人力飛行機への発端 !
長崎で義兄の仕事に就いた5月(S41)、出て来いとオヤジ(前田建一師)さんからの呼び出し。「フクニチ新聞」(福岡の地方紙:現在廃紙)から取材の申し込み、ドイツの話を記事にらしい。 当紙には高校時分、私達の記事掲載、発表の義理が有り。
オヤジさんとは毎回夜を徹した話が楽しみ、帰国後長崎に帰省途中寄ったきり。
車中読むべく長崎駅で雑誌「航空情報」を求め、ページをめくる内特集で日大「木村秀政」教授指導で学生が人力飛行機「リネット号」製作、飛行に成功と詳細記事。
元々、同誌で毎号「飛行機を斬る」の連載で世界各国の軍民最新鋭機を航空ジャーナリストと対談形式で専門的に解き明かす項を楽しみに読んでいた。
記事は発想から世界の取組みの現状と賞金が懸かっている事も詳しく記載。
取材後、 オヤジさんと「リネット」機をめぐり夜を徹して喧々諤々云わば斬る。
グライダーで培ったオヤジだが、私も構造の詳細はアレッハテナの部分ただ感じる。
推進システム、とその方法、配置、スラストライン、パイロットの駆動姿勢等々で盛り上り、
最も驚いたのが主翼縦通材が翼表面に出ており凸凹は果たして?やるか、の疑門。
記事に拠ると、学生の脚力最大0.8HPで約30秒、0.3~0.4HPで3~4分カーブは下降線を辿る実測データも記されている、 人力を効率良く発揮・吸収させるには・・・等々。 深夜だろうか話がほぽ出尽くした頃我々ならとの話になった。
当時 灰皿は淡い水(緑と中間?)色の大きな器に吸殻が山盛り、自動販売機無く、互いに目ぼしい吸殻を見つけ爪楊枝を刺して1~2ふく部屋はモクモク燻ぶっている。 大概数箱用意するが、二人とも超ヘビースモーカー座卓の回りも灰だらけ。
オヤジさんの背後壁には奥さんが広告用紙裏の白紙を束ねぶら提げており、
いつもメモ代わりに準備されてるが、その用紙が尽きる頃には概略数値的な目途。
我々がやるなら、 オヤジさんと一夜構想をシュミレート
概ね ①車輪は初動からプロペラと連動 ②スラスト軸は主翼と上下近接させモーメントロスを最小限に ③パイロットは自転車姿勢が自然 ④構造は細部まで精緻を追求、木製機では当然な配慮、最も得意とする分野。 以上4点が「リネット」機を斬り返した結果(御免 ! リネット有ればこそ) 互いにイメージは湧いて来た。
我々の案が纏ったがマサカその後、5年余り苦闘のドラマになるとは夢にも。
驚きの三面図 !
7月例により呼び出され伺うと既に三面図が出来上がっていた。 違いはプロペラ三枚翼だが直径が少し小さめな感じ(馬力吸収効率上不利)。 スパン22Mのキャンチレバー、2本桁で全長7M?足らずで推進式、さすがの思いはその時の印象、疑念の箇所全て勘案されていた。
早速性能計算を行い、逆算から構造重量見積もり、出力は日大のデータを活用。 しかし上昇率を考慮すると厳しい、リネットは材料がバルサ材、高価に過ぎる。
オヤジさん、時に福岡第一高校航空機関科講師として就かれておられた。
自腹予算に当然手馴れた檜(ヒノキ)材で製作が基本、学生3名既に着手?か。
8か9月頃、自宅にはスパー(桁)とリブ4本分、主翼の一部モックアップが出来ていた、イヤハヤ。 学生は天本、小野、寺垣君達3名既に工場で作業に取掛かってた。
師の本気度満々を肌に感じると共に、私の学生当時の中断が浮かばれ完成までを願う。
戻るが、機体自重は45~50kg以下が最低条件、主翼強度はオヤジさん決定の部材寸法は計算上ほぼ、は流石。 但し剛性面で計算上翼端部最大2M近くの撓み量、2.5度の捻り下げを付けているが。 心配は捻り剛性、主翼が捻られると仰角が異なり空力特性から目的の性能はおろか破壊に繋がる。 破壊は大概捻れを伴い破壊へと繋がる。 特に本機は軽量化追求の余り、材料物性から極限の数値設定、安全率等余裕は無く柔構造として計画。 従って飛行試験まで気がかりな侭。
ダブルスパーの内メインは荷重試験で実証しているが後部桁は省いている故の事。
荷重試験結果、実機では桁上下フランジを繋ぐウエブを構成のトラス斜材コンプレッション・メンバー(圧縮材)をテンション・メンバー(引っ張り材)へと組替え、翼の撓みを抑制(目的から宙返りは有得なく)で計算外の要因は取除かれた。

主翼前桁の破壊試験 写真から斜め圧縮メンバーが撓みダメージ、
実機では全て引張りメンバーに変更する。
私も1~2ケ月に一度六本松の自宅通いは続く、オヤジさんも学生相手は多少気疲れと孤独感も伺え、夜私との計算や技術論がひと時の気休めか呼出しは時に電報。
私は義兄経営の漁業事務所勤務、小間使いにコキ使われてる時分で同様な思い。
翌年、学生も後輩達10数名が参加、 工場はプライマリー以来の賑わい。
しかし工場は長男の創(はじめ)さんが空調機器の会社を起業、2/3近くに仕切られており少し狭くなっていた。
数度、佐藤教授(当時:久留米工大学長)南区和田の自宅に訪ね性能や強度計算書をチェックと共に、意見を伺う。 両氏は昭和5年九州航空界、同6年九大航空界以来のお仲間。 佐藤・前田で日本滑空界をリードされた名コンビ、今回人力機の機名「SM-0X」はその意味合い。 時に茶話で往時の話題に及び、著名人の話も時に混ざり又お二人共、話し上手聞かせ上手は名人の域、私一人では勿体無かった。
佐藤先生第一回「西日本文化賞」、 前田建一師、第二回共に受賞者。 佐藤先生、先般 「勲2等瑞宝章」を(昭和)天皇陛下より宮中で直接授与される。 同時授賞の作家火野葦平氏ら「天皇陛下」交え御歓談の席上火野氏例のカッパ論、宮崎には飛行ガッパ(宮崎航空大学の意)が~。 宮中庭園の池を指差しあそこには「・・カッパ」が~と、 途端陛下が指先と池を眺め見て真剣な眼差しに、当の火野氏自身コロガランばかりに驚かれたとか、描写が実に真実味を帯び話振りに感動する。 私事だが後年、前田航研テストパイロツトで日本記録達成の川辺忠夫氏ご長男と私の妹の結婚式では仲人頂き、恐れ多くも「勲章」下られたお姿は印象深い。
余談乍ら、人力機を通して学生達の賭ける努力は、私自身幾多の経験と勉強させて頂いた。 オヤジさんより計画から設計・製作・飛行まで一貫した流れと手法を目にし脇役ながら実体験、それをものにし又、伝える義務が芽生え始めた頃だった。 その意味では一番良い立位置に恵まれ幸運だった。
木村栄文氏(RKBディレクター・芸術大賞二度の受賞)
オヤジさんと共に栄文(エイブンさん)の功績も認めなければならない。 RKBディレクター・ドキュメンタリー取材で当初より係り、時に製作過程での取材が疎ましく思う事も正直、しかし栄文さんの執念が今も事実としての記録は有難く、と共に当時学生達の励みになってたからだ。
飛行試験に於いては、米軍や自衛隊基地使用の段取り、運搬費用負担から時に足代わりや、宿泊手配などオヤジや学生達が結実に向けた努力の結晶を、花開かせるべく常に下支え頂き、我々にとり成功の可否をも左右したと云える。
それが取材とは云え栄文さん個人献身的な意思が働ていたとしか思えない。
後年「東芝日曜劇場」撮影現場に於いて所掌外にも係わらず寄添う如き働きはその証明とも、オヤジさんに惚れ込んだ、お一人。
栄文さんは、私も画面フレームに納めようと仕掛けるが、学生とオヤジさん主体の作業。 以後 福岡で「福岡航研」後も再々1本撮らせろは口癖の如く、「芸術祭大賞」二度も受賞のお方。 恐れ多くとても私の器小物に付き、又笑顔の奥に潜む心眼は怖い、こちら酔っ払って大口叩くもニコニコは時に惹き込まれそうになる。
一度だけ、西日本新聞コラム「紅皿」連載となり、その初回稿オヤジさんとの思い出や私の仕事を紹介、新聞社特段記事の扱いで紙面を飾る。 高倉健、戸塚某、九大女医(本来八代のお姫様)、女優宮崎美子、杉山龍丸(夢野久作長男)、大楠九大教授(東大から、高速艇制御部門委員長)、作家森崎和江、音楽家、美人アナウンサー等々多士済々は吾が生涯では絶対ご縁のない方々を紹介、会飲食の機会を頂いた恩人。 尤も高倉健さんとは折角の機会に出張で時間がズレすれ違い失礼をば。
又健さんとは、 当時マル秘滞在の地「西表島」で余暇を過ごす為のレジャー艇、 全くの別ルートで受注・建造。 現地若者に一切を任せ依って対面の機会が無かったが、営業担当からは詳しく話しを聞かされ、お人柄は評判通りのお方だった。 主に洋上で停泊、お昼寝が専らだった様子。
序に 日航機羽田沖「片桐機長」不時着事故の時RKB「モーニングショー」担当プロデューサー、急遽解説を頼まれたが、佐藤先生を紹介事無きを得た。 マサカ片桐機長の挙動が後日明かされるに付け、私なら技術論で話したかも、冷や汗。
長崎から福岡通いはその後も続くが、私も不規則な仕事柄夜伺い一夜、都度の案件を検討や打合せ済ませ、朝長崎で仕事が多くなる。 従って工場には余り顔出しは出来なかった。 依って天本君ら上級生3名以外余り知らない侭。 しかし製作が着々は、伺った際の話と写真が次々と送られて来たので、その間詳しい状況知らねど完成に向かってる。 翌々年の12月晴れて板付飛行場で初飛行の時を迎える。
写真はその直前送られた工場内記念の1枚。
胴体と主翼前縁はスチレンペーパー、他は和紙に塗料を塗布。
中段右端がオヤジ、左端エプロン姿が奥様(津奈)、影の主役
「ぜんざい」でも振る舞われたのか、甘辛両党の私も何度か節目に。
飛行試験を翌日に控えた前夜から、六本松自宅で最終計測の重量を基にオヤジさんと何度も計算を繰り返し、プロペラ効率、有害抵抗を過小に底上げ等々するも一向に期待の数値が出ない。 パワーは栄文さん紹介で競輪界推薦の即席パイロット岩崎さん、期待の若手で申し分無い。 上昇率はマイナスと出る始末に計算上パワーを2割程度割増しで、辛うじて最小飛行速度確保となるが、後は長スパンに依る地面効果に期待が前夜の状態。 学生達の期待に反する事態に重苦しい思いで翌日板付飛行場に向かった。
当時現福岡空港は、米空軍板付基地として全て米軍の指揮管理下。 前日から広い格納庫内で学生等により組立てられていたが、細々とした作業は数時間要した。 格納庫は西側にあり、米軍ジープ先導で管制と無線連絡を取りながら、広大な飛行場滑走路を横切り東側つまり現ターミナル前まで機体を押しながら移動は大名行列の如き光景。
無論 その間飛行場は全て飛行停止B727数機待機、基地司令官も見学に来ていたが。アメちゃん、この様な事は大好きなのだ基地上げて支援体制は凄いの一言。
数年前、 堀江謙一さんヨットで太平洋単独横断、サンフランシスコ無事到着の際、
米国はもとより世界を驚かせ一躍ヒーロー扱い。 日本国内は不法出国が問題化。
私の経験、 軽飛行機試験飛行で運輸省所轄の小倉空港で関係者懸命な手続きと努力の末、 空港運航前午前5時~7時前が辛うじて許可は彼我の差異に暗然。
当時、 定期運航便は無く報道関係小型機のみの稼動状況だった様に見えたが。
周囲の家々の二階窓や屋根上には大勢の見物人も見え、道路脇は車が連なる。
現第一ターミナルビルは鉄筋骨組みの建設途中。 私は高校時代このフェンスの向う側を毎朝自転車、夜はランニングしていたのを思い出し感無量。
勿体ぶる様で申し訳ないが、推敲に長き文面が手間取り
未だ書き記すべき内容中途に付き、 悪しからず。