長崎には親父工場長の鉄工所(社員40名)と義兄(姉婿)経営の遠洋巻網漁業。
当然技術関係で設計仕事を目論むも、ドイツ帰りが敬遠されたか侭ならず、親父と
同じ職場は居辛く、既にスタッフも揃ってるので所在無く1~2週間ぶらぶら骨休め。
再度渡航を目指す為、正式就職で無く云わば腰掛先を探っていた。
見かねた義兄(次姉婿)から加勢しないかと声掛け、本船(網船)、灯船3隻、運搬船5隻の1船団所有経営していた。 事務所7名、船員計155名長崎では中堅規模、基地は五島列島有川(上五島)近くの阿瀬津に有り、船員ほぼ全てが同部落の親戚。
義兄は原爆で一族失い天涯孤独の身。 大金が動くので身内が欲しかった。
長崎高商(現長崎大学)出ワンマンなヤリテがチト抵抗有るが身を預ける積もりで。
漁業の世界は全て旧暦で動いており、月夜間(十五夜・満月)前後5日間が休息。 だがその間各船3~4ケ月に一度造船所に上架、船底の塗装と機関や電装品の一斉整備が待っている。 技術畑の私に船舶の管理が当面の仕事と両者共の思惑。
毎月出漁時は、基地で出漁準備に追われ村を挙げての大急がし、私も出向く。
早々事務所サイドの私は食料調達から燃料や消耗品等、全般の手配で大童に。
出網(港)は大漁旗を靡かせ軍艦マーチで本船を先頭に各船次々と連なり全速で湾内を三周、一斉に汽笛を鳴らしいざ出陣(航)。 岬を回り見えなくなるまで村一同での壮大な見送りは正に連合艦隊の戦陣に赴くが如く。
漁場は東支那海全体、南は台湾手前の魚釣島(夏季)から北は対馬北(冬季)まで、
主にアジやサバ漁が主。 夏季台風襲来で、台湾・基隆港に緊急避難も何度か。
漁網の巾着(きんちゃく)網は深さ150M、長さ1.5~2KMのネットで一網打尽、網は網目サイズや種類の上下配置が網じさんの腕次第、各船団最大の機密事項。 3人程
専用の小屋で常時手入れされ破網やまぐろ等急な魚種の変更に備えている。
漁は話だが、日暮れより全船広範囲に手分けし魚探で反応を探り水中灯で集魚。
それらを束ね最後は灯船に集中され他船は水中灯を消し、本船が魚網を張るべく
域外に去る。 灯船3隻の内船頭の乗った一隻のみが残り船頭と本船(季刊-漁労長の指令で本船が灯船を中心に全速力で船尾から投網始まり飛ぶ勢いで投下され敷設、直径約5~600Mの輪を描くが如く。 作動はローラーウインチ含め全てが油圧。 発電機と共に石油で漁をしてる様は最早漁師に非ず工場作業、但し大きく揺れ足元は危険な海上、 「板子一枚下は地獄」の世界。
事務は事務員3名(女子2名)、他4名(私含め)遊軍として漁獲運搬船の荷揚げ地の漁港魚市場に向かう、 現地での食料仕込・給油等サポートと荷揚げからセリ立会い、精算(現金又は小切手持帰り)までが通常業務。 夜間操業の為事務所での交代で当直も。 沖から無線で漁模様を無線で傍受、会社独自の暗号解析表で解読。
例えば、朝日の「ア」いろはの「イ」と早口での遣り取りは、現場の苦労と共に緊張。
荷揚げ地は現地相場、沖の漁獲模様は東北の漁獲も考慮、先行きの天候等々、船団は他に154ケ統有り仕向け先は売上で大事な要素、事務所のK先輩が決定。
下関、仙崎、福岡、唐津や地元長崎等。 荷揚げは前夜から始まり朝3~4時にセリ売りが始まる。 何しろ運搬船1隻で貨物列車10両以上。 若手の私は運転手付きだが一番遠くや掛持ちでの出張はお手軽で便利な存在。 永年この業界の先輩達からコキ使われは多少ヤクザな世界観もある中で、特に冬は寒さが堪える24時間365日勤務だった。 が不思議とこの期間、雑誌含め明治・大正文学等々ほぼ読破。
各船団の漁模様は位置と共に魚市場内4階、無線局長へ朝4時に報告が集まる。
漁区は全海域500Mの桝目に区分けされ夫々系統別番号、ひと目で位置を把握。
船団の模様を真っ先に知るべく毎朝出勤?し局長と共に受けるのが日課となった。
それら資料を整理し朝一で先輩に報告、其れが仕向け先決定と現場指揮の漁労長にも情報、漁場選択に生かされ、1年後私の立位置も少しずつ見直され出した。
月夜間造船所では早くも船に精通の私に船長や機関長、船員夫々が次々と矢の催促、時には喧嘩の如き次第に。 各造船所も各船主から追われ現場工員の人達も混乱状態、部品の遅れ等もう造船所担当や幹部に談判は常。 先輩達知らぬ存ぜぬで木村へと投掛けられ正直逃出したくなる。 しかし船員さん達を一日でも五島の家族の元に返したいと慮った使命感に支えられた。 一方若手船員からは夜歓楽の銅座へと誘われる、私の5~10倍の給料、しかも食・住無料の世界、可処分所得はタップリ、荒くれ男に資金豊富は金遣いも荒い、従って夜の世界ではモテる。
彼らは一夜か二夜の散在だが、次々相手変わり主変わらずが、やがて自身馴染みの店も。 はしご酒もこの頃から。 昼は事務長から銀行廻り、手形の交換や集金に働きずくめは、夜が恋しくなる。 長崎に友は無くセキスイ時代を懐かしんだ。
水産会社は五島の漁師から始まり代々の歴史が有る。 基地や船員さんは五島列島や生月在住、 事務所は長崎が根付いていた。 義兄は巻網の運搬船からスタート後発の為即製の船団に過ぎない、要員も人数合わせの様に集められていた。
漁業権を取得(購入)し新たに起業、従って漁業はズブの素人だつた。
五島出身のK(38歳)さんが実際の現場指揮を執っていた、又義兄(41歳)は経営者としてそれなり指導力を発揮していたが現場には疎く。 私自身現場を小間使いの如く走り回り見聞き、最前線を体験しており、やや斜め目線で模様眺めしていた。
時に漁労長(総指揮官)齢34~5歳。 しかし貫禄と人品中々の大人物、海の上では働き盛り。 一族郎党を引連れ裸一貫、中卒飯炊きからの叩上げ。 各船の船長、船頭(漁労長の片腕)、無線局長、機関長、甲板長やボースン(各担当係長か)、船員と総勢を統括指揮と漁の全責任を背負い、会社の命運をも担う存在にある。
所有漁船はほぼ新船、漁労機械機器共に網も、網は船1隻分に相当は大変な投資。 網が新しい程シケでも多少無理な操業が可能、且つ相場は上がる。
入社当時飛ぶ鳥落とす勢いで大漁に沸いていた、常に1~5位に位置。
一夜で1千万(S41当時)円は年数度はあった、羽振りの良い時である。
会社は新たに漁業権取得(当時権利金3千万円)し、もう1ケ統編成すべく、博多ドックや福岡造船で5隻契約、新船建造となった。
夏場は漁場遠く台湾附近、鮮度落ちもあり漁獲の割りに売上げ減に一同落込む。
又旧盆前後小1ケ月は一斉休業、船体の整備、機関・電装機器の更新にと大忙し。
経費も半端でなく次々と出費に経理担当KN氏の表情も歪む。 同氏は元々長崎名家名門の出、立ち居振舞いは英国紳士の如く。沈着冷静は漁業事務所には不釣合いな位い、又私の良き理解者でもあり義兄に唯一箴言出来る存在。
漁は3月不漁が続くとアッケ無く不協和音が芽生える、先輩Kさんと漁労長の齟齬である。 次第に脹らみ漁労長交代の事件勃発! 船員一同総引上げであつた。
社長やKNさん引留めるも、漁労長頑と応じず、再編成の羽目となって仕舞った。
先輩Kさん弟が他船団の副漁労長、彼を漁労長の目論見が有ったとしか。
しかし統括された組織をするには、其れなりの資金も必要、正に弱り目に祟り目。
Kさんの弟も身を引く始末、果ては事務所挙げて船長・局長・機関長一本釣りでの
員数集めに奔走。 社長親しい船団の社長に懇願し協力を頂き取敢えず出漁は目出度くも、組織として未熟。 統制も以前とは較べ様も無く、従い漁も当然の結果に。
会社はKNさんが銀行との折衝、私は手形の延期手続きや融通手形の書換え等に
使い走りが多くなり、やがて数ヶ月で不渡り倒産の憂き目。 入社1年半の時。
事務所倒産ながら、所有船舶や資産売却処分等々相応の処理に追われる。
身内でも有り、社長、KNさん、私と運転手計4人が最後まで残務整理に従事。
金融機関や購入希望の業者に各地に点在する当該船の案内が常日頃。
給料はそれら資産売却の際、最優先で保障され過っての忙しさが程遠く暇。
その間の事、行き付けスナツクのママさんより改装の相談。 業者見積もりは
120万円(当時)、 費用を抑えたいとの話、興味深々私が遣りたいと申し出た。
そのスナックは深夜他店が閉まりつつある中、偶々灯りを見て入ると三菱に監督で滞在の英国人男性二人連れが客。 外人相手に身振り手振りをまじえママさん窮してた時、幸い相席してチェリオと乾杯して以来、 馴染みの店。
スケッチブックに私案をイラストで数種類提案、はしご酒から同等他店は知ってる
積もり。 夢脹らみドイツ民家風が気に入られ設計は機械と違えど本業。
大工さん3名一週間確保願い、事務所近くの材木屋で規定サイズにカットや切込。
壁紙も資材屋で直接購入手当て。 果たして1週間後一切計17万円! で済ませた。
店は若手画家の展示場所として又集う所となり繁盛。 蛇足乍ら13万円(太っ腹のママ)の借金もチャラは有難かった。 数年後、私が福岡に進出1年以前か中洲のど真ん中に進出され飲兵衛再び客になったご縁あるお方。

ドイツ帰国直後より、グライダーの夢覚めやらず設計・モックアップ
自宅裏庭にて製作中の一コマ、仕事の合間にコツコツ製作してたが
「人力飛行機」挑戦で中断(S41~42 19667頃) 親しい友人も無く、
仕事と読書・趣味に集中していた蓄積の時代。

又当時 将来を踏まえ夜間の簿記学校に通い簿記三級だが経営に充分な知識。
銀行間や本支店の経理等授業受けるも、 財務や決算書理解出来ればの程度。
1年余り、会社整理も一段落私自身の将来像を描かなければと辞し会社も閉鎖。
この2年半私に取り「サラリーマン」の覚えなく、宮仕えだった。
自身反省含め、 水産の世界は或る意味個人感情剥き出しの面もあり、 理不尽な事に悩む事は再々、 吾がひ弱さにホトホト自己嫌悪に陥る。
義兄曰く、 「利口馬鹿より馬鹿利口」になれと、 徹しきれなかった。
次回 ※② 起 業 フリーに