無着陸世界一周「ボエジャー機」
ここで飛行試験を前にした12月初め我々の機体がロールオーバー一週間位い前だったが、バート・ル-タン氏設計の「ボイジャー機」(写真上)が世界一周出発を報道で知る。 どうも私達同様「ACM」製(先進複合材料)らしい。早速「東レ」大阪のO課長に連絡し同機の詳細が手に入らぬかと相談してみた。
一週間後くらいに「デュポン」社からのテレックスが転送されて来た、流石に早い。確かにバート・ル-タン設計、カーボン、ケブラー材料はデュポン社が提供。 製作・組立含めミサイルメーカー「ハーキュリーズ」社で製作された事が判明。
同社は成型技術や設備(オートクレーブ)を所有、云わば世界最先端技術の結晶!
奇しくも同時期、地理的にも全く離れた米国(ルタン氏)と日本(不肖:私)で殆ど同様な発想と構造や材料で機体製作が行われていたのだった。 単純な比較はおこがましいが数日遅れ(ロールアウト)の悔しさと、基本構造は開発当初、暗中模索の末に決定した構造様式。 反面、 同機の同様な構造形態の帰結に喜びと誇りを胸に秘め、 内心正解に行き着いたかの如く感懐を憶えたもの。後年ワシントンDC「スミソニアン博物館」で同機を見学し改めて同様構造を確認。
以前から「バート・ル-タン」氏は、上記写真「BD-5」軽飛行機(アルミ製)の斬新さに私が憧れの天才設計者。 同氏の奇抜とも思える発想と実行力は、エドワーズ空軍基地での「テスト・パイロット」経験からなのか、時代をも超越しており今尚、民間宇宙飛行「スペースシップワン」機で宇宙弾道飛行を実現、目が離せない存在。

左記写真 「スペースシップワン」(A.C.M.製)機
試験飛行を前に長々と記したが、余りのタイミングで刻々世界一周中の記事は
正直、内心複雑で心穏やかではなかった。 開発依頼の「コマツ」社への気遣いもあり、ここで世間様に叫ぶ訳にも行かない。
小倉空港での走行テスト
10月某日早朝の為、前夜から機体組立や各部作動試験と最終重量計測、運搬の為2トンロングのレンタカーに搭載等々、出発準備に追われほぼ徹夜作業。深夜小倉空港に向かい、空港の門前にて開門を待って搬入。 組立は3名で30分程度で済ませる様にしているが、 同好の仲間も増え10数名が加勢の賑わい。


右側グリーンジャンパー後姿がテストパイロットの川島教官(JAL機長の指導教官)本機試乗の為、北海道まで行き、飛行免許を取得される。JAL機長の教官を指導した指導者も大変だったろうと他人事乍ら、同情。 左隣は今回指揮をお願いした山口ノリさん、人力機テスト飛行の際も同様に総指揮官としてテストを主導。
晩秋朝まだ明けず暗がりの中、格納庫前の駐機スペースでの組立も大勢加勢の中スムーズ進み、やがてエンジン始動、早朝静寂な空港に心強い音が響き渡る。 仲間の太田君の手により調整運転が為され、パイロットの川島教官と各部点検と確認が為される。 やがて搭乗し暫く慣らし運転と操縦桿を操作し各動翼の作動を確認後、現場指揮の山口さんと相互に無線で合図が交され、万事整った様子が伺える。
エンジン始動前より我々は格納庫前で事の成り行きを見守るのみ、許された時間は午前7時迄。 そして機はゆっくりと動き始めるタキシングであった、私含め自走の姿は始めて目にし最早手元から離れ生命が宿ったかの如く滑走路に向っている。
最早総指揮の山口ノリさんとパイロツトの無線交信が頼り、しかし指揮者は滑走路脇まで出向いており私達はただ呆然と遠望するのみ動静に息を殺して眺めていた。その後、機は滑走路を舐める様に往復し路面の確認をしていた中、突然動きを止め滑走路中央でエンジン停止! 何事かその時は全く知る由も無く、指揮者からの合図で数人機体に向かい、パイロツトも降りしかる後機体を押しながら戻って来る。
方向舵を操作するフットバー(ペダル)が折れ曲り操作不能となった様である、アルミアングル(L型:6061材)材の脆弱性が原因、片側が見事に折れ曲っていた。同士の天本、山本、太田君達の責任では無いが、しょげ返っている姿に心が痛む。
その頃は既に空港関係者(整備士)連中も出勤し遠巻きに眺め何やらヒソヒソと審判に及んでおり、当時者の私は穴の中に入りたい程恐縮と萎縮に倒れそうになる。指揮者の山口さんは出入りの知己も多く、格好の付かない事態に不信感は理解するが、 黙々と撤収に励んでる中、同行の仲間である筈の数人は遠巻の連中に混ざり批判に及んでるのには参った。 云わば手の平返しの如くに第三者を装ってる。又々「サーフェス高速艇」の時、S造船所社長、専務の人品を思い出してしまった。
何事も成功の裏には、その数十倍の失敗が付き物で有り、私には手続きのひとつ位いと思うが、 何しろ今回は晴れ舞台での失態、しかも大勢の加勢者とパイロットは東京から駆けつけて頂いており、恥かしい以上に猛省は次回テストまで続く。