、 即本屋や図書館に駆け込むのが私流。 定型の天井走行クレーンは参考例多く比較的簡単。  しかし今回は困った、幸い造船大学の学生がアルバイトでT事務所に居た、 建築科の誰か紹介をお願いする事に。  早速翌晩女学生が現れ、流石建築の学生クレモナは建築や構築物(タワー等)の分野で活用。 タップリ3時間要領の指導を受け、 結果連休明けには完了。  晴れて対岸から象のフローティング・クレーンが景色に溶け威風堂々姿を眺める。   その後如何なる経緯で何時ころ姿を消したのか、 知りたい。
  
                     
 長崎には親父工場長の鉄工所(社員40名)と義兄(姉婿)経営の遠洋巻網漁業。
当然技術関係で設計仕事を目論むも、ドイツ帰りが敬遠されたか侭ならず、親父と
同じ職場は居辛く、既にスタッフも揃ってるので所在無く1~2週間ぶらぶら骨休め。
再度渡航を目指す為、正式就職で無く云わば腰掛先を探っていた。
 
 見かねた義兄(次姉婿)から加勢しないかと声掛け、本船(網船)、灯船3隻、運搬船5隻の1船団所有経営していた。 事務所7名、船員計155名長崎では中堅規模、基地は五島列島有川(上五島)近くの阿瀬津に有り、船員ほぼ全てが同部落の親戚。
 
 義兄は原爆で一族失い天涯孤独の身。 大金が動くので身内が欲しかった。
長崎高商(現長崎大学)出ワンマンなヤリテがチト抵抗有るが身を預ける積もりで。
 
 漁業の世界は全て旧暦で動いており、月夜間(十五夜・満月)前後5日間が休息。 だがその間各船3~4ケ月に一度造船所に上架、船底の塗装と機関や電装品の一斉整備が待っている。 技術畑の私に船舶の管理が当面の仕事と両者共の思惑。
 
 毎月出漁時は、基地で出漁準備に追われ村を挙げての大急がし、私も出向く。
早々事務所サイドの私は食料調達から燃料や消耗品等、全般の手配で大童に。
 
 出網(港)は大漁旗を靡かせ軍艦マーチで本船を先頭に各船次々と連なり全速で湾内を三周、一斉に汽笛を鳴らしいざ出陣(航)。 岬を回り見えなくなるまで村一同での壮大な見送りは正に連合艦隊の戦陣に赴くが如く。 
 
 漁場は東支那海全体、南は台湾手前の魚釣島(夏季)から北は対馬北(冬季)まで、
主にアジやサバ漁が主。 夏季台風襲来で、台湾・基隆港に緊急避難も何度か。
漁網の巾着(きんちゃく)網は深さ150M、長さ1.5~2KMのネットで一網打尽、網は網目サイズや種類の上下配置が網じさんの腕次第、各船団最大の機密事項。 3人程
専用の小屋で常時手入れされ破網やまぐろ等急な魚種の変更に備えている。

 

 漁は話だが、日暮れより全船広範囲に手分けし魚探で反応を探り水中灯で集魚。
それらを束ね最後は灯船に集中され他船は水中灯を消し、本船が魚網を張るべく
域外に去る。 灯船3隻の内船頭の乗った一隻のみが残り船頭と本船(季刊-漁労長の指令で本船が灯船を中心に全速力で船尾から投網始まり飛ぶ勢いで投下され敷設、直径約5~600Mの輪を描くが如く。 作動はローラーウインチ含め全てが油圧。 発電機と共に石油で漁をしてる様は最早漁師に非ず工場作業、但し大きく揺れ足元は危険な海上、 「板子一枚下は地獄」の世界。 
 
 事務は事務員3名(女子2名)、他4名(私含め)遊軍として漁獲運搬船の荷揚げ地の漁港魚市場に向かう、 現地での食料仕込・給油等サポートと荷揚げからセリ立会い、精算(現金又は小切手持帰り)までが通常業務。 夜間操業の為事務所での交代で当直も。 沖から無線で漁模様を無線で傍受、会社独自の暗号解析表で解読
例えば、朝日の「ア」いろはの「イ」と早口での遣り取りは、現場の苦労と共に緊張。
 
 荷揚げ地は現地相場、沖の漁獲模様は東北の漁獲も考慮、先行きの天候等々、船団は他に154ケ統有り仕向け先は売上で大事な要素、事務所のK先輩が決定。
下関、仙崎、福岡、唐津や地元長崎等。 荷揚げは前夜から始まり朝3~4時にセリ売りが始まる。 何しろ運搬船1隻で貨物列車10両以上。 若手の私は運転手付きだが一番遠くや掛持ちでの出張はお手軽で便利な存在。 永年この業界の先輩達からコキ使われは多少ヤクザな世界観もある中で、特に冬は寒さが堪える24時間365日勤務だった。 が不思議とこの期間、雑誌含め明治・大正文学等々ほぼ読破。
 
 各船団の漁模様は位置と共に魚市場内4階、無線局長へ朝4時に報告が集まる。
漁区は全海域500Mの桝目に区分けされ夫々系統別番号、ひと目で位置を把握。
船団の模様を真っ先に知るべく毎朝出勤?し局長と共に受けるのが日課となった。
それら資料を整理し朝一で先輩に報告、其れが仕向け先決定と現場指揮の漁労長にも情報、漁場選択に生かされ、1年後私の立位置も少しずつ見直され出した。
 
 月夜間造船所では早くも船に精通の私に船長や機関長、船員夫々が次々と矢の催促、時には喧嘩の如き次第に。 各造船所も各船主から追われ現場工員の人達も混乱状態、部品の遅れ等もう造船所担当や幹部に談判は常。 先輩達知らぬ存ぜぬで木村へと投掛けられ正直逃出したくなる。 しかし船員さん達を一日でも五島の家族の元に返したいと慮った使命感に支えられた。 一方若手船員からは夜歓楽の銅座へと誘われる、私の5~10倍の給料、しかも食・住無料の世界、可処分所得はタップリ、荒くれ男に資金豊富は金遣いも荒い、従って夜の世界ではモテる。
 
 彼らは一夜か二夜の散在だが、次々相手変わり主変わらずが、やがて自身馴染みの店も。 はしご酒もこの頃から。 昼は事務長から銀行廻り、手形の交換や集金に働きずくめは、夜が恋しくなる。 長崎に友は無くセキスイ時代を懐かしんだ。
 
 水産会社は五島の漁師から始まり代々の歴史が有る。 基地や船員さんは五島列島や生月在住、 事務所は長崎が根付いていた。 義兄は巻網の運搬船からスタート後発の為即製の船団に過ぎない、要員も人数合わせの様に集められていた。
漁業権を取得(購入)し新たに起業、従って漁業はズブの素人だつた。
 
 五島出身のK(38歳)さんが実際の現場指揮を執っていた、又義兄(41歳)は経営者としてそれなり指導力を発揮していたが現場には疎く。 私自身現場を小間使いの如く走り回り見聞き、最前線を体験しており、やや斜め目線で模様眺めしていた。
 
 時に漁労長(総指揮官)齢34~5歳。 しかし貫禄と人品中々の大人物、海の上では働き盛り。 一族郎党を引連れ裸一貫、中卒飯炊きからの叩上げ。 各船の船長、船頭(漁労長の片腕)、無線局長、機関長、甲板長やボースン(各担当係長か)、船員と総勢を統括指揮と漁の全責任を背負い、会社の命運をも担う存在にある。
 
 所有漁船はほぼ新船、漁労機械機器共に網も、網は船1隻分に相当は大変な投資。 網が新しい程シケでも多少無理な操業が可能、且つ相場は上がる。
入社当時飛ぶ鳥落とす勢いで大漁に沸いていた、常に1~5位に位置。
一夜で1千万(S41当時)円は年数度はあった、羽振りの良い時である。
会社は新たに漁業権取得(当時権利金3千万円)し、もう1ケ統編成すべく、博多ドックや福岡造船で5隻契約、新船建造となった。
 
 夏場は漁場遠く台湾附近、鮮度落ちもあり漁獲の割りに売上げ減に一同落込む。
又旧盆前後小1ケ月は一斉休業、船体の整備、機関・電装機器の更新にと大忙し。
経費も半端でなく次々と出費に経理担当KN氏の表情も歪む。 同氏は元々長崎名家名門の出、立ち居振舞いは英国紳士の如く。沈着冷静は漁業事務所には不釣合いな位い、又私の良き理解者でもあり義兄に唯一箴言出来る存在。 
 
 漁は3月不漁が続くとアッケ無く不協和音が芽生える、先輩Kさんと漁労長の齟齬である。 次第に脹らみ漁労長交代の事件勃発! 船員一同総引上げであつた。
社長やKNさん引留めるも、漁労長頑と応じず、再編成の羽目となって仕舞った。
先輩Kさん弟が他船団の副漁労長、彼を漁労長の目論見が有ったとしか。
  
 しかし統括された組織をするには、其れなりの資金も必要、正に弱り目に祟り目。
Kさんの弟も身を引く始末、果ては事務所挙げて船長・局長・機関長一本釣りでの
員数集めに奔走。 社長親しい船団の社長に懇願し協力を頂き取敢えず出漁は目出度くも、組織として未熟。 統制も以前とは較べ様も無く、従い漁も当然の結果に。
会社はKNさんが銀行との折衝、私は手形の延期手続きや融通手形の書換え等に
使い走りが多くなり、やがて数ヶ月で不渡り倒産の憂き目。 入社1年半の時。
 
  事務所倒産ながら、所有船舶や資産売却処分等々相応の処理に追われる。
身内でも有り、社長、KNさん、私と運転手計4人が最後まで残務整理に従事。
金融機関や購入希望の業者に各地に点在する当該船の案内が常日頃。
給料はそれら資産売却の際、最優先で保障され過っての忙しさが程遠く暇。
 
 その間の事、行き付けスナツクのママさんより改装の相談。 業者見積もりは
120万円(当時)、 費用を抑えたいとの話、興味深々私が遣りたいと申し出た。
そのスナックは深夜他店が閉まりつつある中、偶々灯りを見て入ると三菱に監督で滞在の英国人男性二人連れが客。 外人相手に身振り手振りをまじえママさん窮してた時、幸い相席してチェリオと乾杯して以来、 馴染みの店。
 
 スケッチブックに私案をイラストで数種類提案、はしご酒から同等他店は知ってる
積もり。 夢脹らみドイツ民家風が気に入られ設計は機械と違えど本業。
大工さん3名一週間確保願い、事務所近くの材木屋で規定サイズにカットや切込。
壁紙も資材屋で直接購入手当て。 果たして1週間後一切計17万円! で済ませた。
店は若手画家の展示場所として又集う所となり繁盛。 蛇足乍ら13万円(太っ腹のママ)の借金もチャラは有難かった。 数年後、私が福岡に進出1年以前か中洲のど真ん中に進出され飲兵衛再び客になったご縁あるお方。
 
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  ドイツ帰国直後より、グライダーの夢覚めやらず設計・モックアップ
   自宅裏庭にて製作中の一コマ、仕事の合間にコツコツ製作してたが
「人力飛行機」挑戦で中断(S41~42 19667頃) 親しい友人も無く、
仕事と読書・趣味に集中していた蓄積の時代。
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   又当時 将来を踏まえ夜間の簿記学校に通い簿記三級だが経営に充分な知識。
銀行間や本支店の経理等授業受けるも、 財務や決算書理解出来ればの程度。
 
   1年余り、会社整理も一段落私自身の将来像を描かなければと辞し会社も閉鎖。
この2年半私に取り「サラリーマン」の覚えなく、宮仕えだった。
自身反省含め、 水産の世界は或る意味個人感情剥き出しの面もあり、 理不尽な事に悩む事は再々、 吾がひ弱さにホトホト自己嫌悪に陥る。
 義兄曰く、 「利口馬鹿より馬鹿利口」になれと、 徹しきれなかった。
   
        
夢に燃え数年がかりの準備と貯金、 図らずも帰国の止む無きに悔しく再度渡航を目指す。
観光ビザでの労働許可は各地で試みるも頑固に拒否され、闇の就労は周辺部では目立ち困難。
シュライハーとシャイベ社は受入れを承知頂くものの、同理由で壁に突き当たった。 
シャイベのデービッドスティーブンソンからミュヘン大学へ聴講生を勧められ、英文の卒業証書(ディプロマ)を福本先生宛てお願いも返事なく(後年、依頼されるも前例、例文無く断念らしい)。 再度書類整え(ビジネスパスポートと就労ビザ取得)伺うと約束したが、再度の資金調達が問題。
 
 愈々帰国のウイーンの駅、モスクワ行き国際列車。 駅構内人は少なく夜10時出発の予定、荷物一切を抱え改札へと急いでいた時。 目の前に眼鏡をかけチョビ髭の中年日本男性が呆然と立ち、聞けばチケットを友人宅に忘れて来たらしい。 友人に連絡取れないのか出発1時間は切っている最早遺憾とも、大変ですねとかで先を急ぎ手続き済ませ一応乗車。 当該車両に乗客は私ただ一人、例のコンパートメントだがソファーベッド前後に対面式の二人部屋。 数時間後の深夜チェコスロバキア入国、又煩わしい国境越えの手続きは迷惑千万だが諦めるしかない。 しかし程な く妙齢のスラリとした美人が合席となった、不思議にも男女別がこれまでの経験。翌日も一日彼女と二人っきり、一昨年東京オリンピック体操で活躍のチャスラフスカの印象まだ新しい。
 
 しかし彼女はチェコとロシア語だけ、身振り手振りの会話は互いに思いの半分も伝わらないが日本人女性の様なやさしい感情には好感、モスクワ大学の留学生で帰省後再び向かっているらしい。 何をどう過ごしたか小さなリンゴを頂き齧った以外、勿体無くも記憶が薄い。
 
 翌夜ロシア国境で例の台車交換と手続きに数時間覚悟の時、突然駅内に来るよう呼出される。 何事かと事務所に出向くと例の中年男性が居た、ウイーンで取合えず本列車の料金だけ支払い乗車したらしい。 言葉が通じず私を思い出し応援を頼んでの事。 当然日本迄の旅費経費は一括支払い済み、名簿や手続き全て挙がってるのが共産圏、国境だけにドイツ語は通じた。 約2時間余り、官僚体質の係官数人と喧嘩ごしの談判、相手は数回何処か電話連絡を取りながら私も必死の交渉。 
結果、翌日モスクワ駅で代金返済の結論に到る、彼の喜び安堵の表情今も浮ぶ。
 
 勝利気分で彼のコンパートメントに連れられる、同室はロシア人の陽気な若者。
若者持参のウオッカ60度をボトルごとラッパ回し呑み数本、先程の出来事を言葉通じずとも一件落着も手伝い酒宴が始まった。 60度は最早純粋アルコール、ピクルスを齧りその液もゴクリと飲みながら。 彼(A氏)は宮崎大学の助教授でイタリアにオペラ観劇を目的に行った帰途との事。 酔う程に高音でその時の感動、感情豊かに歌曲を車中響かんばかり歌い且つ呑む。 幸い車両はこの一部屋のみ貸切状態は同様いつ寝たのかサッパリ覚えなく、しかし早朝モスクワ到着。 不思議と二日酔いも無くスッキリは不思議、良質のウオッカだったのだろう。
 
 昨夜国境駅の際事務所まで付いて来てくれた彼女、寒いからと引上げさせ其の侭に、荷物を取るべく部屋に戻ったが既に降りていた。 暖房効かず寒く再々車掌責めるもラチが明かず、彼女どう過ごしていたのか気にかかった別れ。
 
 今回は古色蒼然「メトロポールホテル」ツアー(皇帝)の時代を彷彿させる豪華で華美な総大理石造り、最高クラスのホテル。 国立グム百貨店の裏手か(G.MAP確認記憶確かだった)街の中心部に位置。 早々レストランで朝食は既に懐かしいボルシチに黒パンとリンゴジャムの入った紅茶で旅と呑み疲れを癒す。 ロシアのホテル全て各階エレベーターホールに監視と思しきデップリ肥えたオバチャン愛想無く24時間出入りをチェック。 部屋に戻る際そこにか細き日本女性が困惑の態、聞くとご主人が体調崩し部屋で難渋してるらしい、招じられ行くと腹痛、引返し例のオバチャンに薬を所望、部屋の水道水を飲んでの事。 ヤバイは私も翌日油断しウッカリ飲んで同様な腹痛と下痢、しかし自然治癒に委ねた何を飲まされるやら
 
 ご夫婦はパリで日本人経営の寿司職人として3年振り、四国・松山に帰るとの事。
あのパリで数年間定住は尊敬する、しかも言葉は日本語のみ、どの様な生活だったのか聞き漏らしたが、思い出すにゾッ。 昨夜の列車と二度人様のお役に立てた。
 
 昼間グム百貨店や赤の広場を散歩がてら、外気は-30℃各所に看板並みの温度計が-50℃近くまでの表示、所変われば。 ホテルの二重ドアを出た瞬間、ガチーン額を殴られた様なショック、頬も硬張り鼻毛はガリガリ音を立てる。 積雪は無く青空太陽の光を受けてるが空気がチカチカ光っている、聞くとスノーダストらしい光が漂う如く。 ミュヘンの寒さとは格段の違い着衣は不充分、早々に引上げた。
 
 モスクワからの機中、ハバロフスクからの車中、ナホトカから客船「バイカル」号で
都合4~5日間一段と華やかで賑やかなグループと同道。 劇団「民芸」30名程度の内10名程か女優含めた一団、数人テレビで見馴れた顔も、事件記者の滝田裕介、大滝秀治、高田敏江(共に後年知る)他、以後度々TVで見かけ思い出す。
 
 船中、食事は毎回高橋征男さんと相席、比較的無口で真面目一方に伺え俳優の片鱗薄く(失礼)。 後年長崎の民芸公演で再会。 原爆をテーマの演劇、同一人物とは思えぬくらいの迫力、彼の出番に客席の反応一段と湧く、矢張り役者だった。
終演後、片付けを手伝うが先程の女優さん達も作業姿で専用トラック積込は驚き。  
附近の寿司屋で会食、数年の空白を埋めたもの。 現在劇団活動の中、作・演出家としてご活躍の様子、当時の直向な性格は今尚の感。(今回調査で消息判明)
 

 翌々早朝、房総半島を交わし東京湾入り口に差掛ると、真正面に富士山がポッカリ野に1点聳えるが如き見事な景色、まるで浮世絵の様な景色に驚嘆、今も瞼に。 

 
    次回 ※① 帰国後 長崎
          
  年賀状でのアレコレ 元旦に受取った中にウッカリ失念していた相手に慌てるのが必ず数枚。 早速、簡単に近況を一筆書添え投函は元旦の初仕事、 年一度の消息を伝え合う日本固有文化。 しかし逆の場合も、同じく返礼が届くのが昨日辺りからボツボツ、だが永年の好誼に期待外れも少々。 果たして何か異変でもと気遣うが来年は止めとこう、 少しずつ知己が減るのも年賀状。 
 
  ミュンヘンの駅構内、青山学院大学の女学生3人連れヴィエナに行くと告げられ一瞬何処?と再度聞き直す、オーストリア・ウイーンの英語読み。 旅で大概目的地の地図を出発時から持参しているが、彼女達は英語の地図だったのだろう。 私は観光目的では無いので各地のガソリンスタンドで入手を心掛けており当然現地の呼び名が身についていた、日本人同士でも多少の感違いも異国ならでは。
 
 ドイツ語ではウイーンはヴィーンと発音。因みにVはファー、Wはベー(バ行)従ってフォルクスワーゲンは「ファーベー」と発音する、時々私にはドイツ語の中に固有名詞を親切にも英語で説明は有難いが多少の齟齬を生じる事も?が、旅の一興。
 
 以前ドライブ中行き交う中で「ヤグワ}が英国車の「ジャガー}を意味、ジャパンは
「ヤーパン」となる、 滞在中次第に聴き慣れ心地よく、吾れ日本人を自覚したもの。
ビッテシェーン(どうも、どういたしましての意)もビッテシャーンと来る、イントネーションの違いも慣れるに従い判別出来るオーストリア。  
 
 ウイーンは都合二度の経験、最初は単独行でひと通り観光目当て中心部の歩行範囲、シュテファン大聖堂、シェーンブルン宮殿の広大で荘厳な様は圧倒される。
しかし石造りの数々と広々とし且つ全てに左右揃って対称的な光景は見疲れる
日本庭園や家屋敷、こじんまりと纏った雰囲気とはまるで異なり違和感が腹一杯。
 
 出発時セキスイ先輩の沓掛さんから頂いた岡倉天心「茶の本」、前田建一師から
「菊と刀」何れも日本の精神文化を代表の書、外国被れする事の無き様の親心。
旅のよすがに熟読、日本文化を過分に意識は余計に募っていた時期。
 
 ウイーン少年合唱団、モーツアルトの像、ドナウ河畔の印象はひと時の寛ぎ。
夜はフォルクス劇場でオペラ「サロメ」を観劇、切角の機会でもあり目一杯。
 
  大月フジ子さんとのご縁? (フジコ・へミング : ピアニスト)
 二度目は帰国の際、ウイーン発モスクワ行き国際列車で出発の為。 チェコ、ポーランドの通過ビザ取得の為余裕を持った滞在日程、出発当日の朝、日本大使館に。
滞欧中、日本の情報と活字に思いは各地領事館や大使館で数日遅れの新聞が楽しみだった。 廊下に面した団欒大広間ソファーで拾読みしている時、 明るい日本語で大使館員にお早よう御座いま~すの声。 丸めたポスターを片手の日本人女性、リサイタル開催で大使館へ来られ館員と親しく言葉を交し壁に手際よく、そのポスターを貼られていた。
 
 結構広いスペースに私一人ポツン、明るい声で私に問いかけ予定はと聞かれ、
今日はフリーを告げると、案内をしましょうか? 渡りに船。 留学中で流石 街に詳しい様子、予定無く暇つぶしに手持ち無沙汰の時。
 
 名刺を頂き 「大月フジ子」 ピアノ奏者を目指し留学中とか、リサイタル開催に漕ぎ付けたらしい。 此処は音楽の都ウイーンである、中々のお人と思うが当時感心無く気安くご案内を願った。 ムカ衝く様な荘厳シェーンブルーン宮殿も説明頂き乍らの見学は一味もふた味も違った印象。 街中のカフェでガラス越し町の風情を味わい、昼食はウイーン大学の学食。 外気マイナス10度以下寒さが芯まで凍りそうな時。
移動は勿論徒歩で一日中、ユッタリ周囲を眺めながら雑談で散歩程度の歩行。
 
 有名な音楽家の方を挨拶がてらとその自宅へ同行、生憎ご主人は海外へ演奏旅行中、奥様は愛らしく若いスェーデン女性、上品な器に暖かい紅茶で持て成され寛いだひと時。 室内にはピアノ、壁には数種類の弦楽器が絵画の様に飾り付けられており、又日本の高価な扇子や着物、風呂敷も芸術品の如く部屋の壁に装飾。 来日演奏の経験も有るとか。 音楽家の部屋内雰囲気は印象深く、高名なお方と察した。 
 
 ドイツの若者は等しくスエーデン女性に「スベンスカ」顔や金髪に憧れの女性像。 
大月さんと親しく会話の中で覘く笑顔や横顔はチャーミング、しかし音楽家の名前は記憶に無く。 その後大月さんが自宅でピアノを聞きませんか? 誘われたが最早夕刻、今夜出発の時間が迫りつつある時、折角の誘いを断ってしまった。
 
 後年、※NHKのドキュメント番組『ETV特集』「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」が放映されて大きな反響を呼び、フジコブームが起こった。(※ウィキペディア引用) 
 
 とある深夜の番組、思わず画面にクギ付け本名は「大月フジ」恐らくあのお方イヤハヤ大変なお方と化していたのだ。 顔や言葉も完璧に日本人だったが、スエーデン人父とのハーフの片鱗無く百パーセント日本人だった記憶、画面の舶来染みた顔は印象が少し違う。
その後の年月が風貌や外国訛りの日本語に進化 ? したのか。
 
 大月フジ子さん難聴と・・・、私が原因(タイミングが合っている) ?
 初のコンサート直前に風邪を拗らせ耳が不自由にコンサートが中止になった事を知る。 余りにもタイミングや話が合いすぎる、まさか・・・。 彼女には事件の筈!  私が犯行当事者詰り犯人? 疑問はトゲの如く心奥に、本を求め確認も年次が違う。 
 
 7~8年前か、上京の際思いきってtellをしてみた。ご本人パリ在住で不在、弟(大月ウルフ)さんとの話。 現在カフェ営業(当日は閉店)の傍ら、日本で姉のマネージメントしているとの事。 当時の状況を聞かせ確認を求めた所、本人は至って気紛れな性格なので時期の違い位い再々と軽く。  だったら矢張りの疑問益々解けず。
彼は博多の食に興味深々、魚采類は新鮮で多種多様な味が楽しめる本場。 但し彼女は菜食主義なので店選びには苦労するとか。 来福の節は是非会おうと約束し連絡先を伝えたがそれ切りに、しかし菜食主義の方には判断し兼ねる食・店選び。
 
 以来二度程、福岡でのコンサートが開催されてたが、此方から食事含め訪ねる勇気無く。 立場が往時と余りの違いに、 遠くご活躍を祈るのみ。
 
 ドイツ・ヨーロッパ各地夫々の思い出膨らむ一方ながら、ゾーリンゲン・シュタッヘ
ご家族、グライダー各社訪問は当然の事乍ら、彼女とは帰国後その高名と力強いピアノ演奏は特に印象深い、 青春のひとコマを飾っている。
 
 ヨーロツパで異質、異様な体験。 テレビは未だ白黒画面は当然だが番組は区切りの時間はマチマチなので突然に終わる。 又昼間は殆ど放送されていなかった。 
ある時訊ねると日本人は何時働くのかと逆に問質される始末。 旅は時折り列車を利用したが数十分の遅れは当たり前。 オマケに到着や出発のベルは一切鳴らず。
突然動き出すのは驚き、 しかし誰も怒らず騒がずは大人社会か諦めか今以って。
 
   さて帰国直後、交通機関の速度や時間の正確無比は異常な神経を強いられた。
 所で帰国に至った経緯をここで、 約5年程度滞在予定でドイツを目指したが、就労には1~2年前の法改正で別途就労ビザが必要を知り予定変更の止む無きに。
当面の生活はモグリのクローク・アルバイトは見付ると強制退去の危険。ドイツ人は規則には事の外頑固で融通が効かない。
 最早長期間滞在は無用と帰国を視野に、幸い丸山さんより有難く資金融通の快諾を頂いたが、さて返金は当然ドル。 バイトのレストランに何度か来店の某(失礼にも名前ど忘れ)さんの送金口座とドル枠を利用させて頂く事に。 某さんは富士通から技術研修でシーメンスに長期滞在中、帰国翌日練馬・下高井戸の自宅に御礼とドイツでの生活や一部聞き置いた仕事の事等を報告、 お父上はNHK研究所の次長さんだった。
 
  大阪では丸山さんのお姉様に彼のドイツ生活を報告。 阪神百貨店勤務で、売り場に案内し絹のエンジと黒の太いストライプ高級ネクタイを頂く。 横浜出航のおり岸壁から手を振って頂いたお方、 ネクタイは10年以上節目の際のみ着用、数年前亡の知らせを丸山さんからメールで知らされる、合掌。
 
 かくして前記以外にも多くの人達や家族のお陰で無事帰国を果たせた。
しかし再度渡航の上、ドイツ両社何れかでの技術研修の決意は一段と燃える。 
 
   次回 ⑳-6 帰国の途
          それなりエピソードの数々