昨年H28/2/28 書き込み以来やる気が失せてたが、ある切っ掛けでリスタートの決心をした。 先日(5月10日)同窓の富田君等他4名でミニ同窓会とでも・・・。
 
 実は富田君とは卒業後クラスではほぼ二人のみ(?)技術関係の会社を起業した仲、しかも彼は代表者として今尚現役で活躍しているのです。
 
 そしてこの7月末 創立40年の記念式典を行うのだがその際友人として一言述べて貰いたいとの事、そこで一部記憶に不確かな点も有り、それじゃあ会おうかとなり先述の機会を設けて頂いたのだが、せっかくなのでと6人の云わば飲み会となってしまい、富田君に余計な出費をかけてしまった。
 
 但し 皆さんは互いに毎年同窓会に出席の常連、私は家内の不在(長崎叔母夫婦の介護約7年間)や稼業で全国各地を飛び回り、私自身は4~5年ぶりに皆と会った。 序でに同窓会は卒業以来56年になるのだが未だに継続している。 そこには歴代幹事のご尽力に依る賜物だが、偶然とは云えこの前3代の幹事が、あの世に旅立つという不幸が続いている。  なので現在は3人連名の世話役(?)としてるらしい。
当夜はその内 花崎、高田(浩)君も来ていたが、無精の私に是非今年はと念押し。
 
 富田君についての情報収集はそこそこに、皆同級生ゆえほぼ等しく75歳!
話題は自然と孫子や夫々今の現状を報告しあうものの足腰や体調が心配な年頃。
 
 若い頃はスポーツ自慢の我が身だったが現在毎朝6錠、夕食後3錠の薬を常用している身、片や花崎君は今朝もソフトボールをやってきたとの若さ。
悔しいよりほぼ尊敬のレベル、 そこで私も一念発起何かをとの思いで本ブログ
を再開し、鼓舞すると共にいくらかの切っ掛けにならないかと思い切った次第です。
 
         

 

 「超軽量動力飛行機」の試作・開発で培った技術と設備は、その後反響を呼び興味深い事態に係わる事になり、それらを個別に順次書き留めて置きたい。
 
     福岡銀行
 九州・山口新技術開発での表彰  (H29/9/18 記)        
  日刊工業新聞社刊「技と人を磨く」と言う書物を手にしている。(平成4年11月刊)福岡銀行が創立40周年を記念し九州・山口地域における技術指向型中小企業の支援を通じ、地域振興に資することを願い、昭和60年8月「KYUTEC」(キューテック)を設立。 本書には第8回(平成4年)時点で50社記載されている。
 
 (有)福岡航研は第2回(昭和61年)表彰に他4社(矢野特殊自動車等)と共に受賞。基本、先進複合材料(ACM)成型技術が対象だがサーフェス高速艇も対象に。云わばシッカリ頑張りなさいと銀行から200万円拝受、大きく新聞やテレビで報道。
 
 表彰金は開発の資金に苦慮していた時期だけに大いに助けられもしたが、技術的試行錯誤に明け暮れていた時、随分勇気付けられ、社会的にも認知される。福岡銀行山下頭取より賞状手渡される場面がテレビでアップは効果的だった。 
福銀表彰式
手前 タイミングで山下(当時)頭取より頭(頭)が高く?心苦しい
 
  余談乍ら銀行からマスコミの取材には協力を要請されており、 日刊工業新聞一面トップ(6~7段)に「小松製作所が航空界に参入」既に飛行試験も終えている! オフレコの話が本社サイドの判断でスッパ抜かれてしまった。 小松の株が9円上がり、重厚長大で重い雰囲気の社内が一気に盛り上がったとの声。一方社内広報では発表のタイミングを諮ってた事もあり微妙な空気の中、副社長が会長に釈明の書面を提出も、用紙全面に赤鉛筆で、でっかいペケ(×)印とダメの文字、 怒り狂ってた。
東京湾岸道路計画が直接にしろ、本件も切っ掛けではと内心苦悶、マスコミの怖さを知る事に。 又、事が知れ渡り大阪・伊丹「大阪航空局」の検査官まで出向き詫びと釈明に、 たまたま…と言い訳。 伏し目がちに「しょうがないですものね」と理解を頂くハメに。(局の検査官にとっては安心材料だったのかも? )

 

 新日本製鉄、新日鉄化学
 上記報道(日刊工業新聞等々)により、全国主要大企業からのコンタクトが相次ぎ、ある意味で対応に追われる事となるのだが、カーボンやケブラー等複合材料も未だ具体的案件に至らなかった中で、 新日本製鉄本社の提案は興味深いものだった。同社は主力を千葉・君津に移転しており、九州の工場は持て余して(?)いた時期。重厚長大から軽薄短小の時代の波に乗じようと懸命になっていた時期だった。因みに我が母校には就職の声は一切無かったのだが斯様なご縁が出来るとは?  
 
  航空技術研究所(現JAXA)所長からの相談
 一方弊社には航空技術研究所(現JAXA: 東京・三鷹)から日本版スペースシヤトル「ホープ」の試作を相談されていた時。 H2ロケットで宇宙飛行後の最終フェーズ(着陸進入)用実験機の建造要請でした。 但しK所長曰く、航空技術研究所は国(科学技術庁: 当時)の機関であり直接の委託は手続き上の問題もあり、航空三社(三菱、川崎、富士重工)の内、好きな社で良いから介(指名)して欲しいとの事。 
 
 K所長の申し出には、 東大・佐藤教授(後:航空宇宙学会会長・JR尼崎事故の調査委員長)との共同研究で巨大風洞での試験・実験(8日間)で世話になっており、所長室に呼ばれ、又その後 福岡にお越し下さり説得努力を強いてしまった。

 

 新日鉄本社
 新日鉄は戸畑の工場で新素材技術の活用を諮るべく福岡航研で利用して頂けないかとの申し出、 家賃無料、水道・光熱費や現場職員の賃金も負担します、と。貴社の飛行機なら工場内(300M以上)で離陸から飛行、着陸まで出来るらしい。
 
 航空技術研究所の実験機「ホープ」と新日鉄の戸畑工場活用の話は実にタイミング良く有難い話だったが、弊社は私や女性事務員含め僅か4名のみで対応は・・・その内、逡巡し月日経過の中、K所長は同所を退官名古屋大学航空科教授に就任しかし 今思えば諸先輩や銀行辺りに相談しておけばとの悔いも残る。
 
 新日鉄化学とはその後カーボンプリプレグ試験材料の無償提供を受け糸島・浦志の試験・実験工場で試作に明け暮れる。又 同社導入技術のストーンパネル(薄切り大理石とハニカムパネルの張合せ)では、運輸省検査官とダラス(米)ストーンパネル社立会いと船舶艤装品研究所(東京・小平)での試験を委託され船舶内装品材料として認証された。 又 同パネル切削・加工成型機も開発、製品化等々、 と同時に担当者や部長と週2回位いの割りで銀座クラブにて痛飲バブル盛んな頃、ホテルは銀座・日航か新橋第一ホテルが常宿、航空券は回数券だった。
 
 上京の際は、三菱重工、三菱化学、小松製作所、新日鉄等々本社筋から折角の機会だからと銀座界隈で一席必ずお呼びが、かけられていたのも懐かしい。
 
 住友金属
 とある日、外出から帰社の際ビルの前に立派な大型のアメ車が停車していた。事務所に戻ると来客を告げられ、長身の紳士然 日興証券・福岡所長だった。要は住友金属サイドよりの依頼で航空部門進出の緒として福岡航研と合弁の話は如何との件。 日興証券としては後々上場に際しては担当証券会社として位置したいとの事なのか、 改めて経済の仕組みとはと、思い知らされた一件。
 
 後日、有楽町の日興証券本社応接室で住友重工担当者と話し合いを行う。担当のOさんはドイツ勤務の経験もあり、スポーツ航空への歓心がお有りだった。又 重工各社の中で唯一同社のみ「航空部門」が無く、その端緒にしたいとの事。 まずテーブル上にB4用紙30数ページにギツシリと書込まれた書類が提示された。いわゆる住友金属内部での積上げ計画資料、 かなり以前から社内で検討され今日に至った事が伺える、又その足で住友金属本社(皇居前)にも同道を促されたが又次回でもと固辞。 調査内容は私の中学(呉市)から、故 前田建一師との接点から小松製作所と共同開発に至るまで、調査は怖いほど記されていたがかなり好意的な表現に終始(当然だが)。 尚 後半分程度は事業計画だった(後述)。
 
 同社は既に千葉県・鹿島の埋立地、同社工場の一角に超軽量飛行機(ウルトラライト)専用の学校を開設、 自前の滑走路も設けられていた。機体はフランス製の複座機が利用されていた、 将来自社の機体開発が前提。見学当日は我孫子在住の東大・佐藤教授に同道願い、先生の車で同地へ。ここで佐藤教授は流体力学の権威ですが、東大航空部(グライダー)部長なのだ。所長の案内で同所を見学と共に飛行(同乗)を促された、先生は率先され上空ではかなりの腕を発揮、地上から手に取るように見え流石の技に別の一面が伺えた。
 
 事業計画では合弁事業・新会社設立にいかんともしがたい抵抗感を覚えた記憶。いわゆる私(木村個人)に株式51%、住友金属49%の割合で保有、将来増資の際もその持株比率は堅持するとの条件は身に余る好条件ながら、社員達は?福岡航研には人一倍愛着もあり、 機体の共同開発をと逆提案、従って出資は資本で無く開発資金へと申し出た。 担当のOさんはドイツでの活動状況も私の経験と共有、照らし合わせ且つ会社との狭間で苦慮されていた。  
その後 この件は破談となったが、 ボートショー当社会場を訪れまだ吹っ切れていない風に申訳なく、 住友金属未だ航空界進出の話は伺えず。
 
     次回      ⑩ ブログ再開
      
 小倉空港での失敗・挫折の傷は暫く立ち直れない程のダメージとして堪えた。冷静になり思うに、予備テストは当然の手続きで有り、工程の遅れから焦りが原因と空港使用のスケジュールが予期せぬ程早く許可された結果でもあった。 
 
 問題のフットバーは補強を施したが、首輪はフリー(自由輪)を連動式に変更。それまで地上走行は左右主輪のブレーキ操作で方向転換をさせていたが、万全を期す為にフットバーと連動方式に改造をする。 仲間内から聞き及んだ糸島のウルトラ愛好者の広場でのテスト走行を行う。私含め全員が地上での試乗を行ったが恰も遊園地での遊戯車輌で遊ぶ様に楽しみ、一部加速をも試み問題は解決される。
 
 しかし前回小倉での大々的な試験はコリゴリで失敗のダメージは余りに大きく、撤収の際、山口さんより大勢の目前で「チャンとして来い」との言葉は弱り目に祟り目、 両ひざが崩れんばかりの精神的ダメージ、耳から離れようもない。従って事前テストは内々に行うべく、 同好の仲間より熊本の宮崎氏を紹介され挨拶に伺ったが、 オットリ刀の私に穏やかながら、シッカリした口調で快諾を頂く。 同氏は熊本で同好仲間の中心人物、八代の埋立地を利用した暫定滑走場で活動中。 超軽量飛行機のパイオニアであり、自身「軽飛行機」の飛行免許所持者。それ以上に救われたのが氏と仲間の皆さん暖かさ溢れるチームワークだった。
 
 12月26日(S61 1986)早朝工場を出発、小倉での屈辱を晴らすべく、我々4人の他軽飛行機操縦士のK君のみ同行願い八代の現地へは夜明け前後に到着。心配だった前夜からの雨は上がり、青く晴れ渡り期待に胸脹らんだのを思い出す。
宮崎さんを始め仲間数人も集まり、 飛行テストの支援体制も手際よく万全な風。天本、太田君達が機の始動準備の中、搭乗し自ら操作の上確認の作業。私は記録ビデオ撮影でコース中央付近に待機、山本さんは滑走場正面からの撮影に構え、天本、太田君達は消火器を手に機側に位置し不測の事態に備える。 
 
 風は1m/秒前後の微風、滑走場は僅かに整地されたかの草地で所々に水溜り。やがて機はエンジンパワーを上げユックリと動き始める。此れまでが前回小倉空港で経験した段階、心配は以降だったが、難無く地上走行の姿は安心の空気が漂う。
 
 当日の予定は高速地上走行のみ、即ち飛行は航空局の許可事項であり所謂寸止めに控えねば成らない。 都合10数回の往復を済ませ風向きに徐々にパワーを上げ最早浮揚寸前まで行きつつあった、愈々ラスト2回となりパイロットの感覚から更にパワーを上げ瞬間車輪が地から離れた様に思われた、 機体は極めて安定的に飛行(?)姿勢が垣間見えた瞬間を味わうが、その時は目の錯覚と思しき感覚。パイロット自身、一連のテストを繰返す内に機の特性や性能を感得したのだろう、最後あたりはは1m近く浮上かに見えた。 草地での凸凹な走路に主脚も馴染んだ如くに弾んでおりショックを吸収している、最後まで悩んだ件だったが極めて安定状態。
 
 早速会社に引揚げ応接室でビデオを繰返し再生し瞬時の定常飛行を確認する。この時に皆が改めて感激を味わった、此れまでの苦労が報われ喜びもひとしお。皆弁舌爽やかに会話が弾み、改めて宮崎パイロットの操縦感覚と手腕に感謝。
 ミニ改造 主翼に上半角と固定タブを取付 しかしトルクの反動で浮く前後に右にバンクの傾向が明らかに見られると共に、
高翼機の場合、上反角は設けないのが普通だがイニシャルな横安定性を求め上反角1.5度を設定。 且つ右翼補助翼内側にアルミ単版で固定タブを取付け、年明けの再テストに備える。 年末から正月は安堵と次回に向けて久々ユッタリと寛ぐ。
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   写真上12月26日改造前         写真上、翌1月6日上反角と固定タブ取付け改造後
 翌1月6日(S62 1987)再度八代に向う、今回は「K.T.」社、副社長にも連絡し立会いを頂いた。 この一年有余東京で社内からの風当たりを一人受けて居られ心配は想像以上に思え是非初飛行の喜びを共にしたいと願う余りだった。 又博多工高同級生で唯一当時「飛行機製作」を知らせていた模型航空部の久保山君にも連絡、当日波田君と共に見学(以来久保山君は同自家用機で現在もフライトを楽しんでいる)。 
 
 当日も無風に近い晴天に恵まれ、 テストには最高のコンディション。 テストの内容や順序共に宮崎氏や仲間にほぼ全てを任せ適宜実施は互い暗黙の了解事項。尤も、 小倉時点では「大阪航空局」にも事前書類提出の上、地上走行の許可を得ていたが、 今回はあくまで正式「飛行テスト」の予備だが多少のフライングは覚悟。
 
 地上走行は回数を重ねる度に序々にパワーを上げ、主脚が伸びきり浮上の度合いも次第に飛行といえる状態に達している。 滑走場横(草地)には舗装されたばかり4車線の道路が整備されており、 斜め後方より車で追尾しビデオ撮影とメーターから速度を読上げ同時録音。 前回の模様から離陸速度は40km/hを超えた当たりで離陸速度に達している、恐らく地面効果が効いているからと思える。 
 
 やがて2~3m程度の高度獲得しだした辺りから補助翼(エルロン)操作を行い左右バンクを繰り返している、操縦性能の確認が出来る位いになっている模様。 それまで高速走行中、昇降舵(エレベーター)の効きも程の良い程度にバランスが良い。 出発地点へ復路タキシングですれ違いの際、パイロットが目の前で握り締めたコブシの親指を立てOKの合図、万事順調を伝えられる。
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    主翼荷重試験(片翼) 砂袋(10kg)を積上げ、ストレインゲージ(ペンレコーダー)で応力と共に撓み量を計測中。
      因みに主翼自重は砂袋2袋チョイ(22kg)主翼の強度をご想像下さい。
 最早直線コースでの飛行(?)テストは30数回を超える程度に達し、方向舵(ラダー)に依る方向転換確認の必要性から出発点をより後方200m地点の道路に移動。既に完全な飛行(フライト)の域に達しており、航空局の許可が頭の隅によぎるが、
目にする機は、極めて安定的なフライトを続けておりパイロットの感覚を信じ続行の腹を決める。 風洞試験や荷重・破壊試験の結果から想定通りの状況ゆえ決行。
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              あくまで地上走行テスト(ついジャンプ?)のハプニング場面
 機体は此れまでと違い遥か遠くに小さく見える、次第にパワー全開(38ps)の音が響き加速の模様はスローモーションの様に刻々と近づいて来る、離陸速度に達した瞬間7~8mまで一揆に上昇し水平飛行に移る。 機体のフォルムが影絵の如く浮彫りとなり思わず美しい!  静止画と思える程、空中に浮んでいる。 滑走の草地と道路は30mほどの距離で平行しており、軽く右にバンクをかけ方向転換した後、再び左バンクして草地のコース上に復帰。 その間僅か20数秒の出来事だったが、三舵の程良いバランスは充分に読取れる飛行状態、机上計算に明け暮れ且つ実際を目にし思わず感懐に浸った瞬間が思い出される。 都合3回同様フライトを実施。
 
 パイロットの宮崎氏より更に場周(一周旋回)飛行の要望が出される。 現地は工場誘致の整備遊休地、未だ人家や工場も無く外周は有明海や球磨川河口に位置、最小限の安全は確保され不測事態も最小限に可能な環境では有った。 それまでの機体性能から充分な自信とも取れる申し出であったが、 瞬間逡巡したものの飽くまで「走行予備テスト」が基本、これ以上はさすがに決断する事は出来なかった。
 
 しかし結果、本機はこれが最後の「試験飛行」となり、結果論だが当日の決断に聊か残念の思いは残る。半年後、再度宮崎氏が事務所に訪ね来られて再度の要請も断ってしまった。  正直、私の台所事情も有り期待に添えなかったのが実情。
 
 当夜 宮崎氏と歓談の席で、本機「超軽量飛行機」性能は、従来機を遥かに越え軽飛行機「セスナ機」の感覚、操縦性能はバランスと共に極めて安定しているとのお褒めを頂いたのが、本プロジェクトに期待し賭けた全てだった

 

 八代での「飛行試験」後、3か4月頃「東京湾岸道路計画」が急遽浮上。 以前にも記述しているが、「コマツ製作所」事情で重厚長大から軽薄短小の時代への推移に対応すべく、社内ではあらゆる分野に挑戦していたが、以降一切の新規事業を撤退の決定が下された。 「超軽量飛行機」開発もその一翼を担っていたのだが、私共に取り願っても無いチャンスと捉え呼応の結果。 思わぬ状況から、中断となったのは心苦しくも経済的には破綻寸前の状態に救われた思いだった。
 
 当初は一年程度の予定が倍近くの月日と経費等の予算消耗度は遥かに越え、台湾からの高速艇引き合いも延びた挙句、「飛行機製作」に本業どころでは無くなってしまう有り様。 事務所や工場の経費負担に追われ、私の給料以上に両親の年金も注ぎ込む事態。 その間、自宅の返済も滞り競売の責めにも苦しむ状況は「サーフェス高速艇」での正に再現となってしまった、又々経営者失格であった。 従ってコマツより中断の申し出は渡りに船、当初契約の予算に倍する以上の出費。
 途中製作過程の写真やビデオも多数蓄えており、何れ写真等も順次加える予定です。
       
     
                      目     次

 

  無着陸世界一周「ボエジャー機」
 ここで飛行試験を前にした12月初め我々の機体がロールオーバー一週間位い前だったが、バート・ル-タン氏設計の「ボイジャー機」(写真上)が世界一周出発を報道で知る。 どうも私達同様「ACM」製(先進複合材料)らしい。早速「東レ」大阪のO課長に連絡し同機の詳細が手に入らぬかと相談してみた。
 一週間後くらいに「デュポン」社からのテレックスが転送されて来た、流石に早い。確かにバート・ル-タン設計、カーボン、ケブラー材料はデュポン社が提供。 製作・組立含めミサイルメーカー「ハーキュリーズ」社で製作された事が判明。
同社は成型技術や設備(オートクレーブ)を所有、云わば世界最先端技術の結晶!
 
 奇しくも同時期、地理的にも全く離れた米国(ルタン氏)と日本(不肖:私)で殆ど同様な発想と構造や材料で機体製作が行われていたのだった。 単純な比較はおこがましいが数日遅れ(ロールアウト)の悔しさと、基本構造は開発当初、暗中模索の末に決定した構造様式。  反面、 同機の同様な構造形態の帰結に喜びと誇りを胸に秘め、  内心正解に行き着いたかの如く感懐を憶えたもの後年ワシントンDC「スミソニアン博物館」で同機を見学し改めて同様構造を確認。
th_IMG_2293  
 以前から「バート・ル-タン」氏は、上記写真「BD-5」軽飛行機(アルミ製)の斬新さに私が憧れの天才設計者。 同氏の奇抜とも思える発想と実行力は、エドワーズ空軍基地での「テスト・パイロット」経験からなのか、時代をも超越しており今尚、民間宇宙飛行「スペースシップワン」機で宇宙弾道飛行を実現、目が離せない存在。
左記写真  「スペースシップワン」(A.C.M.製)機
 試験飛行を前に長々と記したが、余りのタイミングで刻々世界一周中の記事は
正直、内心複雑で心穏やかではなかった。 開発依頼の「コマツ」社への気遣いもあり、ここで世間様に叫ぶ訳にも行かない。 
 
 小倉空港での走行テスト
 10月某日早朝の為、前夜から機体組立や各部作動試験と最終重量計測、運搬の為2トンロングのレンタカーに搭載等々、出発準備に追われほぼ徹夜作業。深夜小倉空港に向かい、空港の門前にて開門を待って搬入。 組立は3名で30分程度で済ませる様にしているが、 同好の仲間も増え10数名が加勢の賑わい。
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   右側グリーンジャンパー後姿がテストパイロットの川島教官(JAL機長の指導教官)本機試乗の為、北海道まで行き、飛行免許を取得される。JAL機長の教官を指導した指導者も大変だったろうと他人事乍ら、同情。 左隣は今回指揮をお願いした山口ノリさん、人力機テスト飛行の際も同様に総指揮官としてテストを主導
 
晩秋朝まだ明けず暗がりの中、格納庫前の駐機スペースでの組立も大勢加勢の中スムーズ進み、やがてエンジン始動、早朝静寂な空港に心強い音が響き渡る。 仲間の太田君の手により調整運転が為され、パイロットの川島教官と各部点検と確認が為される。 やがて搭乗し暫く慣らし運転と操縦桿を操作し各動翼の作動を確認後、現場指揮の山口さんと相互に無線で合図が交され、万事整った様子が伺える。
 
 エンジン始動前より我々は格納庫前で事の成り行きを見守るのみ、許された時間は午前7時迄。 そして機はゆっくりと動き始めるタキシングであった、私含め自走の姿は始めて目にし最早手元から離れ生命が宿ったかの如く滑走路に向っている。 
 最早総指揮の山口ノリさんとパイロツトの無線交信が頼り、しかし指揮者は滑走路脇まで出向いており私達はただ呆然と遠望するのみ動静に息を殺して眺めていた。その後、機は滑走路を舐める様に往復し路面の確認をしていた中、突然動きを止め滑走路中央でエンジン停止!  何事かその時は全く知る由も無く、指揮者からの合図で数人機体に向かい、パイロツトも降りしかる後機体を押しながら戻って来る。
 
 方向舵を操作するフットバー(ペダル)が折れ曲り操作不能となった様である、アルミアングル(L型:6061材)材の脆弱性が原因、片側が見事に折れ曲っていた。同士の天本、山本、太田君達の責任では無いが、しょげ返っている姿に心が痛む。
 
 その頃は既に空港関係者(整備士)連中も出勤し遠巻きに眺め何やらヒソヒソと審判に及んでおり、当時者の私は穴の中に入りたい程恐縮と萎縮に倒れそうになる。指揮者の山口さんは出入りの知己も多く、格好の付かない事態に不信感は理解するが、 黙々と撤収に励んでる中、同行の仲間である筈の数人は遠巻の連中に混ざり批判に及んでるのには参った。 云わば手の平返しの如くに第三者を装ってる。又々「サーフェス高速艇」の時、S造船所社長、専務の人品を思い出してしまった。
  
 何事も成功の裏には、その数十倍の失敗が付き物で有り、私には手続きのひとつ位いと思うが、 何しろ今回は晴れ舞台での失態、しかも大勢の加勢者とパイロットは東京から駆けつけて頂いており、恥かしい以上に猛省は次回テストまで続く。
 
            
    目標重量、主翼(左右両翼)38kg、 補助翼(エルロン)3kg、胴体15kg、水平尾翼5kg、方向舵1kg、 エンジン・カウル1kg、 計63kg に対して如何に達成するかが技術、予め各パーツは成型試験を済ませ各成型品の重量は確認されていた。
 
 主翼
主翼外板、ペーパーハニカム・コアをケブラー(繊維)プリプレグで両面サンドイッチ・パネル外皮。 翼断面30%位置スパン方向にカーボン・UDプリプレク(60㍉幅)2~3枚両面に埋込み、その幅でハニカムにはバルーンパテ充填、強度フランジを構成。主翼上面外板だけでは片手で持てる僅か5kgチョイ!  リブは翼両端と中間に一枚計3枚、コア材としてディビニセル(輸入発泡材)10㍉厚をケブラー・プリプレグでサンドイッチ、軽目孔で肉抜きを図る。主桁、ネオランバー(10㍉)にケブラー・フリプレグで両面サンドイッチ。 翼付根と支柱金具附近には相応に数枚更にオーバーレイを施す。補助桁、ディビニセル(6㍉)にケブラー・フリプレグで両面サンドイッチ。
 
 補助翼・水平尾翼
主翼と違い桁はディビニセル6㍉厚にケブラー・フリプレグで両面サンドイッチ。ペーパーハニカム・コアをケブラー(繊維)プリプレグで両面でサンドイッチ外皮、 但し前縁は整形としてケブラー単板。
 
 胴 体
基本CF・UDプリプレグ三層の単版外皮構造、 厚さ0.4㍉。 垂直尾翼含め片側重量3kg程度!  エンジン隔壁・操舵席後部と床面はディビニセル10㍉にケブラー・プリプレグで両面サンドイッチ。 後部胴体中間のスパント、垂直尾翼主・補助桁にディビニセル(6㍉)にケブラー・プリプレグで両面サンドイッチ。
 
 方向舵 
外皮は桁はケブラー・プリプレグの単板、 桁はディビニセル6㍉にケブラー・プリプレグで両面サンドイッチ。
 
 首輪(ノーズギアー)主輪(メインギアー)
首・主輪タイヤ、ブレーキ共超軽量動力機用の品を購入。 首脚はクロモリ・バイプ加工、 主脚は最後の最後まで迷いに迷ったあげく結局25㍉のバネ丸鋼を使用。素材重量左右で12kgは、胴体重量に近く見かけとの相違は予想を遥かに超える。

 

 此れまで各部単体重量は手元資料無く記憶に頼るが、目標重量の70%程度に治まり軽くクリアーするものと軽く見ていた。 しかしそれら主翼上下面、胴体左右を合せ二次接着の段階で思いの外重量増となったのは計算外。
 
 結局最終的に 主翼片翼22kg、胴体(垂直尾翼含め)18kg、補助翼片側2.0kg、水平尾翼(蛇面含め)6kg、方向舵1.5kg 翼端カバー2枚1.5kg 計73kgだったが。 金具・金物はボルトナツト含め重量計測し装着。 試験飛行前日計量の結果75kgは差引きの機体重量。 塗装等目に見えぬ附加重量で機体構造重量となった。 全機重心位置も主翼弦の25%に位置しており、パイロツトと燃料の全備状態でも28%は最良の状態に仕上がった。 いわゆるノーズヘビィーで良かった、逆にテールヘビィーだとモーメントから相当量の重量を機首側に増やす必要が有る、思わず胸を叩く。それらは試験飛行前夜工場内で全機組立、体重計で車輪3点を夫々計り確認。
 
 主翼荷重試験
 前後するが主翼荷重試験となり、ペンレコーダー記録器(12点式)を「コマツ研究所」(大分・大野)より借用。 センサーチップは九大O助手のアドバイスのゲージを外板及び主桁のウエブに適宜張付け配線も束ねて記録器に接続。
 
   荷重は10kgの砂袋を60個(最大片翼570kgの負荷:N類)を用意、主翼には①水平飛行と、②急激引起し大仰角の際との2本(圧力・揚力中心)の線を引く。 想定荷重その線上に載せる(負荷)為。 荷重試験では何れ検査員となられる佐藤先生(久留米工大学長:滑空機検査官)に立会いをお願いした。 
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 荷重試験の要領は、負荷試験前予め静定状態でレベル計測、翼端含め前後縁6ケ所を計測点とし、負荷前後撓み量の測定を行う。 翼下面(実際は翼上面)をスパン方向にジャッキ3ケ所で支え、規定重量の砂袋を荷重分布に従って積上げる。
そして重量(数量)を確認後、ジャッキを徐々に緩めながら皆息を殺して翼の挙動を注視、緊張の時。 やがてジャッキから離れ翼には荷重がモロに負荷状態、多少クリープ変形も想定、静止した時点で撓み測定。 しかる後、砂袋を取除き静定後再度撓み量の測定、ペンレコーダーの記録も確認して初めて一度の試験が終了する。 
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 荷重試験は①から序々に増やしセンサー計測・記録と撓み量を都度実測。 やがて②では捻りが発生する荷重分布となり、且つ過荷重を負荷するが残留変形も無く無事終了。 佐藤先生より破壊試験を奨められるが荷重不足で当日は不可能だった。私も破壊試験は、破壊の想定箇所と破壊モード(挙動)は、今回使用材料(A.C.M.製)と構造の適否・特性を知る上では最大関心事、流石佐藤先生のアドバイスに感謝。
 
 余談乍ら、最後に翼端リブの軽目孔から主翼内部を覗いて頂いた、主翼内部は本来のリブが無く空洞の構造を見て驚かれ「もう私らの時代じゃ~ぁござっせん」と半ばあきられ、最大の賛辞を頂く。 それまでの苦労が報われた時でもあった。
もう一名、故「前田建一」師にも見て頂きたかった、天本君も思いは同様。
 
 破壊試験
 破壊試験に砂袋60袋を追加、計1.2トン!  最早想像付かない破壊重量の準備。荷重は荷重試験に際し予め飛行の状況で段階的に重量のテーブルを作成済み。水平飛行から急降下引起し状態を超えても、目立つダメージや変形も見られない。
愈々片翼1.2トン全て負荷し暫く時間を置き模様眺めしていた、その時小さくポキッと音がし数秒(4~5?)後ボキッーと大きな破壊音と共に砂袋がドサッと崩れ落ちた。宙返り飛行をも行える強度に、強すぎたと思うが反面安心材料は心強く。
 
 予め2台のビデオカメラで一部始終撮影は行われており、一台は破壊想定の支柱附近に向けられ撮影。 何度も繰り返し再生の結果、初動は主翼上面のバックリング(翼上面外板ハニカムパネルの座屈)からウエブの破壊へと続いた事が判明。
 
 ここで所定強度を超える事は構造屋としてオーバースペック(過剰)、つまり失敗作! しかし主翼桁のフランジ材UDカーボンは僅かに0.4㍉程度、最早これ以上軽量化は作業上や取扱いからも困難、最善は尽くした積もりだがA.C.M素材の為せるワザ。破壊モードも計算上予定通りの順序で、心配な爆発破壊で無かったのが嬉しい。
 
 荷重・破壊試験共に早朝より10kgの砂袋の上げ下げに終始。 それらは天本、山本、太田君と私4人での作業。 荷重試験は予定回数8回で決めておりまだ良かったが、 破壊試験は何時破壊するやも知れず、早朝より終わったのは延々午後11時頃、持ち堪えた主翼以上に我々が壊れるかの如く疲れ果ててしまった。 各自数百キロ以上を上げ下げした事になる。 
 
 一方、プロペラは西島材木店社長の手で木製、積層桜材で製作して頂く。 翼断面は通常のクラークYで直径1.2m、ピッチ比は50~55km/h附近の設定ではなかったか記憶定かでない、試運転静止スラスト計測の段階で都合2本目で決定。西島社長は以前から好事家相手に日頃からプロペラ製作の貴重な匠。
 
 小松ゼノアは「K.T.」社から話を頂いた折り、米国でスノーモービル用として実績が有り、切っ掛けの一つ。 水平対向2気筒500cc2サイクルで設計者のYさん直々の協力で、機体に取付け試運転は車に詳しい太田君と延べ数十時間に及ぶテストを繰返していた。 尤も猛烈な騒音にご近所から苦情が来て福岡造船所の鉄工所にも協力頂く。 機全体に気流糸を貼付け運転、胴体に巻きつく様な流れは静止状態のゆえか明らかに渦巻いており、トリムタブの必要を予感させてくれる。
 

 試験飛行は福大航空部OB山口ノリさん(人力飛行機に次ぎ飛行試験総指揮)の尽力により10月(S61、1986)北九州・小倉(曽根)空港にて実施が決定。 しかし早朝5時から開港前午前7時までの2時間が許可される。テストパイロットは恐れ多くも、以前「日本学生航空連盟」(通称:学連)で操縦教官、現JALシミュレーター教官(当時)の川島氏である、ジェット旅客機・機長教官にも拘らず北海道の教習所に通い免許を取得して頂いた。

 
 教官とは以前、学連(全国学生航空連盟)の会合(小倉合宿所・懇親会)の際、前田師に師事の私に「国産機」を頑張って下さいよと、 声をかけて頂いていた仲、奇しくもの機会となった。                    
 
  次回  ※⑧-4 試験飛行 小倉空港での挫折
      バート・ルータンの「ボイジャー機」
                目    次

 

 2日間、構造決定の順序を思い返している内に呆然と過ごして仕舞った。

まず機体の軽荷重量115kgが重くのしかかる、当初より歴然としているが成型の
型枠を目の前にすると荷が重く最早時間との戦い、 躊躇する事は許されない。
 
 エンジン重量28kg(カタログ)の予定が、届いた現物は減速機構・排気管やコンデンサー、エンジンベッド等金具含め40kg超!  予定の重量重心から急遽機首(エンジンナセル)部分のデザイン変更と型枠新規製作に追われる。 他に脚、操縦系統とケーブル30kg、計器類等々金物重量5kgとなり、115(軽荷)-75(機関・金物)=40kg(差引き許された機体構造重量)。 展示のハリボテならいざ知らず、安全性は不可能。
 
 機体重量40kgは途方も無く本来なら「万事休す」の状態、 尚且つ国内開発機は航空局から耐空性審査要領「N類」を指示されている。 例えば「操縦ケーブル3㎜」以上を規定、それに従い端部金物類は全てサイズアップし4~5倍の重量負担となる。 航空機にはフェールセーフ(操作ミスや故障によって生じる被害を最小限に抑えること)の発想が有り棄損・破壊を前提としてその順位付けをする、従って倍々ゲームの様に増えてゆく。 しかし輸入機は僅か1㎜でハンディはこの際、実際ワイヤーの抗張力は充分満たしており本機の重量増加は想像以上に堪える。 無論、機体強度荷重倍数も主翼・胴体含め構造強度「N類」適用が基本。 輸入同等機からは相当なハンディ。
 
 「N類」とは、軽飛行機のセスナ機やパイパー機と同等の安全性を課されている。                 
国内開発も危ぶまれる航空当局の対応に腹も立つが、既に本省より「大阪航空局」に申し渡されており検討の余地無く。 常に米国追従姿勢、育成等は眼中に無い。    
 
 「K.T.社」、「コマツ」世界出先機関を通じ、カナダ、オーストラリア外、他国は安全性を考慮し145kgに移行したとの情報。 又「P.L.」(製造物責任)も米国含め搭乗者自ら「危険への接近」として問題無いとの事が判明「コマツ」含め我々心配も払拭する。
 
 構造詳細検討の段階で割切り、目標145kgとする。 苦汁の判断と変化に期待。
それでも許された機体重量は僅か70kg! 人間一人に満たないが倍近い許容重量。

 

 構造材料として「日東紡」からガラス繊維・プリプレグ、「東レ」よりカーボン・UDプリプレグ、「カネボウ」よりケブラー(アラミド繊維・クロス)プリプレグをサンプルの提供を受け、テスト成型や試験片テストは行っていた。 
 ※プリプレグ(Prepreg)とは
ガラスクロス炭素繊維のような繊維状補強材に、硬化剤、着剤材などの添加物を混合したエポキシなどの熱硬化性樹脂を均等に含浸させ、加熱または乾燥して半硬化状態にした強化プラスチック成形材料。このプリプレグを手加工などで積層して形状をつくる。
 
 CF「プリプリグ」は離型紙から剥し手にするとティッシュペーパー程度の厚さ(0.1~0.15㎜)樹脂を含浸、シットリしているがペラペラでグニャグニャの素材、果たして此れが高強度・高剛性の代物? 思わず不安が過ぎる程の心細さを憶える。 
UDプリプレグは一方向のみ細糸を横シート状に並べた物で、互いに角度を変え張合わす必要がある。  
 
 ケブラークロス「プリプレグ」はカネボウ社からテストサンプルを頂いたが含浸の樹脂が乾式で比較的取扱いが楽に思えた。 結局主翼のハニカムコアサンドイッチとの馴染み性と素材の持つ破壊特性から組合せることで主翼外皮に採用しセミモノコック構造(準応力外皮構造(おうりょくがいひこうぞう))と決定。
 
 木製機の場合、主翼リブ(小骨)作りを最初に手懸けるのだが、生産性と軽量化を考慮し、リブ無し構造を目指す。 一度コスト減から「ガラス繊維」プリプレグで主翼片面と胴体を成型試作していたが、成型温度160℃は型枠の劣化と下記成型で形状剛性が不足で中止。 UD炭素材・ケブラー繊維共にエポキシ樹脂(130℃)、強度安定性と加工効率から、この2種に絞り材料を決定。
 
 「ガラス繊維」プリプレグは主翼外板(皮)にいたってはフニヤフニャ、とても強度を託する訳に行かない。 パネル(面)剛性を高める為「ハニカム・コア」(蜂の巣形)を利用したサンドイッチ構造に決定。 本来「アラミド繊維」製ハニカムだが予算・納期共叶わず、ペーパーハニカム(クラフト紙)を特注(コアサイズ・厚さ)して使用、加工温度環境での耐性は未知数。 
 
 主桁のウエブ材は「CFプリプレグ」で波板(サインカーブ)を企図して試作したものの、型に上手く添わず数度の失敗。 セキスイの建材「ネオランバー」をコア材にして「ガラス繊維」ブリプレグで両面サンドイッチにし補強、剪断力を負担。
ここで主翼はキャンチレバー(片持翼)で計画していたが、補強重量と勘案の末悔しいが支柱を設ける事にする。 デザイン面と構造屋として恥かしい決定(泣)!
 
 結果、主翼(左右両翼)38kg 補助翼(エルロン)3kg 胴体15kg  水平尾翼5kg 方向舵1kg エンジン・カウル 1kg 計63kgと目標を定める、当然相当サイズの成型品を計量の結果導いた重量、可能性を秘めての目標重量であった。 以後計量は全てg(グラム)単位で取扱い慎重を期す事とし、重量監理の徹底を計る。
 
 
 A.C.M.(先進複合材料)成型は、①オートクレーブ(加圧・加熱用圧力容器)で成型される。 今回諸般の事情(?自前が当然)で②オーブン成型とし130℃は経験済み。
 
違いは、①炉内を窒素ガス封入し圧力(4~30kg)を加える装置で成型精度は高い。 ②オーブン(炉)は圧力は大気圧のみ、即ちバキュームポンプ(真空ポンプ)吸引のみ 試験片テストでメーカー数値(①で成型)とは問題となる程の差は認められない。
 
それ以上に素材の持つ絶対値が格段に優れており問題は見られなかった。
 
 
 
 問題は温度管理と温度分布、まず過熱は熱風送風機2台を炉の両端、対極に配置し吹き込み、掻き混ぜる様に強制循環させ温度分布の均一化を図る。 
 
温度管理は炉内にガラス温度計を適宜(3~4ケ)吊下げ、覗き窓から目視監理。
 
当該成型品には温度センサーのチップを数箇所埋込み、ディジタル温度計で計測。 それらを全て稼動実験し炉としての性能と昇温勾配から余剰熱量を確認、熱効率共に把握。
 
成型用オーブン使用可能の是非は現プロジェクト成否に係る課題、重大事だった。
 
 
 
 炉は試験炉と同様な構造・構成で製作済、胴体・主翼の成型枠共多少ゆとりを持たせたサイズで製作。 大きさは1.8m(奥行)×9.4m(間口・開閉式)×0.9m(高さ)で製作し試験成型で主翼・胴体共製作を行っていたが、 簡易プレハブ小屋は最早手狭となり、ビル屋上での作業は、段取りで治具などの移動にも時間が取られ現場作業の天本君達には一々片付けや入替え等雑用に追われていた。
 
 
 丁度ビル持ち主の漁業会社所有の空地が港内を回った対岸に有り借用約400坪の広場、両隣も工場で広々した敷地は何事にも代え難く有り難かった。
 
同じプレハブ建築乍ら4間×10間(7m×18m)へと移設、本格的製作体制が整う。
 
  
 屋上での成型試験を始めた頃より、戦前「前田航研」で設計係長だった山本さん、
FRP成型で音響スピーカーを個人製作していた太田君が参加し貴重な戦力となる。
天本君と我々社員中心で行っていたが、私が設計で専任するには両人が不可欠な存在。 山本さんは木工・金工共に任せられ、木製冶具作りやエンジンまわりや操縦系統一式に結合の金具などほぼ内製で済ますことが出来た。 一方太田君はFRP成型技術以上に若さと発想や想像力逞しく、 尚且つ行動力は天本君の片腕として無二の存在。 共に完成の最後まで、この3人の手になるものであった。
尤もご近所に西島材木屋の主人も木工作業は夜間駆けつけ応援を頂く。
 
 新工場は此れまでの2倍強だがオーブンスペースを除くと実質、空きスペースは
2.6倍に拡がる。 成型用メス型は左右主翼の上下4枚、 補助翼左右上下4枚、胴体(垂直尾翼含む)は左右2枚、水平尾翼上下2枚、方向舵左右2枚、エンジンカウル上下2個 計16枚(個)の成型用メス型枠が有り、片付けの手間、加温・加圧の合間に次の段取りが可能となり、 愈々実機製作の体勢は整った。
 

    次回  ※⑧-3 機体製作着手 

              
 夢にまで想い描いた「飛行機開発」は「サーフェス高速艇」の成功で、思わず実現運びとなり念願が叶う事となったのは、私からすれば諮らずも「瓢箪から駒」。高校生以来、積水化学就職やドイツ遊学「福岡航研」を起業も全て「軽飛行機製作」実現の為。 片思いの様に常に想い、念仏の如く皆に語り続けて来た。
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上記、日刊工業新聞「人欄」(S59/11/29・1984) 掲載記事の最後に「いずれ空へ戻りたいですね」と呟いたのが、小松製作所子会社「K.T.社」副社長の目に止まり同社部長が会いたい旨、連絡が入ったのが発端。
 
折から「重厚長大」より「軽薄短小」へと時代が移り変わり行く時代。 同社に限らず大小各社、新規事業進出を目指し模索していた時代。 10指余り中央大手からも話を頂いていた。
           
 航空機開発に興味を示して頂いた「K.T.社」との話は具体的に進み、副社長・九大経済出身福岡の出。 戦後福岡の町を米軍がブルドーザーで片付ける姿に憧れ就職を決めたとの由。 浅黒く長身の熱血漢、板付の米軍機を見て夢でもあったと意気投合。 しかし相手は「コマツ」本社の決済事項、責任感に思わず緊張感もあり逡巡の気も有ったが、在籍の南海造船元工場長重々しく「折角のチャンス」と後押し。
 
 「金は出すが口は出さない」一切をお任せするとの言葉も夢が脹らみ「捲土重来」福岡航研設立以来実に13年。 漸く実現の運びとなり念願が叶った。
  
 最も開発に当たり、私共からすれば「天下のコマツ」から発信される「ウルトラ・ライト機」(超軽量動力機)に付き、それなりに本格的な機体開発で「世界市場」が視野。
 
 それまで私は斯様な時は「山籠もり」と称して、会社・家庭とも一切連絡を断ち数日何れかへ旅立ち旅館暮し。 24時間四六時中資料と思索に思いっ切り耽るのが解決の手段としていた。 この時は雲仙「富貴屋」部屋の眼下には地獄が広がり観光客の姿も見える、布団も敷放しで大き目の座卓2卓準備頂き脳内は完全に没頭。 
 
 世界各国、同等クラス機の仕様や主要目・数値を一覧表に纏め概略コンセプト、必要資料蒐集・作業項目やその具体的内容等々、今後本プロジェクト進捗を図る上であらゆる要素を盛込んだ「フローチャート」を作成し第一段階を終える。
 
 順次集められる参考資料や開発工程の部分的な要領等ランダムに集められたそれら全て「フローチャート」に嵌め込み整理。 各々が作業の全体像を把握し適宜即応出来る体制とした。 同僚の天本君と二日間互いに会社を離れイメージ創りに美術館含め自由に思いを廻らし、各々二案を持ち寄り計4案の概略三面図を描く。
 
 一方同好、空の仲間10数人一席設け一夜意見を交した中、福大・航空部OBで操縦教官のT君、先般モーターグライダー(独シャイベ製)で不時着事故を起すが機体前部破壊で本人無事だったが、機首にエンジン・プロペラ装着の機で助かり是非牽引式をと推奨。 天本君と話し合い、私のデザイン案で進める事に決定する。 
   
 「K.T社.」の勧めも有り米国フロリダ・サンファン「ウルトラ・ライト機世界大会」にOさんと天本君が調査とビデオ取りにと資料収集に行く。 世界同等クラスのレベルや趨勢を調査と現状の把握。 ニューヨーク、ニューオーリンズ・ルイジアナでは本場のモダンジヤズをたのしんだらしい。 
 
  ここで28/1/18逝去された「故 堀内浩太郎」(元ヤマハ常務)氏の文を下記紹介。
 ※堀内浩太郎氏 記
 軽く作ることは当たり前のようですが、永年大勢の若い人を見ていて、余程のことがあって骨身にしみないことには軽く作ることの重大さがピンと来ないし、また実行できないという傾向を感じるのです。
 
 軽く作るためには、はじめに絵を描いた時に見込みを立て、さらに設計の全行程に亘って管理、調整に気を配り続ける執念が要ります。だから設計が終らないと重量計算ができないなどと言うようでは見込みがありません。設計が終ってから軽くできるものなどほとんど無いからです。  
 

 次に絵が描ける、と言うことですが、初めに絵とか計画図が無いことには、強度、性能、重量、総ての計算ができないのです。ところが、初めの絵が大過の無いものなら、順次直してものになりますが、外れていたら何時までたってもまとまるわけがありません。

 

 従って絵が描けると言うことは、強度、性能、構造等に関する理論や経験が血となり肉となって身体に蓄積されていて、その直感に支えられてバランスの取れた絵が一気に描けるとか、あるいは略算を交えてよく考えて何度も描き直した結果、身体の蓄積に照らしてこれはいける、と感じる絵に到達できる能力があるということで、その絵のレベルが事の成否を決めてしまう、と言って過言ではないと思います。
「軽く作る」ためにも、「夢を絵に描ける」ようになるにも、一番役立つのは自分で考えたものを夢中になって自分で設計し、作って見ることだと思います。
 
 木村記 本ブログ書込中この文章を見出す、 毎度「ボートショー会場」に訪ね来られ色々話に及んだが、 氏のより胸の内が垣間見え、思わずヒザを叩く。私自身 過去「軽飛行機」「人力飛行機」や「高速艇」では、何十回となく強度計算、重量見積りや性能計算に推敲の数々。 やがて収束に及ぶが、 私の拙さよるものと諦めルーチンワーク宜しく懲りずに繰返しの作業。 尤も質・程度の差は有れ、堀内氏自身同様な経験をされていたとは先述の如く、 恐れながら戦友の思い益々を憶える。   
   左下写真は試作・開発機 α-1       下写真4枚(機)は当時輸入の主力機
  写真でお判りの様に、同等クラス機とは一味違う(手前味噌ご勘弁下さい)。 「ウルトラ・ライト機」以降を見据えたコンセプトの元に開発実施した意欲作。 重量・着陸速度等は同等、操縦性能は「セスナ機」の感覚(パイロット談)で明らかな違い。
        現在(2017.7.14)の「ウルトラ・ライト機」最新版を追記しときますが・・・
      我々の機体は30数年前(1985)であり当時世界的にも意欲作でありました。
     
 超軽量動力飛行機「ウルトラ・ライト機」の定義とは(現在マイクロライト機と呼称)
 機体自重: 115kg以下(その後145kgに緩和)  着陸最小速度: 45km/h以下 燃料: 3ガロン(約11㍑)  飛行制限等は其れなりに規制は有ったが、 機体設計上、基本その三点が全てで有り必要かつ十分な条件。 但し 機体重量は米国・日本を除き、 オーストラリア・カナダ等他は145kgに緩和。 当時、航空局問合せ確認「耐空性審査要領」N級(セスナ機クラス)で対応との事。 (国内規則無く、米国規則同等が基本。 後年「日本航空協会」所掌、規則整備。)    
 
 概略 重量推算と性能計算から下記主要項目を決定。 
 主 要 目
 主  翼  幅 : 12.4m    翼弦(付根:1.20m  翼端: 1.00m) 
 翼面積 : 13.8㎡      主翼捻下げ α 2.5度
 全   長 :  6.2m    アスペクト比 : 11.14 
 全   高 :  2.1m    翼面荷重 : 17.02kg/㎡
 自   重 : 145kg     着陸速度 : 44km/h
 全備重量 : 235kg    最大速度 : 102km/h
  エンジン(コマツゼノア)   : 38ps(500cc水平対向 2サイクル)
  (※ 入手のエンジンはカタログ重量と大きく異なり、重量重心の計算結果デザイン上機首が寸詰まりとなり、 一部批判も受けてしまった。)
 
 以上は計画であったが、完成時後も予定重量・性能等、幸いにも想定内だった。しかし そこに至るには材料、構造、空気力学性能を全て満足させるべき努力と苦労を伴ったが、 その過程を少し詳しく当時を思い出し乍ら書連ねて見たい。
 
 ① 主翼翼型の選定と確認の作業
 機の性能や性格を左右し、通常米国のNACA(現NASA)シリーズから選択するのが常道だが常道だが、航空宇宙学会誌(私も会員)で流体力学権威の東大・佐藤淳造教授(後:航空宇宙学会・会長:JR尼崎事故調査委員長)研究発表の翼型CL係数1.6に注目し東大に訪ね論文利用の了解と一部微調整し理論解明をお願いする。
 
 約一ヶ月位い後に最終の翼型オフセットが届けられ早速風洞模型製作を行うと共に、「ナカシマプロペラ」K係長にスパコンで空力上の特性・性能計算をお願いし、風洞試験結果と両面から確認を予定。
 
 ② 風洞試験
 今回私が拘りのT尾翼はパイロット連中の不満渦巻く中、押通すが引起し時主翼の洗流による縦安定性に不安があり、佐藤教授(久留米工大学長:当時)に紹介をお願いして九大航空科・林教授(佐藤学長教え子・流体)を紹介頂きゲッチンゲン型風洞 口径2mを使用させて頂く事が出来た。 戦前からの手動・天秤式でマイナス仰角から失速を4度超えるまで2度刻みで実験、都合4日間実施。 気流糸での可視的試験をしたが糸の乱れと失速角度が2度程ズレている面白い現象も見られ、全機抗力と空力性能はほぼ予定の数値データを取得。 縦・横安定性とも極めて良好を確認。従って機体デザイン等々の仕様が決定される。
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九大・航空科ゲッチンゲン(2m)風洞での模型試験(左)   
測定箇所から階上の天秤操作へ指示伝達の様子。
 写真は一通り計測後、気流糸(きりゅうし)で流れの観察(可視化)、 翼端の糸が翼端渦(誘導抗力 : 全機抗力の70%近くをしめる場合も)で乱れている現象、最近の旅客機等翼端のウイングレットはその対応策。 現在も試行錯誤の形状が種々伺え変化する様(形状)は技術的に興味深い。
 
 しかし本機は大衆の航空フアンが対象、空力・滑空性能共に満たしてはいるものの、失速特性に難が見られ、スパコンでの解析結果も同様な結果となっている。 熟慮の結果普通のNACA翼型を採用に苦汁の決定。 再度東大・佐藤教授に伺い、風洞試験結果とスパコンデータ解析資料を提示。 今回断念の件感謝とお詫びをしたが、先生には折角煩わしながらの決定は苦しかった。
 本機完成数年後、教授から新たなる新理論による共同研究の話を頂き「調布・航空技術研究所(現 JAXA)」大型風洞を利用して、私設計の複座モーターグライダーの風洞試験を8日間実施。 さすがに最新設備はリアルタイムで計測結果を出力、1ケースは僅か10数分で終え、 その他数種類のフィレットを粘土で成形しオイルによる可視(目視)やヨー角±3度を含めあらゆる実験をさせて頂いた。 その壮大な実験設備はSTOL実験機「飛鳥(アスカ)」の開発に建設された施設で、東大博士課程の学生達や所員の加勢も、 皆さん飛鳥以来の全機試験だと喜ばれたのも懐かしい。   
 
 ③ 構造材料   
 ドイツ帰国以来、グライダーの機体構造材は木製からFRP製が主流となっていた。目標はドイツ相手が常に意識の中、後発の遅れを取戻すのは不可能と判断。当然高速艇で培った「CFRP」(炭素繊維)技術の応用が当然なのだが、重量見積りの結果とても話しに成らない程の差に暗澹となる、再設計に及びかけない状況。  
 
 その様な時、以前から九大航空科大学院の学生が実習・バイトで出入りしていた内、同助手のOさん(助手と云えど学者の卵) からA.C.M,(先進複合材料)の提案を受ける。 釣竿やテニスラケットの素材であった、だが基本「航空宇宙材料」高価で有り、成型素材・技術も全く未知の分野に果たして本機採用可能か決定に迷う。九大含め学会レベルで応用技術解明に研究発表が盛んに為されていた時代。                
 
 CFRP素材の伝手で「東レ」よりサンプル提供を受け試作成型と試験片テストを実施。 成型温度130℃は、セキスイ時代延伸フイルムの再結晶温度と同温レベル。試験炉はベニアと断熱ガラス綿、石綿板で製作、熱源は石油バーナーを利用。 成型には、真空ポンプと耐熱ホースに離形剤、不織布、バギング・フイルム・シール剤を必要とし耐熱素材、それら全て航空用で輸入品。 予算や時間共に許されず「朝礼昼改」関東・関西の職業別電話帳で問合せとサンプル入手に翻弄される。 試験炉でテストを繰返す日々は数ヶ月に及び、副資材の手当てがノウハウとなる。
 
 試験片テストは九大航空科のインストロン万能試験機を借用し数値データを得る。最早コストの問題は将来大量生産に期待、値下がる筈とタカを括る他なかった。
 
 ④ 成形用木型・型枠(メス型)製作
 既に事務所借用のビル屋上にプレハブ(3間×6間)で試作工場を設置、木型製作に入っている。 幸い同好の仲間も集い、木工工作は達者な面々に主翼や胴体の実物大木型は半年程度要したが完成。 胴体のパテ仕上げや磨きはゼロ戦修復(後述)の際、協力頂いた板金塗装のプロが毎夜来て立派に仕上げてくれ完成。
 
 予て壱岐・丸茂造船所でFRPメス型製作協力をお願いしており、クレーン車手配し屋上より吊り降ろすが胴体はまるで空中に浮んだ姿に思えた。 造船所多忙にも係らず主翼・胴体・水平尾翼のメス合せ型が完成。 往復2トンロング・レンタカーでフェリー移送。 愈々本格成型に及ぶが主要構造及び細部とも詳細は未定の状態。
 
           目 次  
 「ボートショー」では様々な出会いも楽しみの一つ、 東京在住の友人・知人はもとより造船・業界関係者等々。 先述の丹羽誠一氏しかり、三菱のブースでは私の姿を見つけ東京本社に転勤・勤務のTさん相川社長を紹介するからと社員数人を四方に飛ばされたが結局帰社され行違い。 相川社長は私が長崎時代「三菱長崎造船所・所長」長崎の超名士「雲上人」! 造船部門から重工社長は珍しく(?)サーフェスの一件では重役より伝え聞き半額負担の決定頂いたご本人、お礼の機会を失する。
 
 高校生時代「軽飛行機製作」で共に苦労した友、ANA勤務の篠原君毎回来てくれ時に息子さん連れ、旧交を温め近況を語り合う場に、羽田新整備場建設の苦労や整備の現場案内頂きデカイ機体を目の前に感激したのも出展の賜物。
 
 以前 G造船所(三重)で設計陣にレクチャーのG社長も礼を兼ね来場、折り良く他社社長外6~7名の場、簡単に3トンの減量方法と対策に指導頂いたと紹介され少々照れもしたが、実際私の手法は造船界では当時(H3 1991)特異な存在だった。
 
 ヤマハは晴海会場の入口「東館」全館が展示場、ボートショーの「華」でもあった。 ヤマハマリン事業部の総帥とも云うべき「堀内浩太郎」常務、ヤマハのヨット・ボートは全て手懸けているといっても過言ではない。氏著「あるボートデザイナーの軌跡」では数々のデッサン含め手懸けたスケッチや写真・多種の艇に見惚れていた
 
 Sボートデザイナーから噂を聞き、私共の小さな「小間・B館」へお一人気さくに来られたのが初対面。 無論「サーフェス」に興味と不肖私への歓心、氏は東大航空科出身、後ち紹介予定「軽飛行機」に格別の興味を示され毎回楽しみに当方小間へ。 
ヤマハ勤務以前、岡村製作所で日大/岡村N52型軽飛行機設計・製作に中心的役割を果たされるも、N52は承知していたが堀内氏当事者とはご本人からで、初耳。    
互いに海上を活躍の場としているが、空への憧れは世代は違えど共通の夢。
 
 実はヤマハも「軽飛行機」開発を目指していたが事情で断念、農業用ラジコン・ヘリコプターに切替えた経緯が有り高速艇と共に話が互い通じ合う、脇のビデオモニターに流される「高速艇」や「軽飛行機」を横目に気脈通じた戦友かの如く過去苦労話と共に技術論を交して戴いたのも懐かしい。
他聞乍ら、私のフアンを広言(?)ご本人には恐れ多く未確認、信憑性定かで無い。
図22 ARV
5.9mL x 6.86mB x 500kg、AR=8.0、
90馬力、L/Dmax=22.7、最高速度328km/h、
巡航速度300km/h(75% Power)、失速速度99km/h、
航続距離4,800km(1人、170km/h)、1993年終焉
 
 セキスイ時代寮で同室の須藤さん(オリンピツク・ボート監督)には東大・ボート部大先輩。 連絡の労を頂きドイツ出発の横浜出港時見送り以来、26年振り再会叶う。
須藤さんとはドイツ語勉強の姿に触発され、英語やフランス語も図書室のTVで朝夕共に視聴し励む。バスケット部に強制勧誘、休日には沓掛先輩と近くをハイキング。
寡黙だったがエリート感素振りも見せず、数年後退職しカナダへ行かれたご仁。
以後又々互いの連絡先を失し昨年の年賀状で氏に再度お願いをしていた所。
 ここでつい先日、1月18日堀内氏の逝去を知る、 氏の律儀さは25年間欠かさず賀状の交換で近況を伝え合った仲(恐縮)。 昨年の賀状には入院の旨を書いておられたが写真はスカルを元気に漕いでる姿。 本年珍しく届かず心配は・・・、尊敬の念と共通項多く精神的支柱を失うも同然。     
                                               合掌
 
 会場小間の受付には名刺箱を用意、受付嬢(容姿端麗の美女?)が名刺と交換に
用意のカタログを配布。 出展は設計事務所にも係らず「建造・販売」を周知して
頂くと共に、新規顧客開拓が目的。 機関や電装機器メーカーの営業網も各地情報は貴重、客先の紹介は濃淡有れども多岐に渡り全国を回る機会を得る事になる。
 
 福岡航研は「高速性能」が売りだが、詳細打合せによる設計で顧客の目的に沿った船舶の計画建造・販売を目指し営業活動をして行く。 以下に紹介の艇を。 
     以下 高速艇、船体構造は全て「CFRP:炭素繊維」製
イメージ 1 海上タクシー 
 「サーフェス高速艇」タイタン型
 船主は漁船改造型(下記詳述)に次ぐ2隻目、主機関はコマツ製(代理店) 
兵庫・家島~姫路間就航 
L: 15.65m  B:4.00m D:2.00m
    350s×2基(ディーゼル)
 試運転最大速度 45kt(83.3km/h)
 
  写真アップでみると判別出来るが船底ストライプ(横スジ)が見える。 断面で水圧の局部リフト(揚力)を高め水切りと船体を浮揚、抵抗力を減じる効果を狙っている。

通常艇より幅は大きめ、パンティング(衝撃)圧力を分散しショックを和らげ乗り心地を良くすると共にブレーキングを防ぎ特に高速走行では有効で性能の違いが出る。

船首プロフィール(側面デザイン)は「日本刀の切っ先」形状を最良とし決定。
 
 実は鹿児島向け、サーフェス「モジャコ漁船」を建造・販売。 残念ながら積載の重量負担に耐えられずハンプ超えに失敗キャンセルの憂目。 その漁船を買取り頂き船室を独力で「海上タクシー」に改造。 速力と走りが魅力で島内外の評判を呼び、新たに新規設計・建造した意欲作。 漁船改造艇と共に瀬戸内海で目立つ存在に。 
イメージ 7  海上タクシー
「サーフェス高速艇」タイタン型  
同上の姉妹船、家島諸島「坊勢島」船主ご高齢で新船建造に逡巡されていたが、同業船活躍の姿に魅せられ建造される。  回航はほぼ私自身が操船するが免許資格は4級(5トン未満)よって常に有資格者(1級)に同乗を願っていた。
 応援の二人交替しながら壱岐・丸茂造船所から順調に航海したが折から東の中風から次第に強風になる。 小豆島を過ぎ播磨灘に差掛った途端複雑な大波に見舞われ、木の葉の様に艇が翻弄される事態。 造船所(四男)機関部長常日頃強気ながら色を失い何んちゃならん、とお手上げに操舵を交替。
 
  この様な場合は操船不能に陥る恐れがあり危険な状態。 日頃ヨットで洋上、 突然変化する斯様な海象は経験済み、「当て舵」のワザが役に立つ。 度重なるブローチングの中無事送り届ける事が出来たが、 船主・関係者目前の波浪に揉まれる本船を島から遠望の中操船の技を披露。 しかし瀬戸内海の静穏な海域が一変。 複雑な海底の地形や海流・風により三角波に近い。 斯くも豹変するを体験「瀬戸内海」も又油断出来ぬ海域。 しかし艇の信頼度は磐石を実感の航海でもあった。 
 
イメージ 3
 
 写真上「サーフェス高速艇」タイタン型  小豆島の海砂浚渫業を営み、散在する浚渫作業船・現場を見回りと作業員の足として建造。社長ゴルフとカラオケを愛好。
訪ねた際、青木プロのクラブ製作の匠と同席数回、ゴルフ話にチンプンカンプン。
鮮やかなルースターテールは福岡航研「カタログ」の表紙を飾った一枚。
 
イメージ 2 「サーフェス超高速艇」
          バイキング型
 船主は大阪・船場の製薬会社
 L:13.60m B: 3.20m  D:1.58m    350s×2基(ディーゼル)
試運転最大速度 52kt(96.3km/h)  日本記録を更新!
 
 社長は同世代乍ら根っからのスピード狂!   同社には小豆島に別荘があり大阪・神戸からの足として「ヤマハ」に特注の高速レジャーボート(42kt?)を所有。 高松~大阪航路航行の「高速ジェットフォイル」(45kt:85km/h?)に負けるのが悔しく、船舶電話帳掲載の広告で連絡頂く。 同船を凌ぐ速度が保証なら一切任せるとの条件。   
 
 豊北町「取締艇」で50ktは経験済み、主機関のY社に工場試運転立会いと実測資料を基に再調整・再設計し壱岐「丸茂造船所」で着手・建造、結果52ktの記録更新。
丁度「ボートショー」開催中でビデオを流す、海面を這う様な滑走に注目を浴びる。
オーナー走行中の「高速ジェットフォイル」を周回していた
との情報は嬉しくもあるが、安全運行を願うばかり。      写真下は「ジェットホイル」
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 しかし斯様なお方が時として歴史を創るのでは無いかと
酒席でも豪放磊落な社長の姿と人柄が思い起こされる。
 
 「ダイビングボート」 マッシュ型イメージ 9
L: 18.00m  B:4.36m D:1.20m
   400s×2基(ディーゼル) CFRP
試運転最大速度 28kt(km51.9/h)
 建造当時はクラス最大級
 
                  

イメージ 4

   プレジャボート
             
 
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  遊漁船
 
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       遊漁船
 
             
  「サーフェス超高速艇」は色々と報道・解説記事に取上げられ以下はその一部。
 下記記事は 丹羽誠一氏が雑誌「舵」に載せられた詳細記事。
当初に電話の件が述べられているがヤワな対応では無く、サーフェスそれもディーゼル機関と言った途端、言下強烈に否定。 取り付く暇なしとはこの事、 皮肉にも逆に決断を促す結果となった。 成り行きから取材・試乗の申入れは断り一部資料提供のみに止めたが流石、かなりな詳述は以下記事の如く。 記事中アーネソン・ドライブ云々と述べられているが、 五島取締艇 走行時のトランサム(船尾)後部の定常的な後流にヒントを得ていた。    下記コピーは右クリックで拡大
 
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  東京晴海の「ボートショー」出展の際、 日本触媒の常務が挨拶に見え、是非紹介したいので、と強引に腕を引連れ行き先は「舟艇協会」のブース(氏より依頼されてた事が後日判明)。
小柄だが上品な紳士が立って待って居られた。 先の記事にも一部触れているが
因縁の事情は業界では静かに知られていた。 氏から詫びとご苦労だったねの一言で過去のモヤモヤは瞬時に雲散霧消、最も雲の上の存在で、氏の海軍係数は再々活用の世話に。
 
 氏「防衛庁技術研究所」のサーフェス技術は、三菱・下関造船所(高速艇)の金子技師長との協同研究だった事が判明。 その後金子先生(定年後:造船大学教授)は福岡航研に感心し押掛け顧問、 全国各地の講演では福岡航研顧問の名刺が通りが良かったとか。
 
 以下に英文記事コピーと翻訳(汗)を添えときます。
  「サーフェス・プロペラ」高速艇 記事左下 「日本貿易振興機構」(JETRO)海外向け紹介記事
福岡航研はナカシマプロペラと高沢製作所の協力を仰ぎ、サーフェス・プロペラ(半没水)で高速艇「はやて」を建造・完成。 速度35kt(約65km/h)以上可能としている。 同社はサーフェス・プロペラを採用しディーゼル機関で35kt超を記録、実用化に成功した。 従来のプロペラは高速時にキャビテーション現象が発生し、異常振動と破壊に到っていた。  同社はこれらの問題をサーフェス・プロペラ(半没水)で解決をはかる。しかし滑走までの推力の弱さに問題が有り使用を困難にしていた。福岡航研はCFRP(複合炭素繊維)の使用で船体の軽量化を図ると共に、船底前後に2ヶ所ステップを採用し対処。  結果 それら対策が功を奏しディーゼル機関に依る「サーフェス・プロペラ」システムの高速艇が実現したのである。  仕様 全長:11,95m、水線長:10,200m、幅:2.900m、喫水:0.490m  
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   右上紹介記事を訳 (出稿先 不明)  
   Fukoka Kohken はサーフェス・プロペラを採用したディーゼル機関高速艇を開発。速度は35ノット以上の高速走行が可能。 特徴は (1)船体に複合炭素繊維(CFRP)使用で軽量化
(2)船底形状は前後2ヶ所にステップを設け抵抗減少を図る。初の「サーフェス・プロペラ」推進高速艇は 全長11.95m、船幅2.9m、深さ1.48m、4サイクルデイーゼル機関230ps×2基搭載。
 
五島・小値賀上対馬「取締艇」完了後、密漁の船団は北上し、山口県の角島附近に進出。 
五島~対馬~山口と最早追いかけっこの如く、豊北町3漁協からの依頼「新沿岸構造改善事業」 山口県の理解もあり「設計・施工監理」は随意契約を条件。 一通り「仕様書」「設計書」を終え、建造の造船所選定の段階でS造船所社長から入札参加の申込。 事もあろうか筆で1m余り長々と巻紙での依頼状と入札参加の申込書。 
 
 福岡航研とは実績も有り仲良く?と縷々綿々書き綴られた書状を見せられ絶句!  当方生死を彷徨わされただけに言下に拒否、 事情を話し「施工監理」が困難の旨を組合長・理事の理解頂き実施。 地元山口の日本触媒傘下「西日本FRP造船所] 落札建造となる。 社長は以前「運搬船」から何度も挨拶に見えてたが、各社必死の競争入札の中、晴れてのご縁。 会社・技術陣の協力ヨロシク念願の50kt超の記録達成(後日、技術資料を業界紙に無断発表に抗議)
 
 NHK全国ニュースで一般にも知らされ、 問題?の「会計検査院」検査も無事通過。 
高速艇の実績は同時に独自技術の指数・係数と算式を生み磐石かに見えた。
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写真は壱岐・勝本での試走 
 平成元年(1989) あまがせ(山口県・豊北町)
時速50.2kt(92.9km/h)  日本記録達成
 念願の50kt超え! (最初の成功当時、新聞社が可能性を発表)
  ※海上マイル 1.852m  (陸上マイル 1.609m) 
 
 前後するが、最初の上対馬「取締艇」ではM社製主機関の重量・出力「カタログ・データ」実際との相違は、失敗の重要要因で裏付け本物資料乏しく(カタログ性能の嘘は全社共通)。
成功後「日経新聞」を初めマスコミ報道に失敗の経緯含め、三菱重工重役の知る所となり、侘びと共に自腹負担の半額提供を申出。 当時困窮のさ中、有難く戴くと共に詳細データと走行テスト・データ取得の協力を仰ぐ。対馬には当機関の設計責任者・課長スタッフ数名、前日より計測器設置しデータ取得のテスト計測走行を実施。
「サーフェス」 の理論効率が明らかとなる、 三菱重工流石の事後対応に感謝。               
 
 「ウオータージェット」推進 高速艇                                                                                              
 以後 密漁「取締艇」は福岡航研の指名参加は大手メーカーも控える始末、国の公共工事業乍ら「設計・施工監理」「建造」は独断場。 密漁被害の東北からも相次ぐ依頼。 しかし、当該監視海域はワカメ養殖の網が張り巡らされ、自信の「サーフェス・プロペラ」は活用不能に付き、やむ終えず「ウォータージェット」方式で実施。
 
 選定の「機種・メーカー」も限定され、船体・船型や速度域等々マッチング(適合)では困難を伴い、試運転後、私流の独自な解決手法で克服、その代表2例を記述。
 
 一例 「ナカシマプロペラ」(岡山)輸入販売の「イタリア・カストルディー」社製のシステム。
試運転の結果は機関出力余剰で有るにも拘らず所定速度に達せず、担当課長にメーカーと相談するべく求めるが、一向に反応無く事は国の公共事業で失敗は許されない。 最早イタリアのメーカーに出向き担当と技術的疑問点を問い掛け、解決策を諮る事を決意、 即 航空チケットを手配、香港・チューリッヒ経由の便を予約、即搭乗。
 
 朝普通出勤姿のままミラノ(零下5℃)行き。 香港経由ヒマラヤ山脈を越え夜間飛行は点々と街明かりが続く不思議、チューリッヒ乗継、アルプスの雪景色を眼下に翌早朝8時ミラノ空港到着。 迎えの車で「カストルディー」社に到着、会社・工場は大規模、課長の臆するのも理解出来たが、世界を商圏に生産活動のかなり大規模なメーカーだった。
 
 トンチ(氏名)副社長対応は当初極めて慇懃無礼な印象、イギリス紳士の暗い感じはイタリア気質とは聊か違う。胡散臭い扱いだったが懸命な説明と資料と共に技術的な問題点を指摘。
1~2時間経た頃、副社長ヒザを叩く位いに前のめりに通じて来る。 昼休みもトンチ氏自慢のレストランでワインとパスタをご馳走に、その間も会話は尽きず。(*英語圏外の英語は理解し易い)
 
 昼食後、工場を案内され開発部門や実験設備を詳しく見学をしながらの立ち話。                   
試験場脇の机で解決努力は続けられ、互いに納得出来るノズル口径等々問題
解決の対策を即講じるべく決定。 即、部品製作の指令が目の前で担当者に指示、艇は既に納期ギリギリとなり長崎・壱岐の造船所を出航、東北に向け航海中。 翌昼過ぎモスクワ上空経由懐かしいシベリアから北海道、東北を眼下に成田着。 東北上空通過の際、艇は女川附近を天本君同乗し航行中。 回航後1日遅れで部品が航空便で届き現地造船所で装着、試運転結果は大成功!  その間僅か6日間の出来事、何事もやってみなければ捗らずの好例。
過去の経験上、技術的な六感は行動(試行錯誤)実践がほぼ解決、逡巡が負の要因多く。
 
 二例 輸入品に懲り、開発間もない三菱重工製機種を選択、予て営業より売込みに熱心さには期待値も大きく、国産の出現を待望していた。 しかし取付け要領は手にするが詳細は現物装着を待って初めて目にする。 試運転は芳しくない結果となり、 この手の困難は最早想定範囲としか、 試運転後からが本番の覚悟も出来ていた。 
 
 直前、前以って東大・航空科佐藤教授紹介で同造船科K教授を訪ね「ジェット水流」渦流の基本と傾向を尋ねたが、今尚未知の領域である事を確認、従って私の判断が全てを確信する、 なぜなら当事者の自負が私をドライブしてくれた。
 
 一方三菱重工自慢の博士が試運転立会いと協力は有難いが所詮ポンプ屋さん。
懸命に計算を重ね首を傾げるばかり、強引に詳細図面の提供を迫り、改造図を作成、木型からアルミ鋳物で製作。 又同じく未解決の侭回航現地造船所で装着。
 
 要はインテイク(水の吸入口)形状が船体に負圧を生じ、サーフェス初期失敗と同質な問題と捉えその解決を諮った結果、見事に滑走をしてくれた。
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             写真は現地改造後の試運転水平に浮上、最良の走行トリムが実現。      
 所で博士の計算は、 基本Q=μ・A・v2乗  ポンプ式と思われるが、
          Q(流量) μ(効率)  A(ノズル口径=面積)     v(水流速度) 
 より煩雑な計算式を駆使されておられるも、Qとμの最大値を求められている風、
しかし今回より大切なのはv即ち水流の噴出速度を最大限必要は当然な事。
 
 佐藤教授に確認の理論上解明不能ながら流体力学的、 構造上からも当然解決図るべき機能・構造上の面で思う節多々あり。 国産ジェットを応援・協力をする積りで、 三菱重工社内で即断・即決可能な関係者のみ参集の条件で、三菱重工本社東京・丸の内本社で講義を約束する、 しかし当方提案も諸般の事情で中止とした。
後談、要員13名結集の予定だったとか、その後国産継続の情報無く途絶えたのか。
 
 東北の事業含め国の補助事業「会計検査」を伴い競争入札が当然の手続き。
しかし以前の「設計・施工監理」の予算での技術的リスク負担は経営上苦しい。
又、単なる「設計事務所」で随意契約・落札はほぼ前例が無いが押し通す事に。
 
  そこで 山口・豊北町以後、高速艇は国・県の事業含みも全て「商品」としての営業展開をはかり、壱岐「丸茂造船所」協力の元、私自身営業で全国へ飛び回る生活。
会計検査対象の事業での「随意契約」と「会計検査」は、公共事業では稀有な事。
イメージ 3「東京ボートショー」は
大小有名企業、最新の自信作を発表の場。 会場は多くのお客様に触れ会い、プロの情報収集にも晒され専門的な質問も浴びる、詰り本物を試されもする怖い所。     人力飛行機・福岡航研設立以来共に苦労仲間の天本君(左)と晴れて表舞台へ登場の時でもあった。
 
 そこで(有)福岡航研の商品(高速艇)展開を行う上で営業活動を画策、東京・晴海の「ボートショー」出展を行い全国に紹介と共に、水産省担当部局にも招待状を送付。
問題解決にイタリア行きや独自改造も、予算の裏付が解決をスムーズに行えた。
当然「会計検査」で随意契約は各県担当者心配の中検査官の理解を頂き全て了。 
 
 東北の岩手県 広田町・綾里・吉浜、 宮城県 志津川各漁協に納艇の実績。
先の「東日本大震災」では上記地域全て相当な被害・被災と犠牲者に心痛める。
些少ながら各地NPOに協力は他人事ならず、ローカル線で行き来した所。
 
                      
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写真は民間向け初の「サーフェス・プロペラ艇」小型旅客船「スバル15号」35kt。
 石垣島~小浜島「ヤマハリゾート」間専用航路の高速艇、 CFRP製 S60(1985)
 
 建造は長崎・壱岐島の 丸茂(マルモ)造船所 芦辺漁協「新沿岸構造改善事業」鮮魚運搬船落札・建造で設計・施工管理をしてからのご縁。 5~19T型FRP漁船は既に大手クラス。 本艇以降 福岡航研=丸茂船所 の関係は飛行機開発にも及ぶ。
 
 下條社長の直情径行、野人的な行動力に振り回されもしたが、 常に前向きな姿勢に魅力・共感の面多く惚れ込んだご仁。 親代々の造船所乍ら現工場・湯本は自身で立上げ、親兄弟(4人)他で漁船建造中。 ㈲福岡航研では前回S造船所で、技術以前の相手体質にコリゴリ。  その様な中、 社長ご夫妻(資金面での世話にもなる)の肝入りで建造・販売が実現された。
 
 「サーフェス高速艇」はテレビや日経新聞を始め全国各紙に大小記事となり数多く問合せの中、石垣島の旅客船業者の金城社長もそのお一人。 再々熱心なtellで沖縄・那覇にてお会いし急遽石垣島まで攫われるが如く伺った。 航海の海域はサンゴ礁が海底に数多く散在、 海の色を見分けコースを選びながらの運行は夕暮れで航走停止(夜間航行不可)されている。 
 
 真っ先に「サーフェス・プロペラ艇」の浅喫水が相応に活躍が見込めると確信、商用利用が見込まれる。  しかし半没水のスクリュー(プロペラ)で走行は当然信じられず後日、対馬の取締艇を試乗となり同業で相談相手N社長と共に上対馬に同行。 漁協の協力で数時間試乗して頂いたが、 尚且つ艇が小型なのを心配されていた。 
 
 当時 現地の船舶は沖縄漁船(木造)のレベル、本土の漁船と較べ性能・見掛け共に数段の違い。 だが当時既にスキューバダイビンクのメッカとして多くの若者が訪れ、又移住の若者も多く、原始林の西表島は多くが東京弁、日本のリゾート地として定着。 予想もしない最果ての地が心ならずも別世界に感じられ、ハワイ(未踏の地だが多分)の如き風情。 高速艇でも将来性に満ちている、日本最新鋭の艇を走らせたいと夢脹らんだのが訪問当時の印象。
 
 金城社長沖縄・糸満出身の元漁師、慎重さは人一倍で増して稼動・製造実績無い設計事務所相手はカタログの類も無く逡巡は当然、営業展開を諮る当方と押し問答の上幾度も途絶。 随分迷われた挙句契約の運びとなったが、エンジンは国産品は信用してないからな。 本土復帰後も外国製品多く、GM・キャタピラー・ボルボ等が主流、全て輸入品。
          
 打合せも何度か、提案の図も承認に迷われる事再々。 結果、写真の如く仕様となった。 全長:15.6M、 総トン数:16トン、定員:12人 主機関:CAT(キャタピラー).300ps×2基
試運転最大速度:35.2kt(65.2km/h) 就航後は国内に限らず稼動の他船とは断トツの違い。
 
 完成後石垣島へは自航、壱岐造船所から天草・牛深まで同乗し翌日は奄美・名瀬寄航、石垣島まで数ケ所燃料給油兼ね寄港しての回航。 牛深まで海上は結構荒れていたが翌日奄美まではそれ以上の荒天だったらしい。 途中上空ヘリコプターや巡視船から終日無線呼出しに追われる。 宮崎から支那海にかけ逃走の国籍不明船追跡騒動に巻き込れ、 逃走船新聞では40ktの高速船と出ていた。 荒天の中折悪しく2隻のみ航行中、逃走の船と間違われた。 追跡の外洋型巡視船公称32kt(実質28kt当日は10数kt)記者確認無く40kt以上 と発表(後日、本庁担当に確認)。
 
 高速艇(滑走型)ほど波浪には弱い、国籍不明船は排水型に近い保安庁の船艇では専門家なら当然理解の範囲。 日本中が東シナ海の追跡劇に沸いた事件忘れられない。
 
 無事回航し快適性と速力は人気となり、定期は在来船でスバル15号は「チャーター」専用に運行されていた、 一番最初に納艇の船が繁盛は目出度くもあったが。
 
 しかし就航後は乗艇客以上にサーフェスの高速性能がヤマハ・ヤンマー始め全国造船所の注目を浴び、見学・試乗の数々は逐一連絡頂いていたが、石垣島は度々台風に見舞われその都度船体は岸壁上に引揚げており、 私の知り得るかなりの造船所・技術者がその間隙をつき来島写真撮影、私達にはノウハウ含め機密保持は困難な状況で座視は悔しかった。
開発成功には相当の苦労と出費を強いられた、特許申請中も全国隈なくは検討付かず。
 
 一方来島の滞在時は石垣島の他業者に寄せ付けない、社長警戒したかの如く滞在中決して一人にさせず。 つくづく吾が営業力・不甲斐なさは、コバルトブルーの海を眺めていた。
20数年後 大型軽量の主機関が開発され、石垣島周辺の高速艇は殆ど大型アルミ製「サーフェス」艇が跋扈、 日本一高速艇の行き交う航路(戦場)となる。
 
  ディープV船型ストライプ付(当時はハードチャイン・ノーストライプが普通)、操舵室・客室配   置等々  姿形はわが目を疑う程、基本ソックリに見える?
  船尾から噴出するダイナミックなルースターテールには痺れる。 但し 引き波(造波抵抗)
は気に掛かる。  当然計画設計の段階で工夫の余地があるやに見受けられる。
私なら、 それら解決努力に向けられる、全速(?)の場合引波が立たないのが「サーフェス」走行状態の特徴。 矛盾と思われるかも知れないが左様な状態が「サーフェス艇」と認識している。 従来はΔ/psからL.B.D.、d(喫水)、Cbや Lp ・ Lgの相対的位置関係の追及だったが、私共の過去データ上、滑走面の揚力(と捉えていた)中心と重心の位置関係が従来の高速艇の理論より真逆で有ることに尽き、 又それ以上に当然の事ながら重量軽減対策として直接応力計算の活用をも考慮するだろう。 
 
 以前 三重・伊勢市の強力(現ゴーリキ)造船所社長に請われ、同社の19G/T(総トン)型アルミ製旅客船J.G.検査船(海運局・定員40数名?)を対象に同社会議室で設計陣10数名ミニレクチャー(講義)に及んだ。 同船は一般に構造規則に基き設計された艇であったが、当然オーバースペック(過剰構造・構造規則では全て)、アルミは鋼船の計算式にマテリアルファクター(材料係数)kの係数を乗じて部材は算出される。 *当時、動的圧力や許容応力基準は当時の検査官レベルではまず対応(理解)不能、経験上僅かに運輸省・本省の数人のみだった!
 
 各部部材算出と共に縦強度の両面から集約され構造を決定するが、 設計の思想から算出算式の趣意を説明と共に応力レベルでの検討方法と決定を黒板に目の前で行い、僅か3時間余りで構造重量3トンの減量(トン=原価百数十万円相当)をしてみせた。 当然アルミ船はスタッフ一同ベテランで、私は経験が無きに等しいにも拘らず皆(技術陣)一様に納得頂いた。 アルミ材の特殊な工作(溶接・剛性面で)技術は彼ら当然踏まえた上での事。
プレートバックリング(薄板の座屈)では僅かの曲面を構成する事により剛性は格段に増し、FRP・CFRP船の艇体に於いても一切の平面部は設けず剛性確保に努める。
 
 減量の3トンは定員に換算すると35~40名に相当する重量軽減で有り、造船所・オーナー共に利するのが技術、スーパーコンピューターを利用せず共可能な程度。
その後、松坂一の料亭で特別部位の「松坂牛」をご馳走になったのが返礼。
 
 石垣のバトル・シップ(戦闘的航走)の後方の造波は燃料消費効率からも不経済!? 
尤も福岡航研は私含め僅か3名、当時は他船の設計・建造で手が回らなかったが。
しかし夢に見た「ルースターテール」が今日多くの人達に見せられるのは感慨深い。
 
   下記 記事は昭和59年11月29日(1984) 掲載のもの。
  記事中 「何れ空へ戻りたいですね」が、 実際戻れたのだから面白い。 イメージ 2 
 
 
                次回  ※⑦-5 「サーフェス超高速艇」 余話