愈々初飛行の記述に差掛る所で、 衝撃的な新素材に俄然興味を受けている。
セルロースナノファイバー(以下CNF)は木を構成する繊維をナノレベルまで細かくほぐすことで生まれる最先端のバイオマス素材。 30年前ACM(先進複合材料)製軽飛行機開発・飛行の経緯は一部先述、その早期実用化を願っていたが最早時代遅れを痛感。 今 CNFの時代到来を確信し用途開発が日本の将来を決定付けるものと断言する。 何れ此処で私心を披露したいと思っています。
人力飛行機テスト飛行(米軍板付基地 現:福岡空港)
板付米軍基地には当早朝より、佐藤先生(久留米工大学長)も駆けつけオヤジさんと共に作業の模様を眺めておられた。 空港は時間が止まっているかの如く静寂に包まれている中、一部の場所でハリボテの様な真っ白い機体が横たわり、その周りをアリが蠢いている、俯瞰すればその様な光景。 やがて学生各自配置に付き目は一点を凝視していた、そして山口ノリさん(福大航空部OB)合図と共にプロペラが回り始める。
車輪と連動しておりスタートを始めプロペラが次第に回転を上げ加速している、やがて離陸速度に達している筈が中々浮かない。 しかしエンジン(岩崎さん)は未だパワー全開とは行ってないと思った瞬間、ファッーとジャンプらしき具合に飛んだ! 見つめていた全員瞬間の飛行を疑わなかった。 しかし機体は着地し少し滑った状態で直後停止。 すぐさま全員機体に駆け寄りコクピットのチャックを開けパイロットの表情を伺う。 私達は瞬間でも浮いた! は当時十分な喜びだった、何しろ浮くか浮かないかの境目での挑戦だったから。
しかし我々の意に反してパイロット浮かぬ表情に私達もフト我に返る。
彼は寡黙でおとなしい性格だがより沈んでる感じに気が付いた、どうも彼には合点ゆか無いのか、やがて彼の話で何かに当たり乗り上げ瞬間跳ね上がった事が判明。 結果は悔しいが失敗ともいえる事態に全員先程の喜びから奈落へと墜落。
原因はそこが駐機場、 隈なく平面と思っていたが電源設備が3M四方台形に4~5cm程盛り上がっていた。 大海で僅かに突き出た瀬に接触、奇跡にも近い出来事。
だが自転車前輪が先程の衝撃で折れ曲り、胴体後部に繋がるFRP釣竿のパイプが捻じ切れており最早続行不能、従ってテスト中止の憂き目に、又先程の道ならぬ広い空港を撤収、全員期待が大きかっただけに、そのギャップは埋まらず。

試験飛行中止直後の記念の一枚、佐藤先生(中央コート姿)
左側 川邉忠夫(ベレー帽黒シャツ)氏
前田航研、戦前16時間余り日本記録樹立時のパイイロット
中央黄色いマンホールが問題の電源設備、遠目から気が付かなかった?
後日、RKB栄文さん編集前のビデオで見ると、当時気付かなかった様々な要因が次第に判明して来た。 ビデオは斜め後方と前方正面からの映像が有り、走行した時点で前輪(動輪:主輪ではなく)がフラ付き、方向が定まらずその後衝撃で破損。 走行姿勢が主輪と垂直尾翼下部尾輪との関係でスタート時点マイナス仰角は良いが、飛行速度に達しても引起し出来ず、つまり尻餅の状態揚力不足で浮楊不能。
オヤジさんと共にショックは大きく、学生さん達もさぞやと思うが心の余裕無くは立ち直るに暫く要し年を越した、芽吹く頃だったか例により呼出し。 既に一部改造に掛かられていた。 軽量化追求の余り、サドルとハンドル(操縦桿)は釣竿で繋いでいたが直結、つまり自転車で致命的な事を迂闊にもパイロットから知らされ。 従って①一体化と共に前輪を廃止動輪のみとする。 ②ペダルと上部トルクチューブにはVベルトをチェーン伝動に変更とベベルギア(傘歯車)使用。 ③トルクチューブは釣竿からアルミパイプに交換、動力はほぼ完璧とも云える改造がその後成され、④プロペラは地面ギリギリまで直径(10数㎝?か)を増し矩形を楕円翼に効率は約30%程度アップ。
原因模索とその解決に半年以上を要した。 しかし一番苦労し支えた人力機功労の1期生とも言うべき天本、小野、寺恒君達はその間既に卒業、後輩達の手に。 学生達の優れた面は先輩程、率先し真っ先に苦労と努力を背負ってる姿であった、彼ら黙々と苦労厭わずの作業は、師の指導力と共に真の教師と生徒の姿は誇り高い。
翌夏(S44)再度挑戦の機会が来た、 所は佐賀・神埼 目達原(メタバル)陸上自衛隊ヘリコプターの基地。 RKB手配で近くの旅館が用意オヤジさんと前夜最終チェックを兼ね宿泊。 学生達は自衛隊宿舎に臨時入隊の如く、昼食は隊の食堂を利用。
基地にはその後、「東芝日曜劇場」撮影で再度お世話になる事に、模様は何れ。
その夜体調、聊か心労と体疲れが薄々感じられる齢65だったか。学生は次第に作業や段取りも馴れ師の負担かなり楽にはなっている。 翌日テスト時は酸素ボンベとリヤカーが用意されていた。 しかし日頃から心臓の不調は日頃もチョクチョク額から汗ばみが見られ気にはなってたがゼーゼーと吐く息もこの数年見慣れていた。
真夏の太陽が照りつける中の試験飛行。 愈々スタート、例により翌端を支えた学生達の走りで速度が見える、前回とは明らかな違いのスムーズな加速。 やがて翌端が学生達の手を離れ大きく撓みを増しながら、飛行速度に達したと思えた途端スーッかフワーッと見上げる高さに舞い上がった。 真っ白な機体が両の手を思いっきり広げ空に浮んだ! 見上げる角度は4~5Mは上がったかの如くに錯覚、実際は1.5~2M程度か。 ※実際パイロット目線は地面より1.5M、従い3~4Mは実の高さ、つまり見上げたは正しい。 青空に映え美しく眩しい程の真っ白い主翼と骨組みが下からは透けて見える。 が距離は今一だったが充分な飛行、一瞬だが定常飛行は俄然大成功。 この3年間、正にこの瞬間を信じて待ち且つ励んでいたのだった。
第二回飛行試験 「飛翔」の劇的瞬間瞬間 (佐賀・神崎 目達原陸上自衛隊基地)
パイロットの岩崎さん浮き揚った瞬間一切視界が消え去り、思わず下げ舵を切ったと本人談、オヤジさんリヤカーで運ばれ立上がり彼と固い握手、満面の笑み。
何か言葉を交していたが、感謝と喜びの気持ちを伝えている様子、遠目乍ら。
その後、パイロットの体力の許す限り、テストを繰り返し、結局67Mの飛行距離。
無風状態で換算すると96M飛行に相当、 当時世界第三位に位置する記録を樹立。
通常、記録への挑戦は最良のコンディションで為されるが日程上許されず。
願わくば、早朝 無風状態で記録挑戦が望まれたが、場所確保や費用負担叶わず。
苦しみ、色々数字を弄くり悩んだ挙句、いとも簡単に「SM-0X」号は飛翔してくれた。 三面図を目にして以来、一部駆動系や細部は多少手を加えたが、機体本体は
殆ど当初計画の侭。 詰り筋が良く、オヤジさんの勘冴え渡っていた結果だった。 私に取っても一件落着となった。
数年後「ジェーン航空年鑑」(英国・世界権威の書)当日の様子が写真と共に掲載。
その間、勤務の漁業会社不測の事態から、 心機一転フリーで設計仕事に勤しんでおり、それ所では無くなり数度ご機嫌伺いに通った程度。 その後中村君(福大航空部OB)がその頃より出入り、 親父さんの片腕としてタンデム複葉機が計画され一部着手されていた。今度はそれらを脇から応援、又学生達の作業を見守る立場に。
オヤジさん訃報の知らせ
忘れもしない、S45年8月31日珍しく早く打合せが終わり仕事すべく帰宅した夕方。
師の次女、智子姉から初めての電話。 オヤジさんの死を知らされる・・・・心不全。
絶句、途端目の前が真っ暗!! マサカッ? オヤジの死は全く計算外の出来事。
即、仕事関係先に連絡し当夜、夜行の鈍行列車で福岡に向かった。 車中、出会いから、軽飛行機製作、空白のドイツ以後人力機の日々が走馬灯の様に駆け巡る、無論一睡も出来無いまま。 早朝5時過ぎ到着も数時間中州沿いのベンチで時間調整と心の準備に過ごす。 8時頃伺うと顔見知り数人既に駆けつけ寝ずの番。
地元新聞紙上に早くもデカデカと死亡記事、枠は作家佐賀潜氏を凌いでいる。
恰も準備されてたかの如く。 余談だが西日本新聞社発行「福岡県百科事典」栄文さん
推薦「前田建一」の項執筆依頼に、原稿用紙2枚分約2ケ月を要したが。
葬儀は多少顔振れに通じた私が帳場担当、各界多数著名な方々のご会葬に師の偉大さ更なる尊敬の念。 又、1年前飛行試験前夜、目達原旅館で床に伏せ雑談の折りふと一言「一人位いお前に付いて来るヤツ」が居ろうやな。 前後の話記憶無く、その一言忘れ難い。 折角育てた人材、何れはと思いつつおぼろげだった目標のドイツ行きは福岡に向かった。 師から「嗣世」(ツグヨ)と名付けられたご縁。