話合い後帰社、社員と既に広島のMデザイナー心配し駆け付け待機していた。早速試運転の模様と、現場を離れる際確認の喫水を基に排水量計算から船体重量を割り出す。 1割強の計画重量過多を始めて知る。 而もトリム上不利に作用し最早小細工の範囲を超えていた。 尤も大型船含め進水後喫水確認は通常の事、しかし高速艇ではよりシビアー(実測)に搭載品等裏付けを行う。
船体後部改造を視野に重量重心トリム計算から最適トリム(船体姿勢)を求め、社員の天本君・N君には計算を、Mさんには理想のイメージを求め繰返し計算を行った、時間は既に翌日に差掛ろうとしている。 Mさん責任を痛感し一部資金面での協力を申出てくれたが、一切の責任は私が取るとの前提で協力要請の経緯あり。
翌日 「ナカシマプロペラ」K係長に試運転時の状況を電話で伝え再検討を願う。「サーフェスプロペラ」は通常の翼型と違い、クサビ型(ナタ?)断面、我々には予想が付かない、後日再度数値データ提出を約束。
結果 最適トリムと為す様船尾のくぼみ部分を埋めるべく船体改造とプロペラ位置を更に後部迄延長。 従ってシャフトはユニバーサルジョイント(自由回転継手)を介してシャフト延長、主機関を移動させる事なく済ませ、トリムタブに頼る事無く廃止。 中途半端は余計な要因を生む、自問自答し心配のあらゆる要素・要因を除去、一発勝負に賭ける。
最早 二度の失敗は許されない、不成功の場合は当時新築直後の自宅を手放し通常の方式で再度「新船建造」を覚悟、家庭内では家内・両親共に伝えていた。
それら改造案資料を携え対馬の漁協に伺う、再工事と期間延長のお願いし了解を取る。 造船所S専務も同席? 各組合長了解後、専務は私を除き別室での話合いを願い出た、瞬間何事かと不信の念が募る。1時間程話合いの後テーブルに着き「誓約書」のサインを求められる。 専務既に準備し持参の書面、福岡航研工事代金を全額負担と本件解決に付いては「造船所技術と協同」して解決を諮るとの文言。成功の暁にはとの目的をチャッカリ含ませていた。 まな板の鯉サインし、終える。
余談だが、「サーフェス艇」失敗の情報はあらゆる方面に伝わり、思わぬ筋から問い合わせとも付かぬtellが次々、業界での関心が伺われ緊張の度合い益々。
数日後、工事見積りを見て愕然! 私も費用見積りは「設計書」で概算し腹積もりは有ったが2~3倍の額、最早改造より予算不足を取戻すかの金額 数百万。設計金額は経費共 数10万円、予算不足に義理立て些少、 何んの事やらと後悔。
強かな相手は問答無用、誓約書なる錦の御旗が背景。半額支払い、成功し納艇の目途次第、残額支払いを了解願うのが精一杯。 途中から立場は逆転していた。帰途立ち寄り艇体を確認する、空き地に廃タイヤを敷き鎮座の如くポツ~ン。見捨てられたかの如く、 艇と共に捲土重来を期す! であった。
かくして一切の手配を終え工事の進捗状況を見守る段階。 プロペラはピツチが200㎜減っていた、K係長苦心の程を察すると共に「サーフェス」の困難さを知る。係長も又、理論からあらゆるファクターを類推し引用の結果、模索は同様な立場。
しかし船体前部が立上り機関停止の現象は脳裏を離れず、解決手段決定し次回試運転まで四六時中うなされる様な日々となる。 その間当時の心情を思い出すに、歩道を歩行中フラフラッと車道へ体が擦寄る、体が自然に危険へと接近する。 あの状態を「ウツ」と呼ぶのだろうか元々睡眠時間は少いが睡眠不足は時に朦朧状態。
打つ手は打った筈だが、更に予期せぬ事態を想像し推敲は計算確認に費やす。社員の天本君流石に見兼ね、社長一切の些事に構わず解決努力に励んで下さい!
会社での設計業務は普通に為されており数ヶ月専念は彼らが頑張っているお陰。時の次第で私含め僅か3名、彼ら二人で仕事消化はかなりの苦労を強いていた。加勢せねばの気持ちも働くが、現実は厳しく刻々再試運転は迫っていた。
改造工事は5月末完了、6月初めに「公式試運転」が決定。 暦は入梅だが、花曇で陽は射している。例により進水直後、川か運河とも付かぬ航路を海上を目指す。デザイナーのMさん試運転立会いに来たが、らしい長髪はバッサリ丸ボーズ頭にビックリ! 本人何も申さず平然とだが、問わずとも気持ちは察するに余る。
今回 主機関回転もスムーズに上昇、当り前だが先の例もあり本艇の場合当り前ならず最初のハードル。 洋上に出て3/4速にパワーアップ、船長おかしい々と一人呟いている、問い掛けるが首を捻り何か探っている様にも見える。 艇は順調に滑るが如く走っていたので大丈夫感は安心安堵した。 船長は次男だが社長・専務とは性格は対照的的なお人柄、 走行中波頭を越える際船体のショックが無いのが不思議だったと回顧、 波に当たるショック(パンティング)はブレーキンクで抵抗力が増し高速性能を著しく損ねる。 従来の浮力中心と重量中心の位置関係を逆に求め揚力(圧力)扱いが功を奏した結果、船長ならず共皆未経験、五島の監視船のみ。
試運転コースに到着後、船長と計測要員のE主任他計3名乗艇し試運転開始。徐行運転から1/2・3/4・4/4と回転数を上げコースを夫々往復し計測。 3/4辺りから快調の片鱗は成功を予感させるものとなった、 サーフェス独特のルースターテール(後方へ吹上げる水しぶき)を上げており歴史的瞬間は最早成功を確信させる走り。

小型艇乍ら勇姿に感動の時 歴史を飾る一枚
(船尾後方「ルースターテール」が「サーフェス」走行の証明)
愈々全開の出力11/10での最大速度を目指す、コース遥か先からルースターテールを視認、頼もしい走りは完全に滑るが如く速い、結果は35.2kt(65.19km/h) ! 海上での速度感は陸上の速度と異なりスピード感はそれ以上に思え怖い。ディーゼル機関での成功は世界的にも歴史的快挙は当時知る由も無く、ただ責任を無事果たせた事に安堵と共に苦労苦心の数々が吹っ飛んだ。 計測要員全員次々に乗艇し有明海最奥の海域を走行し乗り心地に酔う。
その後 事務所に帰り社長・専務に報告し喜ばれていたが本心既に不明な関係。急遽 設計の他スタッフも交え、Mデザイナーと町の居酒屋で成功祝いの酒盛り。互いの健闘を称え無礼講と一気飲み(初の経験)で酔いしれた当夜だった。失敗の時もさりながら、成功の情報もいち早く洩れ伝わるは予想を超える。正直「サーフェスプロペラ」技術克服は当然だが造船所との苦闘譚でもあった。

船尾後方「ルースターテール」を船上より、本艇より数年後の「タイタン型」小豆島 回航時四国大橋通過直後。 超高速は引き波が立たず白い航跡のみ。
博多港から小豆島内海湾最奥まで実質3時間半の航海を楽しんだ。
「サーフェスプロペラ」はプロペラ下(後)面で水を蹴上げる様に掻きだすが、上(前)面は尖端から切裂く様に上面には空気を必要としており、流入空気が断たれると水中で空転現象が生じる。 機関重量がカタログデータと著しい差と船体後部の窪み(空間)が相乗の効果で真空状態となった。船首が立ち上がったのでは無く、船尾船底が深く引きこまれた原因が判明。
その後の艇でも船側からの空気流入は見込めず上方からのみ有効は以外な現象と結果だった。
数ヶ月してマスコミ公表を通じ関心と問い合わせ。 JETRO(日本貿易振興機構)海外向け報道で世界各国の報道機関にも取上げられ、米陸軍情報部(海軍では無い)からの問合せには驚く。 防衛庁研究本部(東京・恵比寿)と海上幕僚監部(〃赤坂)、海上保安庁本庁(海上安全局)等々に呼出され質問攻めと賞賛を頂く。 特に海上幕僚監部からは具体的に提案がなされたが、要求の艦船に適合機関機種(当時)が無く。その年「10大新製品」候補になる、ほぼ大手の電子機器が占める。

左写真「フクニチ新聞」S59/7/20(1984) 最初のマスコミ報道
掲載記事、同紙は工高時代の「軽飛行機製作」「人力飛行機」、「ドイツ遊学」帰国後の紹介や「㈲福岡航研発足」を発表等々常にマークされた関係で縁は前田建一師以来のお付合い?
取材の神埼記者、丹羽誠一氏(舟艇協会会長)に裏付け取材の上、 記事を書かれたが「サーフェス・プロペラ」の可能性はオフレコの積もりで50kt以上も可能と伝えたが編集で思いっきり宣言の如くセミタイトル扱いの表現には弱った。
以後 50kt以上が目標となる。(怪我の功名?)

平成元年(1989) あまがせ(山口県・豊北町)
時速50.2kt(92.9km/h) 日本記録達成
念願の50kt超え!
※海上マイル 1.852m (陸上マイル 1.609m)
達成当日NHK全国ニュースで報道され造船界に衝撃!

平成3(1991) バイキング型
時速52kt(96.3km/h) ディーゼル機関 実用艇
日本(世界・当時)記録更新 後に詳述の予定


平成27年7月筆者撮影と記念のテレホンカード
平成5年(1993) 漁場監視艇「みょうけん」 新沿岸構造改善事業 : 随意契約
(福岡・野北) L: B: D: 時速47kt(87km/h)
私が現認出来る唯一実動の艇、 堤防釣りで人気のスポット。 20数年を経て多少色あせ感は有るが性能・機能共に些かの衰えを感じさせず風格?さえ。船尾甲板上にジェット機の様な空気取入口を設け「サーフェス」性能アップ。 走行中試しにティッシュペーパーを丸めキャビンから真上に投げ上げたが、見事に吸込まれ、効果の程を目にする。
大分・蒲江の造船所で建造し福岡へ回航の際、予て運輸省海上技術安全局(当時)から共同研究を申込まれた時期でもあり、船底にストレィンゲージ(センサー)を貼り付け計測の予定だったが、P.C.のレスポンス(応答速度)が追いつかず失敗。CFRP製船体では国内唯一実績の私共に、 構造基準(案)作成を期待されていた。
船体使用材料は全て運輸省「認定材料」使用が基本。 豊北町監視艇が初の当該検査船で本省検査対象として対応して建造された。 当初各地方支局では受け付けて頂けず九州地方本局(門司)に掛け合い、 以降 本省とコンタクトが常となる。
流石に本省には切れ者が居られる。 過って外国クラスと接触した様な対応は先例・前歴の区別なく柔軟で実質勝負して頂けるのが有り難かった。時は「石原慎太郎運輸大臣」外国から貿易の門戸解放が叫ばれていた時期でも有り、 初めて検査官を「韓国 ・ 香港 ・ 米国」へ連れ出し海外検査を実施に成功。 海運局マター(要件)は門司本局からも、 木村社長案件はどうぞ本省へと回される。 私の場合、前例の有無関係なく新規アイテム導入に迫られての事、対応に困る筈。