小倉空港での失敗・挫折の傷は暫く立ち直れない程のダメージとして堪えた。冷静になり思うに、予備テストは当然の手続きで有り、工程の遅れから焦りが原因と空港使用のスケジュールが予期せぬ程早く許可された結果でもあった。 
 
 問題のフットバーは補強を施したが、首輪はフリー(自由輪)を連動式に変更。それまで地上走行は左右主輪のブレーキ操作で方向転換をさせていたが、万全を期す為にフットバーと連動方式に改造をする。 仲間内から聞き及んだ糸島のウルトラ愛好者の広場でのテスト走行を行う。私含め全員が地上での試乗を行ったが恰も遊園地での遊戯車輌で遊ぶ様に楽しみ、一部加速をも試み問題は解決される。
 
 しかし前回小倉での大々的な試験はコリゴリで失敗のダメージは余りに大きく、撤収の際、山口さんより大勢の目前で「チャンとして来い」との言葉は弱り目に祟り目、 両ひざが崩れんばかりの精神的ダメージ、耳から離れようもない。従って事前テストは内々に行うべく、 同好の仲間より熊本の宮崎氏を紹介され挨拶に伺ったが、 オットリ刀の私に穏やかながら、シッカリした口調で快諾を頂く。 同氏は熊本で同好仲間の中心人物、八代の埋立地を利用した暫定滑走場で活動中。 超軽量飛行機のパイオニアであり、自身「軽飛行機」の飛行免許所持者。それ以上に救われたのが氏と仲間の皆さん暖かさ溢れるチームワークだった。
 
 12月26日(S61 1986)早朝工場を出発、小倉での屈辱を晴らすべく、我々4人の他軽飛行機操縦士のK君のみ同行願い八代の現地へは夜明け前後に到着。心配だった前夜からの雨は上がり、青く晴れ渡り期待に胸脹らんだのを思い出す。
宮崎さんを始め仲間数人も集まり、 飛行テストの支援体制も手際よく万全な風。天本、太田君達が機の始動準備の中、搭乗し自ら操作の上確認の作業。私は記録ビデオ撮影でコース中央付近に待機、山本さんは滑走場正面からの撮影に構え、天本、太田君達は消火器を手に機側に位置し不測の事態に備える。 
 
 風は1m/秒前後の微風、滑走場は僅かに整地されたかの草地で所々に水溜り。やがて機はエンジンパワーを上げユックリと動き始める。此れまでが前回小倉空港で経験した段階、心配は以降だったが、難無く地上走行の姿は安心の空気が漂う。
 
 当日の予定は高速地上走行のみ、即ち飛行は航空局の許可事項であり所謂寸止めに控えねば成らない。 都合10数回の往復を済ませ風向きに徐々にパワーを上げ最早浮揚寸前まで行きつつあった、愈々ラスト2回となりパイロットの感覚から更にパワーを上げ瞬間車輪が地から離れた様に思われた、 機体は極めて安定的に飛行(?)姿勢が垣間見えた瞬間を味わうが、その時は目の錯覚と思しき感覚。パイロット自身、一連のテストを繰返す内に機の特性や性能を感得したのだろう、最後あたりはは1m近く浮上かに見えた。 草地での凸凹な走路に主脚も馴染んだ如くに弾んでおりショックを吸収している、最後まで悩んだ件だったが極めて安定状態。
 
 早速会社に引揚げ応接室でビデオを繰返し再生し瞬時の定常飛行を確認する。この時に皆が改めて感激を味わった、此れまでの苦労が報われ喜びもひとしお。皆弁舌爽やかに会話が弾み、改めて宮崎パイロットの操縦感覚と手腕に感謝。
 ミニ改造 主翼に上半角と固定タブを取付 しかしトルクの反動で浮く前後に右にバンクの傾向が明らかに見られると共に、
高翼機の場合、上反角は設けないのが普通だがイニシャルな横安定性を求め上反角1.5度を設定。 且つ右翼補助翼内側にアルミ単版で固定タブを取付け、年明けの再テストに備える。 年末から正月は安堵と次回に向けて久々ユッタリと寛ぐ。
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   写真上12月26日改造前         写真上、翌1月6日上反角と固定タブ取付け改造後
 翌1月6日(S62 1987)再度八代に向う、今回は「K.T.」社、副社長にも連絡し立会いを頂いた。 この一年有余東京で社内からの風当たりを一人受けて居られ心配は想像以上に思え是非初飛行の喜びを共にしたいと願う余りだった。 又博多工高同級生で唯一当時「飛行機製作」を知らせていた模型航空部の久保山君にも連絡、当日波田君と共に見学(以来久保山君は同自家用機で現在もフライトを楽しんでいる)。 
 
 当日も無風に近い晴天に恵まれ、 テストには最高のコンディション。 テストの内容や順序共に宮崎氏や仲間にほぼ全てを任せ適宜実施は互い暗黙の了解事項。尤も、 小倉時点では「大阪航空局」にも事前書類提出の上、地上走行の許可を得ていたが、 今回はあくまで正式「飛行テスト」の予備だが多少のフライングは覚悟。
 
 地上走行は回数を重ねる度に序々にパワーを上げ、主脚が伸びきり浮上の度合いも次第に飛行といえる状態に達している。 滑走場横(草地)には舗装されたばかり4車線の道路が整備されており、 斜め後方より車で追尾しビデオ撮影とメーターから速度を読上げ同時録音。 前回の模様から離陸速度は40km/hを超えた当たりで離陸速度に達している、恐らく地面効果が効いているからと思える。 
 
 やがて2~3m程度の高度獲得しだした辺りから補助翼(エルロン)操作を行い左右バンクを繰り返している、操縦性能の確認が出来る位いになっている模様。 それまで高速走行中、昇降舵(エレベーター)の効きも程の良い程度にバランスが良い。 出発地点へ復路タキシングですれ違いの際、パイロットが目の前で握り締めたコブシの親指を立てOKの合図、万事順調を伝えられる。
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    主翼荷重試験(片翼) 砂袋(10kg)を積上げ、ストレインゲージ(ペンレコーダー)で応力と共に撓み量を計測中。
      因みに主翼自重は砂袋2袋チョイ(22kg)主翼の強度をご想像下さい。
 最早直線コースでの飛行(?)テストは30数回を超える程度に達し、方向舵(ラダー)に依る方向転換確認の必要性から出発点をより後方200m地点の道路に移動。既に完全な飛行(フライト)の域に達しており、航空局の許可が頭の隅によぎるが、
目にする機は、極めて安定的なフライトを続けておりパイロットの感覚を信じ続行の腹を決める。 風洞試験や荷重・破壊試験の結果から想定通りの状況ゆえ決行。
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              あくまで地上走行テスト(ついジャンプ?)のハプニング場面
 機体は此れまでと違い遥か遠くに小さく見える、次第にパワー全開(38ps)の音が響き加速の模様はスローモーションの様に刻々と近づいて来る、離陸速度に達した瞬間7~8mまで一揆に上昇し水平飛行に移る。 機体のフォルムが影絵の如く浮彫りとなり思わず美しい!  静止画と思える程、空中に浮んでいる。 滑走の草地と道路は30mほどの距離で平行しており、軽く右にバンクをかけ方向転換した後、再び左バンクして草地のコース上に復帰。 その間僅か20数秒の出来事だったが、三舵の程良いバランスは充分に読取れる飛行状態、机上計算に明け暮れ且つ実際を目にし思わず感懐に浸った瞬間が思い出される。 都合3回同様フライトを実施。
 
 パイロットの宮崎氏より更に場周(一周旋回)飛行の要望が出される。 現地は工場誘致の整備遊休地、未だ人家や工場も無く外周は有明海や球磨川河口に位置、最小限の安全は確保され不測事態も最小限に可能な環境では有った。 それまでの機体性能から充分な自信とも取れる申し出であったが、 瞬間逡巡したものの飽くまで「走行予備テスト」が基本、これ以上はさすがに決断する事は出来なかった。
 
 しかし結果、本機はこれが最後の「試験飛行」となり、結果論だが当日の決断に聊か残念の思いは残る。半年後、再度宮崎氏が事務所に訪ね来られて再度の要請も断ってしまった。  正直、私の台所事情も有り期待に添えなかったのが実情。
 
 当夜 宮崎氏と歓談の席で、本機「超軽量飛行機」性能は、従来機を遥かに越え軽飛行機「セスナ機」の感覚、操縦性能はバランスと共に極めて安定しているとのお褒めを頂いたのが、本プロジェクトに期待し賭けた全てだった

 

 八代での「飛行試験」後、3か4月頃「東京湾岸道路計画」が急遽浮上。 以前にも記述しているが、「コマツ製作所」事情で重厚長大から軽薄短小の時代への推移に対応すべく、社内ではあらゆる分野に挑戦していたが、以降一切の新規事業を撤退の決定が下された。 「超軽量飛行機」開発もその一翼を担っていたのだが、私共に取り願っても無いチャンスと捉え呼応の結果。 思わぬ状況から、中断となったのは心苦しくも経済的には破綻寸前の状態に救われた思いだった。
 
 当初は一年程度の予定が倍近くの月日と経費等の予算消耗度は遥かに越え、台湾からの高速艇引き合いも延びた挙句、「飛行機製作」に本業どころでは無くなってしまう有り様。 事務所や工場の経費負担に追われ、私の給料以上に両親の年金も注ぎ込む事態。 その間、自宅の返済も滞り競売の責めにも苦しむ状況は「サーフェス高速艇」での正に再現となってしまった、又々経営者失格であった。 従ってコマツより中断の申し出は渡りに船、当初契約の予算に倍する以上の出費。
 途中製作過程の写真やビデオも多数蓄えており、何れ写真等も順次加える予定です。
       
     
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