社名 福岡航研 長崎時代オヤジさん突然の逝去に拠りドイツ行の思いを断ち、福岡で学生やOB達の拠り所として火を残すべく使命感多々、福岡へ同行予定のO君と話し合いの場で社名の話題となった。 彼は「木村航研」を推奨も私物の感あり「前田航研」は恐れ多く結局地名に因み「福岡航研」に 無論航空への志を込めた社名。
但し、客先の造船所には当面伏せ「航海」の意を伝えていた。
事務所開設直後は電話も未だ無かった、ビル向かいのタバコ屋店先の公衆電話を利用する始末。 当時電話は申込から数ケ月を要し、特に下関時代深夜駆けつけた時書置きのメモが全て。 暖房は石油ストーブしかし灯油が切れている一夜寒さに震え腹立つが皆懸命な時、其れ位いの事件?は数多く不慣れ不憫は覚悟の上。
一方造船所も担当者が直接事務所に駆けつけ打合せや指導をして頂いていた、皆真面目で若いから将来が楽しみだとの理解に甘えてのスタート。
私が初っ端なから林兼造船の300tの灯台敷設船を設計した事を思えば未だましの感、兎もかく同じ室内でコンタクト出来るから。 指導しながら納品の設計図面は6~7割方私の手により消化、常に時間に追われその都度担当のGさんやIさんが駆けつけ心配を掛けていた。
半年以上過ぎた頃からか、多少個人差は有るが、らしくなり日曜の休みが取れる様になる。 少しづつ楽になって来た頃、心身共に疲弊の度合頂点に達し、漸く普通の生活が送れる様になった。 皆下宿や部屋を間借り生活、残業は深夜に及び殆ど仕事に費やしていたのでプライベートは等しく無かった。 労働基準法からは恐ろしく逸脱、素人集団乍ら皆の仕事に掛ける思いが出来た事。 結婚はその様なタイミングの時、世帯を構え多少普通の生活が送れる様になる。 其れまで早良の国民宿舎下の民家を借用していたが、バスは1時間に1本、その間帰宅は4~5回泊っただろうか。従い事務所のボンボンベットが寝床食事も満足にしてたか記憶に無い。
設計は主に漁船「鋼製漁船構造基準」を基にキープランから船体全ての構造図
作成の仕事。 長崎の水産会社で運用の漁船が多く、見慣れた船舶にマサカ携わる事になるとは、と長崎時代より。 五島の慣れ親しんだ船名に当時を思い、完成前の新船に見覚えの船員も数人見かける。 徳島造船は門を入り目の前が船台、数ヶ月遅れで設計の漁船が見える。 設計当事者には現場作業の観察は大切な事
従い1年交代で現場実習を課し、皆に苦労を掛けるが内心事故の恐れに怯える。
しかし本物に触れ、現場従事者の苦労を体感してこそ本物が見える高邁な思い。
翌年頃から、仕事も順調にこなせ、より仕事の量確保に迫られる。 隣の福岡造船
の中型船にも手懸けるべく働きかけ。 同じ船舶だが構造様式は全く異なり一からスタートに等しい、私も同様の立場で挑む。 当然これまで付き合いの地元有力設計事務所がメイン、 端々の付帯的な仕事などが任せられるのが精一杯。
その様な中、H部長会社が早く閉められ帰途、 遅くまで仕事中の当方の事務所で計算書作成が日常となる。 部長とは云え猛烈仕事熱心で、九大造船科の後輩がノイローゼの噂になる位い、 漁船から中型船に転換の技術的中心を為したお方。
自然傍目から船舶設計の基本的構造、計算の過程を直接目にし教えられる。
又しても門前の小僧、 当初船舶の構造決定の簡単とも思える算式も次第に理解。
叙々に大部分設計を任されだし、貨物船・コンテナー・タンカー・フェリー・自動車運搬船等々多種多様な船種に及び、社員相応な努力の甲斐が報われだした。
1万トンクラスでは可也な成果、尤も現在その後の造船不況で各社船台能力を減じ、 港から遠望する限り船舶は当時よりかなり小型化している。
同時期、鹿児島「鹿児島ドツク」の仕事も手懸ける、社長の肝いりで起業の中型では後発造船所、全国から鹿児島出身技術者を集め創業。 云わば揺籃期に当たり
自社での設計消化に窮していた。 数ヶ月経た頃だったか営業の日商岩井からドイツ貨物船を契約、付いてはGL(ジャーマニッシュ・ロイド)ルール(英語版)共一切をとのお達し。 下請け設計事務所は須らく納期に追われる。 建造に当たり船級協会の承認(約2ヶ月)と鋼材発注(0.5ミリ単位)に時間を取られるからであった。
事務所の一部、 21インチのディスプレーは秋葉原で当時75万円!
80年代にはCADシステムでの設計を行っており、外国の船型計算ソフト導入や
システムで千万円(当時)の資本投下で設計事務所としては傑出、 船体原寸図フイルムの出力やディジタイザー(A0版)で図形入力での船型計算ソフト自社開発していた。