オヤジさんの葬儀後、初七日までの約一週間。ご子息や世話になった昔の仲間達皆遠来に付き、師自宅2階に10名余りゴロゴロ、同窓会の如く師の思い出話に耽り又、近況を互いに交したりでの居候。 その間奥様や長女(山の神)次女(里の神)毎日三度の食事に大変なご無礼を、思い出すたび申訳無く。 
 
 ある夜散歩がてら次男・建(タテシ)さん、学生時代より出入りの山口ノリ(人力機飛行テストで総指揮)さんと3人福岡城天守閣跡での事。今後の話で一年後を目途に各自福岡に職を求め参集。 何れの機会か前田航研の再興を期そうと真っ暗な中相談が纏った。 互いに独身だが、ご両人大手企業勤務の東京暮らし。 時は高度成長期、就職の道はかなり開かれていた良き時代だったが。
 
 オヤジさん生前、会社(工場の意)を継ぐならターボ(建さんの愛称)やろうなと言われていたが本人に伝えていたかは不明。 だが建さん航空関係は殆どノータッチ、土木専門の技術者。 会社早期退職(定年直前)後、現在「西日本航空協会」を初め普及活動に励んでるのは、最早オヤジさんの予言と見通し正に神懸かりの感。 
 
 私は個人で営々と設計業務、身軽な筈だが長男の身、両親以下弟妹共々一家上げての覚悟。 予定の一年、福岡で旗揚げ独立開業は仕事先含め時間は余りに少なく焦る。 世話になった仕事関係先や、何をどう行動するか名案ない侭約束。
 
 帰長後、如何に福岡へ上洛(?)を果たすか、色々と思いを廻らす日々となった。 幸い仕事は造船、機械、工場設備やクレーン、ボイラー等幅広くこなしているものの、
当時福岡は支店都市、果たして工業分野でネット等無い時代皆目検討付かず。
 
 取り合えず、仕事で世話になったT社長と一席の場で相談。 請負の割合をお礼奉公を兼ね1割減を申し出。 又その為、準備では仕事面で支障来たさない範囲で
適宜行動起こす事を快諾頂いた。 正直私の守備(仕事)範囲広く後任を求めるには、ほぼ不可能に近く心苦しい思い。 その後幸いご長男のK君、造船大学卒業後広島の造船所に武者修行中、学生時代より手伝い船舶は既にベテランの域。    
且つ船体構造設計と船型の計画設計部門をも引受け間口を広げる事となった。
 
 適宜、地元各造船所スタッフ通じ福岡での伝手を求めるが、そう問屋は卸さない。
福岡には「徳島造船所」(以前博多ドック)と「福岡造船」2社のみ、特に徳島は徳島水産の子会社で漁船専門、福岡は漁船衰退に伴い中型船(2000~1万㌧)に移行期。
しかし共に設計は委託先と固い絆が伺われる。 再々福岡詣での中、徳島より辛うじて設計課長の肝いりで一部仕事を頂き、長崎から都度通いながらの下請仕事に有り付いた。 時既にS46(1971)9月、予定の1年を過ぎ2年目に差掛りつつある時。
 
 一方起業に当たり隼君名城大学後輩で長崎在のO君(操縦技術は天才と)、人力飛行機機OBの天本君と後輩2名、皆航空機メーカー勤務。 4月を期し開業の旨を伝え各人夫々準備を終えており、ぎりぎりのタイミング。 
 
 又、井筒造船所のU部長紹介で下関・旭洋造船所吉田工場長を紹介頂き仕事を
早々にも協力をと即決。 丁度彦島から長府埋立地に新築移転で新工場稼動、中型船に拡張の最中。 U部長と吉田工場長は戦前、戦時標準船建造、戦後「三無事件」で有名な香焼・川南造船所での元同僚。 吉田氏時々設計室(50名程度)に怒鳴り込んで来る豪快なお方、しかし彦島の我々の部屋を訪れ親しく歓談はオヤジさんを彷彿。
 
 S47年1月4日松の内明け早々長崎発一番列車で目的の下関へ出発。 途中佐賀平野で有明海から昇る朝日の光景未だ鮮明に記憶、O君と長崎から応援のMさん2名と晴れの門出を祝うかの如き当時を思い出す。下関・彦島工場で関係者紹介と早速社宅の空き部屋を当がわれ、3名で泊り込みで仕事開始、都合4月半ば迄続く。 
 
 その2月福岡での事務所を荒戸2丁目のビル2階1室を拠点とする。
それに合わせ天本君達も集結、以後私は福岡と下関を毎日往復の日々となった。 
つまり昼間は下関、夜福岡で翌日各自の漁船構造図、全て下書きを徹夜で済ませ、朝一番で下関での通常業務、車中睡眠と下関駅での立食いそばが救い。  
一様に皆ズブの素人、つまり線の引き方からの指導に当人達も並みの苦労では無かった。 4ケ月半、青雲の志とでも、良くぞ体が耐えてくれた物だと体に感謝。
 
 下関の仕事も一段落、引続きの要請されるが二股状態に限界と二兎追うが如き事態に地元福岡に専念を決断応援のMさんも長崎に帰られた。
替わりに、T事務所のS君が設計経験者、慕って福岡に参加は助かった。
 
 4月 (有)福岡航研として正式発足、これからが本当のスタートだった。
当面資金は、昨秋から徳島造船の売上60万円と呉長女(姉)からの50万円が当座の資金、売上げは半額3ケ月の手形なので資金繰りはギリギリ、仕事も通常の倍程度の時間費やし良くぞ・・・だった。 皆の直向な努力の姿勢が救い、製図板での泊り込み徹夜状態は10月頃迄続く。 
 
 私事ながら6月、正月以来初めて長崎へS君の車で帰宅。 その翌朝突然お父さんから電話連絡、お見合いだった。 場所はT事務所からほんの数軒先「喫茶店」お相手の親戚、長崎時代喫茶店など無縁なだけに知る由も無く。 相手(現家内)も諫早で叔父の手伝いの中、突然の事。 その後双方の家庭へ数度(2~3回?)で10月には長崎の中華料理店で結婚式。 因みに家内の実家は大浦の旧家、 両親、長兄私と同年の弁護士、弟妹2人。多少臆したが料理等一通り、我家の皆なに喜び迎えられ。      
 
 福岡で猛烈な繁忙を極めている時全て親任せ、数度会うも私の仕事話に終始、
僅か4:月後、手さえ握る事無く。 その年、生涯を左右する出来事を二度も経験。 神様のご判断としか、数日経ずして両親一家共々福岡へ移転、以来同居。
 
 S47(1972)は忘れ難い年、人生の基点となり後は、私自身公私の頑張り次第。
しかし会社の状況皆の頑張りで、かろうじては変わらず造船所の相次ぐ新船建造
に助けられ(有)福岡航研として叙々に歩む事と成りつつあった。   
 
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