ジェットスキー
話は前後するが昭和50年(1975)?前後だったと記憶、 若手の貿易会社を経営する方が訪ねて来られた。 当時流行り始めたサーフィンのグッズやファッション等の輸入販売をされており、 米国を行き来の中でジェットスキーに目を付けて輸入されていた。 又 その数年前に日本小型船舶検査機構(J.C.I.)が設立されジェットスキーも検査対象とされJ.C.I.福岡支部に相談した所、㈲福岡航研を紹介され相談しなさいとの由。 雑誌ポピュラーサイエンス(米)で目にしていた物だが、 果たして検査に耐えうるのか確信を持てぬまま引受けてしまった。 J.C.I.福岡支部も対応に困ってた。
後日 西武のマリン事業部は関東運輸局(輸出入、海外検査の国内側窓口横浜)に相談するも、 ほぼ門前払いだった風。 尤も官庁・お役所相手にはアプローチ(海事事務所)から仁義とも言うべき手法が、一般業者からは伏魔殿の面があり(当時)。
ジェットスキーはメーカーは川崎(カワサキ)重工乍ら米国製(OEM)で、 現物以外は全く資料が無かった。 そこで事務所入口の通路に持込み検査完了の約1ケ月余り預かり、 現物を隈なくスケッチし図面を作成。 概略構造検査用計算書、 エンジン(機関)も分解しクランク軸等強度計算書を添付し、晴れて検査合格、許可証を獲得。
福岡貿易からは日本では最初に検査証を手にしましたと感謝され、 以後 関東運輸局も追随の形で形式認定された。
現在では全国各地の川面や湾内で走行の様子が伺え、 夏の風景を為している。
さて 港で停泊の船舶を見かける、デッキ下の船体は一様に見えるがその種類は様々で、 目的により構造や配置は夫々に異なり千差万別。 構造屋としてはその内部が恰も透けて見えるが如く設計当時を思い出す。
下部写真は㈲福岡航研カタログの一部に掲載のコンテナー船、 資料等不明につき転載したもの。 東大と共同研究のモーターグライダー(木村設計)に重なっているが、 最小限のモデルで船体の前後と片舷のみを計算対象としたものでデッキサイドにクレーン台座が見られる。 クリックで拡大すれば詳細が御理解頂けるが、極めて不合理な外形形状はコンテナースペースを確保の為。 最近は見かけられるが着手当初(S50 1975)は世界的にも最新?の構造様式、完成時の荷重試験は正直、胃痛に悩んだ。
スパコン利用で助かるのが、 撓みが数値と共に100倍或いは任意倍率で俯瞰し

て可視化。 判別と具体的対処に相応以上の効果があり、絵画を眺める様に見つめ技術屋の感性を磨いてくれる。
計算データシートの出力結果はこの図から要所云わば患部を特定し数値を追い求める事が出来た。 この時点では未だビームエレメント(梁要素)だったが、 後年ソフトがより進化しパネルエレメント(面要素)となり、更に外力が流れとしてベクトル表示、よりリアルになった。 力は構造材を通じて流れている、ごく当たり前の現象なのだが改めて思考回路も脳内を駆け巡る。 街で見かける建築や橋梁を前につい立止まるがクセ。

液化ガスタンカー(L.P.G.)隔壁を中に前後の艙内をモデル化
前後左右に分割し、海水圧とサドル部の集中荷重での撓みを可視化
数値データはダンボール箱4箱、 各部を精査検証をする。
写真上は、超高速艇船体線図 時速96.3km/h(52kt)
液化ガスタンカー(L.P.G.)も思出す、艙内に長円形のタンクを設置し支えは前後2ケ所のサドル(台座)に固定、積載物やタンク重量はサドルで集中荷重として船体に負荷される。 波浪によるホギング(+)やサギンク(-)の船体を曲げる作用に加え更に複雑な挙動に晒される。 矢張りスパコンの為せるワザに報われ完成。
N.V.(ノルウエー)クラスではコンテナー船で神戸大丸近くのオフィスに訪ねた時の事。 珍しく?日本人の検査官若い(35歳前後?)菊入さん。 お人柄もユニークだったが、当方持参の計算資料は脇に置き、MidShip(中央横断面図)を広げ、スラスラと数式を図面周囲に書連ね暗算の如くほぼ全部材をチェック。 当方疑問の点は即返ってくる。 全く雑談の如く僅か半日少々で1万トンの船が承認。 ルールブックはその間数度確認のみ、厚さ6~70㎜の原書を丸暗記されてるのか。 しかし持参資料には応力計算で算出部分もある、見慣れぬ数式で同様な解、 天才とは斯様なお方!?
A.B.(米)クラスは旭洋造船貨物船で東京駅附近、新日鉄本社ビルにオフィス。
6.000トンの船舶、前後船艙ハッチ間の僅かなスペースにデッキクレーン胡座の如く。
スパコンも既にパネルエレメント(面要素)で力の流れと強さがベクトルで表示され、剛性的には両サイドの側壁間をボックスで繋ぎ形成した上にクレーン。
当然ボックスは相当な捩れモーメント(せん断力)を受ける、通常船体構造は縦や横方向に防撓材を配するが、斜交いの如くベクトルに沿った方向に補強材、12㎜が僅か9㎜厚に減じた。 軽く、しかし強くが技術の使命、設計課長の大丈夫?の声。
安全第一だが余剰で過大な重量負担は造船所・運用側共に肩が凝らぬか心配。
余談 A.B.オフィス(新日鉄本社ビル内)と東京駅との間に電源開発本社ビルがあり、
突然だが同窓の小方君を訪ね、同じく同社の新宿御苑勤務の河野君と銀座で一杯ご馳走になった。仕事ではトンボ帰りが殆どで貴重な時間に記憶が濃厚に蘇る。
(河野君はH28/12月病没を小方君より知らされる H29/8/28記 合掌)
B.V.(仏)はサプライボート(支援船)アルジェリアの船。 時折東支那海で中国の海洋掘削施設で附近を航行の同型船が見られる。 それら施設へ掘削用のパイプや機器類を文字通り供給する大型外洋船、見かけはタグ゛ボートに近い。 私に取り鬼門のフランス語、提供のスペック等々資料全てが・・・であり、辞書片手の設計は別な意味で苦労。 但しルールブックのみ英語版。 計算書は英語で済ませたが、図面記載の用語はフランス語記入、参考図書に助けられたが。 我々は机上の作業であり、現場ではさぞやご苦労では無かったかと気を揉んだ。
外国クラス船は都合4~50隻近くは手懸けたが、当時国内では恐らく最多数こな
した様に思う。 船舶設計の門外漢だったが「鹿児島ドック」の特殊な立場を基に、又、各社から特殊技術の要請に、其れなりの結果が得られ又相次ぐ勉強に追われたのは幸せだった。 その後「鹿児島ドック」は為替の変動で3隻ドル決済の船が建造中に267円が180円/ドルに下落、多大な負債を抱え敢え無くの結果に。 薩摩男児の如き社員の方々は、これからの時だけに残念、共に戦った様な気持ち。
漁船の徳島造船が建造から撤退閉鎖、 鹿児島ドックも頓挫に福岡航研も経済状況の推移と共に新たな方向転換に迫られた。
これまで仕事が次々と流れていたので営業面では苦労なく経営も順調だったが、
他にも不渡り手形等が相次ぎ、 手形の買戻しや目の前の仕事確保や運転資金手当てに追われる状態が続く、 会社設立7~8年目頃の事。
運輸省本省の航研マター(案件)
船舶建造・設計については全て運輸省海上技術安全局、門司九州本局、福岡海運
局の許認可事項であり、ほぼ全てに渡りお伺いの元に作業を進めるのが前提、しかも
手続き毎に海事代理士事務所(民間)に書類申請を願う事が常。
言わばお上の如き存在は個人感情をも具合悪くなる事も当時は再々でした。
所が、私の場合前例の無き案件は多岐に渡り、支局の検査官泣かせが再々で対応
に困らせていた。 付いては福岡、門司とお伺いを立てるも、木村(福岡航研)社長は
どうぞ本省(霞が関)と直接にどうぞとなってしまったのです。
流石に本省・担当者の数人(!)は優れ者又は猛者もおられ、実践的判断や高等技術的
決定を果断に裁定(決定)。 従来は相談も憚られるか、テニオハの条文に抵触若しく
は、検査官の能力・理解の範囲を超えた場合は門前払いが常識。
解決を諮ったその数例を紹介。
① カーボンファイバー(炭素繊維)製船体構造
構造材料や資機材等は使用に当たり全て構造基準の適合材(認定材料)が当然、
本来受付すら叶わぬ事乍ら、 福岡航研では高速艇(小型船舶検査機構・JCI
材料試験で強度を実証済)で実績もあり、FRPの積層基準に複合則で等価させた
資料提出で以後はスムーズに通過。 尚現在に至るもカーボンファイバー(炭素繊
維)製は福岡航研のみかも。
② 海外検査
運輸省検査は国内での行動に限定され、外国の造船所に立ち入っての検査は
歴史的にも前例は無かった。 時は石原慎太郎運輸大臣が幸いし決断の結果と
同時に、当時市場開放の外国からの圧力も、香港、韓国、米国に連れ出し成功!
最も所掌は関東運輸局(品川)担当で、建造や材料試験の建造・輸入に漕ぎ着け、
当然同行し外国での気軽さもあり本音トークも。
③ 船体構造に直接応力計算(解析)
通常、船体構造は構造基準に依る部材寸法算定で決定される。 しかし造船
設計では経験式(経験工学)と思われる超簡単な数式で算出は簡便ではあるが
オーバースペックの傾向は明らかで、 ド素人(私)で新参者ながら不可思議な
思いが当然。 航空機やクレーン等の強度は負荷荷重から逆算するが如く決定
が常識、外国(LR,AB,GL等々)では普通に実施。
しかし当初は、本省の優れ者に理解の元、応力レベルでの設計が可能となった。
④ カーボンファイバー(炭素繊維)構造基準の策定
本省では福岡航研の艇を始め、将来を予想し構造基準を設ける必要性を考慮。
付いては国内唯一の実績を買われ本省海上安全局で研究費を予算化するので
協力を要請され、と共に学識経験者として東大・金原教授を紹介。
後日 福岡・九大、春日キャンパスでの複合材料学会会場で挨拶、懇親会で木村
社長はどちら(大学)のご出身で? ハイ! 博多工業高校機械科の出身デスに驚か
れてた。 当時航空宇宙学会含め会員の高校(工高)出身は私1人だけだった。
お陰で全国の大学は東大含めフリーパス、逆に共同研究をと恵まれもした。
⑤ その他
本省への問い合わせや訪問は再々となり、細々とした案件等もかなりコナし、
その幾つかは「通達」等で地方局等に流布。 結果、旧来の判断基準が緩和若
しくは許容範囲拡がり、業界にはかなりな貢献をしたものと、本省担当者に感謝。