フリーになり仕事もそれなり順調にこなし、当初の力みも無く比較的落着いて来た。
世話になってるT社長からも信頼され、次々新しい仕事を任され事務所には依頼された案件が、私に回され何でもこざれとばかり遊軍の如き立場で取り組んでいた。
その様な時大瀬戸の造船所社長が訪れ、クレーン台船(バージ)がクレーン搭載の為回航中妙な軋みが発生、補強したいので問題の解決を検討指示を依頼される。 L(全長)45M・B(幅)18M・D(深さ)2.5M で自社設計の図面を広げ見せられる。 造船所は殆ど設計者を数名抱えている、無論私以上のベテランばかり。 しかし日頃からの疑問だったが、船の構造はL・B・D・d(喫水)で外板や骨組み以下ほぼ自動的に算出される。 鉄や綿を積載も経験工学から簡単数式で算出、ほぼ全構造が決定。
各船当たり前の如く数千トン~数万トンの船体も又全世界共通。 航空機やクレーン・構築物然り荷重による負荷から決定が当然の筈。 そこで船体設計のベテランと云えど、その手法で皆仕事はこなされている。 従って予期せぬ事態の対応能力に欠けてるきらいは否めない(失礼)。 早速専門書を数冊買求め、同船の構造を剛性や重量から又様々な角度から比較検討、問題と思われるあらゆる要素・要因を塗り潰す様に追求の結果、スラミングの現象が航海中に発生したとの結論に達した。
過ってゼロ戦開発当初高速飛行中、機体が謎の空中分解(フラツター現象)、パイロット死亡の悲劇が有名だが。 つまり機体(船体)の剛性と外部の力(外力)が同調、つまり固有振動数が一致したまたま共振現象(スラミング)が発生したものと推測。
これらの現象は異常振動による損壊若しくは疲労によるダメージに繋がる事となる。
問題の台船は、クレーン搭載前と未だ様々な機器や設備がなされる。 つまり船体固有振動数は今後変化が予想され、当時は偶々の現象であったとの結論。
一切補強や改造無用を計算書を添えて提供、実際それ以後の発生は無く解決。
余断乍ら、後日同社からの支払いが滞って仕舞った。 T社長の請求に対して
金額が互いに齟齬が生じたのである。 つまり費用対効果の問題で立場の違いから評価が別れたのだった。 造船所サイドでは何も無かった、工事が省かれたのである。 こちらサイドは技術力の粋(?)を発揮し必要最小限に事を治め解決を見た。
T社長の迫力ある説得で事無きを得たが、 技術力をどう自己評価は経営上、常に横たわる問題であり私の不徳のいたす弱点でもあった。
もう一点、前記の経験から後年経営の福岡航研では振動解析や直接応力解析では国内稀有な存在となり、特に外国検査機関から重用の機会を再々戴いた次第。
炉の設計も私の仕事。 S築炉は長崎の企業ながら営業先は全九州に渡る。
耐火煉瓦を積重ねガスバーナーで高温度な環境を造り出す設備で特殊技術。
三菱では造船所と共に、 巨大船用のデーゼル機関も製造している。そのクランク等、鍛造で加工された半製品を残留の内部応力を除去の為、再度高温下で焼鈍す為の焼鈍炉設計をしていた。 車のクランクやカムも同様な処理をされてる筈?だが。
浦上の同社事務所で打合せ中、背後のテレビが騒がしく皆、集中して釘付け!
三島由紀夫の自衛隊突入事件が勃発、正にリアルタイムの中継だつた、悲劇に終ったが、炉の設計は常に当事件が蘇るお粗末な話。
林兼造船(現:福岡造船 長崎工場)の2万5千トン用の乾ドツク水門も記憶に残る仕事。 乾ドックだが陸上側は通常の船台で海側は海面下に有り、半乾ドツクとでも当時初のユニークな発想。 工場では新設のドック、 船台全長190M 幅は36M。
従って水門は幅38M、高さ7~8Mの規模、出入船時はポンプで海水を注排水。
水門は開閉で無く、クレーンで吊上げ除去、従いクレーン能力から重量制限が課されており、 一方水圧は深さにより圧力が変化する、即ち荷重分布が異なり直接応力計算が必要、私の得意分野。 初めて造船所に吾が腕前を披露された。
尤も、初の灯台敷設船や中型貨物船、船尾式漁船(スタントローラー)、補機台や翻訳等々で出入りの仲、信頼されての仕事。 応力レベルでの計算と設計は自信作。
所で計算云々が随所に書連ねたが、特に強度計算は丸型の計算尺を常用。
電卓など無く、数値は指数で扱い整数以下3~4桁で行う、従って少々の計算は、ほぼ暗算で読取る事が可能になった。 特殊才能では無く経験の積重ね(ルーチンワーク)から勘が作用、本当の科学的な勘が働いていたが。
現在、 電卓やPCの時代に適合(多用)、脳は最早化石と化して仕舞っている。
油絵が県展に入選?!
所得もそれ相当の稼ぎは同世代をかなり超える様になる、次なる投資即ちネオン街への散在で週3~4日は銅座通い。 独身の身で最早夕刻より出勤の如き有様。
6~7軒馴染みの店、仕上げはクラブ後同伴で深夜レストラン、しかし女性との誤解を招く事は断じて無かった。 30歳までに福岡で事務所を旗揚げの夢有ればこそ。
その様な中、自身設計の店で将来性ある画家の卵(同世代だが)達を店内で展示応援。 県立N高校OB美術部仲間が集い私も同席、芸術論で盛り上っていたが。
皆さん一様に近々募集の「県展」に向け作品の完成に勤しんでいる間のひと時。
しかし 美術論も聴いてると何か空理空論の応酬に思え、酒席での成り行きから、
だったら私も応募すると宣言! 尚且つ皆が落選し私が当選も有り得ると豪語。
尤も彼らを応援の立場、鼓舞する気持ちが言わせたのだが、行きかがかり上。
私は50号の油絵パリ滞在時の記憶で「ソルボンヌ散策」を出品。 果たして、不幸?にも現実のものとなり皮肉な結果は長崎で数少ない友を失う事になって仕舞った。
2名離婚、4名絵筆を断ち彼らのショックは、私の飛行機への夢が断たれた如く。
入選の喜びに浸る所か、爾来一切絵筆は持つ事無く今日に到っている。
次回 ※④ 人力飛行機
前田建一師と福岡第一高校生達のドラマが・・・