本船は恐らく本邦で最初に船体構造の三次元応力解析の為、スーパーコンピューターを駆使した忘れられない特殊(形状)条件の船で、三菱下関造船所で完成ドックの際、特殊形態と形状に設計陣全員が見学に来られたと、鹿児島への帰途事務所(㈲福岡航研)に立ち寄り鹿児島ドックD部長から自慢だったとワザワザ報告に来られた。
デッキ上のクレーンデッキ下の補強が不可能と同時に船体中央部2ケ所大きく切欠けたデッキと外板、当事は考えられない船体構造だった。
自身設計の船舶を目にする事は珍しい一枚(35歳)、実際33~4歳頃の作業だった。
因みに時々帰宅途中に立寄られていた福岡造船のH部長(九大造船科卒)は机上に拡げた計画の一般配置図を一見して、 構造の危険性を指摘し手懸けるには手強いと敬遠を示唆された。
全長150M ・ 幅21M ・ 深さ13.4Mのツインデッカー(2層甲板船)、船艙は前後2区画。 問題は、 各船艙デッキ上中央中心部にデッキクレーンを設置、デッキ上周囲にはティンバー(製材済木材)積載。 しかも右舷片側がUpp.デッキと2ndデッキとも外板がパックリと逆L型に開口、新聞紙ロールをフォークリフトで搬出入の出入り口が前後に2ケ所。 つまり船体構造が左右非対称であり、中央部前後して肩に当たる部分が欠落、縦横強度上では致命的。 又デッキクレーン下部は広い積載スペース確保の為、甲板下部補強が許されない。 其れにも増してノーブラケットでベールキャパシティー(船倉容積)を稼ぐ為、所謂構造屋泣かせの船。
右図はデッキクレーンが搭載されている図、クレーン下甲板下の補強は不能で平面な甲板のみでの支持構造。
上記写真で左舷中央2箇所難題の切欠きが判別できる。
右図は後年「日本造船学会誌」に発表された類似の船で甲板開口に当たる箇所に
上記写真の様にデッキクレーンが前後夫々計2基設置。
「鹿児島ドック」は以前述べたが、新興の造船所であり市場(船会社)での認知度も低く競争力は船価と共に特殊な分野での特化を果たさなければならなった。
福岡航研もその一翼を担う事となり、幸か不幸か造船界では異例の思考錯誤や技術的革新に付随した苦労を背負う事態を招来した。
招来とは私の方から積極的に「飛んで火に入る・・・」つまり虫だった。
試運転で緊張感ただよう操舵室内
100番船で造船所とL.R.(ロイド:英国)規則との調整や確認に懲りた面もあり、隔靴掻痒な状況で熟考の成果を確認もままならず、既に造船所内部の一員の様な立場ともなり。
以降、私が直接横浜L.R.や他クラスに出向き打合せや折衝するのが仕事となった。
キープラン(Const.Pro.(全体構造図)、Midship(中央横断面図)、ShellExp.(外板展開図)と共に計算書を事前発送し朝一の便で伺う。 そして一日がかりで打合せ・折衝・お願い様々な場面を演じる最早ルーチンワークの如く、そして建造許可を手にして帰るのであつた。 たった1日で! 普通早くても1ケ月、通常2ケ月は要する、従い設計は常に納期に追われていたが、お陰で実施の構造設計図書作成に時間的ゆとりが生まれたのは幸いでした。
L.R.にすれば珍客の部類。 尤もL.R.の立場で30数枚の図面や計算書を隅々全て洩らさずはチェック大変な作業、キープランのみで問題点をコチラから提示の上云わば相談をするので話は早い、彼らに取り美味しい仕事では無かったかと思う。
しかし、オフィスの入り口は外国を思わせる雰囲気、技術屋には敷居高く感じた。
当該船の担当は英国人長身のルール氏(氏名)、持参の資料を一通り詳細に見て
問題の二層ラーメン計算書の段階で、二次元計算書(断面)の不備を指摘。 三次元(立体構造)での計算を要求、最早手計算では手に負えずコンピュータの世界。
日立造船本社(当時大阪)の計算室のスーパーコンピュータの利用を決め、汎用ソフトFEMナストラン(ビームエレメント:梁要素)に依る事にしたが。 多大な費用負担に、最小限のモデル(構造範囲)化と構造要素(部材数値)を提出し行う事に。
日立造船とは云え計算専門の部署(情報システム部)、担当係長は数学出。
構造図を元に、荷重やその負荷条件、計算上境界・拘束条件等提示する。 数日後、それら確認のテーブルが届き一部訂正を願い、計算結果を待つ。 二週間 経た頃か、ダンボール50㎝角が6箱送られてきた! 箱を開けるとギッシリしかも数珠繋ぎで連なっていた。 各格点のモーメントやせん断弾力、応力、撓み等がX. Y.Z.軸、夫々にローテーション(回転軸)が事細かく一行にプリント、最早宝探しの気配。
全ての検証は不可能に近く、問題と思われる箇所をピックアップ、それでも数十ヶ所検索に及び、一人で数日徹夜の検証と考証は久々の強行軍。 結果それらからダイジェスト版計算資料を作成、 それでも10数cmの厚さに纏め上げ再度L.R.へ。
ダイジェスト作成の際、①曲げ応力②せん断応力③撓み量は計算されているが
①と②の合成応力が為されて無い事に気付き、当然事前打合せで確認の事項。
日立造船本社に駆けつけ部長判断で会長(永田:当事)室隣の広い会議室に本社勤務の女性40名位い集め手計算に及んだ、私は一日ど真ん中椅子に掛け彼女らの質問に適宜応じる。
スパコンも一歩間違えば大変、スパコンの計算は10数分だが、プリント出力には
一昼夜を要したらしい。 余談乍ら本社前地下鉄で田中角栄逮捕の号外を目に。
再度それら資料を持参し検証の作業、相手はもう一人マッカイヤーが同席、問題箇所の検討は検査では無く最早共同の作業風景とでもの感。 朝一から夕刻残業は異国の人達には異常事態だがお付き合い願った、幸い本船全てに合格の決定。
互いに気を許し合う内に、ナゼ日本語を理解し話せないのかと少し皮肉、両人共に苦笑。 やはり微妙な表現やニュアンスの違いに苦労はいささか苦しい本音だった。
ある時造船所工場長が東京出張中で同道頂いた時、何時もの如く彼らと真剣なやり取りに感心され、その夜銀座末広(スエヒロ)で当時珍しかった特大ステーキとワインをご馳走になった。 工場長は九大造船科卒で三井造船船穀部長まで勤めたプロ中のプロ。 今日の模様を一部始終見て驚かれた様子。 曰く永年同じ仕事をして来たが、彼らと臆せず主張し尚且つ納得させる迄粘る姿は始めて目にした、しかも英語での丁々発止に感動、三井で数多くの設計者が居たが一人も居なかったと半ば呆れておられた。 確かに再々訪れるも、私以外出入りの訪問客は殆ど見かけなかった。
翌年、別件で訪れた際、 関所長から部屋(所長室)に呼ばれ、例の110番船一年後の補償ドックで聊かの瑕疵も無く、完全に稼動を知らされ共に快哉。 検証の際担当のルール氏判断に苦慮、関所長に数回世話になった経緯もあり、L.R.も難題の船だった。
以後 ロイド(L.R.)からの紹介は、造船所相手には上から目線で福岡航研(私)主導。
※関 所長 (東大出)
横浜・関内、横浜スタジアム大桟橋通りを挟み西側に面したビル(当時:数年後移転)、
広いワンフロアのオフィスに多数の英国人スタッフを束ねる人柄と姿、英国紳士風国際
感覚は日本人離れで育ち良さが際立つ。 日頃客人少なく日本人スタッフは珍しく毎回
遠目からの会釈程度だったが、JETRO(海外協力機構)の海外向け英字紙で、私の「サ
ーフェス高速艇」の成功記事を知り、訪問の際ロビー玄関先にワザワザ出迎えて真っ先
に所長室に案内、紅茶で称賛の声、私との縁は誇りだとも、外人並み表現、身に余る
賛辞は忘れられない。 ルールさん関所長に相談の際私含め3人の言葉は全て英語。
交わす英会話の風景は英国1人対日本2人なのだが、所長と私とも英会話、思い出す
度に可笑しさが込み上げて来た、所長の流暢なクイーンズイングリッシュは本場仕込。
ロイドから紹介の一件