年賀状でのアレコレ 元旦に受取った中にウッカリ失念していた相手に慌てるのが必ず数枚。 早速、簡単に近況を一筆書添え投函は元旦の初仕事、 年一度の消息を伝え合う日本固有文化。 しかし逆の場合も、同じく返礼が届くのが昨日辺りからボツボツ、だが永年の好誼に期待外れも少々。 果たして何か異変でもと気遣うが来年は止めとこう、 少しずつ知己が減るのも年賀状。 
 
  ミュンヘンの駅構内、青山学院大学の女学生3人連れヴィエナに行くと告げられ一瞬何処?と再度聞き直す、オーストリア・ウイーンの英語読み。 旅で大概目的地の地図を出発時から持参しているが、彼女達は英語の地図だったのだろう。 私は観光目的では無いので各地のガソリンスタンドで入手を心掛けており当然現地の呼び名が身についていた、日本人同士でも多少の感違いも異国ならでは。
 
 ドイツ語ではウイーンはヴィーンと発音。因みにVはファー、Wはベー(バ行)従ってフォルクスワーゲンは「ファーベー」と発音する、時々私にはドイツ語の中に固有名詞を親切にも英語で説明は有難いが多少の齟齬を生じる事も?が、旅の一興。
 
 以前ドライブ中行き交う中で「ヤグワ}が英国車の「ジャガー}を意味、ジャパンは
「ヤーパン」となる、 滞在中次第に聴き慣れ心地よく、吾れ日本人を自覚したもの。
ビッテシェーン(どうも、どういたしましての意)もビッテシャーンと来る、イントネーションの違いも慣れるに従い判別出来るオーストリア。  
 
 ウイーンは都合二度の経験、最初は単独行でひと通り観光目当て中心部の歩行範囲、シュテファン大聖堂、シェーンブルン宮殿の広大で荘厳な様は圧倒される。
しかし石造りの数々と広々とし且つ全てに左右揃って対称的な光景は見疲れる
日本庭園や家屋敷、こじんまりと纏った雰囲気とはまるで異なり違和感が腹一杯。
 
 出発時セキスイ先輩の沓掛さんから頂いた岡倉天心「茶の本」、前田建一師から
「菊と刀」何れも日本の精神文化を代表の書、外国被れする事の無き様の親心。
旅のよすがに熟読、日本文化を過分に意識は余計に募っていた時期。
 
 ウイーン少年合唱団、モーツアルトの像、ドナウ河畔の印象はひと時の寛ぎ。
夜はフォルクス劇場でオペラ「サロメ」を観劇、切角の機会でもあり目一杯。
 
  大月フジ子さんとのご縁? (フジコ・へミング : ピアニスト)
 二度目は帰国の際、ウイーン発モスクワ行き国際列車で出発の為。 チェコ、ポーランドの通過ビザ取得の為余裕を持った滞在日程、出発当日の朝、日本大使館に。
滞欧中、日本の情報と活字に思いは各地領事館や大使館で数日遅れの新聞が楽しみだった。 廊下に面した団欒大広間ソファーで拾読みしている時、 明るい日本語で大使館員にお早よう御座いま~すの声。 丸めたポスターを片手の日本人女性、リサイタル開催で大使館へ来られ館員と親しく言葉を交し壁に手際よく、そのポスターを貼られていた。
 
 結構広いスペースに私一人ポツン、明るい声で私に問いかけ予定はと聞かれ、
今日はフリーを告げると、案内をしましょうか? 渡りに船。 留学中で流石 街に詳しい様子、予定無く暇つぶしに手持ち無沙汰の時。
 
 名刺を頂き 「大月フジ子」 ピアノ奏者を目指し留学中とか、リサイタル開催に漕ぎ付けたらしい。 此処は音楽の都ウイーンである、中々のお人と思うが当時感心無く気安くご案内を願った。 ムカ衝く様な荘厳シェーンブルーン宮殿も説明頂き乍らの見学は一味もふた味も違った印象。 街中のカフェでガラス越し町の風情を味わい、昼食はウイーン大学の学食。 外気マイナス10度以下寒さが芯まで凍りそうな時。
移動は勿論徒歩で一日中、ユッタリ周囲を眺めながら雑談で散歩程度の歩行。
 
 有名な音楽家の方を挨拶がてらとその自宅へ同行、生憎ご主人は海外へ演奏旅行中、奥様は愛らしく若いスェーデン女性、上品な器に暖かい紅茶で持て成され寛いだひと時。 室内にはピアノ、壁には数種類の弦楽器が絵画の様に飾り付けられており、又日本の高価な扇子や着物、風呂敷も芸術品の如く部屋の壁に装飾。 来日演奏の経験も有るとか。 音楽家の部屋内雰囲気は印象深く、高名なお方と察した。 
 
 ドイツの若者は等しくスエーデン女性に「スベンスカ」顔や金髪に憧れの女性像。 
大月さんと親しく会話の中で覘く笑顔や横顔はチャーミング、しかし音楽家の名前は記憶に無く。 その後大月さんが自宅でピアノを聞きませんか? 誘われたが最早夕刻、今夜出発の時間が迫りつつある時、折角の誘いを断ってしまった。
 
 後年、※NHKのドキュメント番組『ETV特集』「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」が放映されて大きな反響を呼び、フジコブームが起こった。(※ウィキペディア引用) 
 
 とある深夜の番組、思わず画面にクギ付け本名は「大月フジ」恐らくあのお方イヤハヤ大変なお方と化していたのだ。 顔や言葉も完璧に日本人だったが、スエーデン人父とのハーフの片鱗無く百パーセント日本人だった記憶、画面の舶来染みた顔は印象が少し違う。
その後の年月が風貌や外国訛りの日本語に進化 ? したのか。
 
 大月フジ子さん難聴と・・・、私が原因(タイミングが合っている) ?
 初のコンサート直前に風邪を拗らせ耳が不自由にコンサートが中止になった事を知る。 余りにもタイミングや話が合いすぎる、まさか・・・。 彼女には事件の筈!  私が犯行当事者詰り犯人? 疑問はトゲの如く心奥に、本を求め確認も年次が違う。 
 
 7~8年前か、上京の際思いきってtellをしてみた。ご本人パリ在住で不在、弟(大月ウルフ)さんとの話。 現在カフェ営業(当日は閉店)の傍ら、日本で姉のマネージメントしているとの事。 当時の状況を聞かせ確認を求めた所、本人は至って気紛れな性格なので時期の違い位い再々と軽く。  だったら矢張りの疑問益々解けず。
彼は博多の食に興味深々、魚采類は新鮮で多種多様な味が楽しめる本場。 但し彼女は菜食主義なので店選びには苦労するとか。 来福の節は是非会おうと約束し連絡先を伝えたがそれ切りに、しかし菜食主義の方には判断し兼ねる食・店選び。
 
 以来二度程、福岡でのコンサートが開催されてたが、此方から食事含め訪ねる勇気無く。 立場が往時と余りの違いに、 遠くご活躍を祈るのみ。
 
 ドイツ・ヨーロッパ各地夫々の思い出膨らむ一方ながら、ゾーリンゲン・シュタッヘ
ご家族、グライダー各社訪問は当然の事乍ら、彼女とは帰国後その高名と力強いピアノ演奏は特に印象深い、 青春のひとコマを飾っている。
 
 ヨーロツパで異質、異様な体験。 テレビは未だ白黒画面は当然だが番組は区切りの時間はマチマチなので突然に終わる。 又昼間は殆ど放送されていなかった。 
ある時訊ねると日本人は何時働くのかと逆に問質される始末。 旅は時折り列車を利用したが数十分の遅れは当たり前。 オマケに到着や出発のベルは一切鳴らず。
突然動き出すのは驚き、 しかし誰も怒らず騒がずは大人社会か諦めか今以って。
 
   さて帰国直後、交通機関の速度や時間の正確無比は異常な神経を強いられた。
 所で帰国に至った経緯をここで、 約5年程度滞在予定でドイツを目指したが、就労には1~2年前の法改正で別途就労ビザが必要を知り予定変更の止む無きに。
当面の生活はモグリのクローク・アルバイトは見付ると強制退去の危険。ドイツ人は規則には事の外頑固で融通が効かない。
 最早長期間滞在は無用と帰国を視野に、幸い丸山さんより有難く資金融通の快諾を頂いたが、さて返金は当然ドル。 バイトのレストランに何度か来店の某(失礼にも名前ど忘れ)さんの送金口座とドル枠を利用させて頂く事に。 某さんは富士通から技術研修でシーメンスに長期滞在中、帰国翌日練馬・下高井戸の自宅に御礼とドイツでの生活や一部聞き置いた仕事の事等を報告、 お父上はNHK研究所の次長さんだった。
 
  大阪では丸山さんのお姉様に彼のドイツ生活を報告。 阪神百貨店勤務で、売り場に案内し絹のエンジと黒の太いストライプ高級ネクタイを頂く。 横浜出航のおり岸壁から手を振って頂いたお方、 ネクタイは10年以上節目の際のみ着用、数年前亡の知らせを丸山さんからメールで知らされる、合掌。
 
 かくして前記以外にも多くの人達や家族のお陰で無事帰国を果たせた。
しかし再度渡航の上、ドイツ両社何れかでの技術研修の決意は一段と燃える。 
 
   次回 ⑳-6 帰国の途
          それなりエピソードの数々