正月3ケ日を終え日常を取り戻せるか。 孫共(小4男 小2女)は昨12月終業式後より我家に巣食い大晦日に一夜帰宅。 元旦は家族揃っての年始に再び。2日婚家先に年始後又々帰宅? 8日始業式出席後12日迄居座る積もりらしい、イヤハヤ。 2日は吾が師、故前田建一氏次女つまり「里の神」(姉上)の御下りが恒例の行事。 長姉「山の神」早世するも同道願い、都合二社参りを達成、残り一社。
 
 高校時代より家族同様、実のご兄弟以上に接する時間多く弟分として時に実兄弟以上私に厳しい!    話はオヤジの話題・エピソードが懐かしく枚挙に暇無く、私の生き様をオヤジに報告の思いも強く。 しかして私の本年が始まる。 3日は弟家族一家年賀の予定が嫁先身内の病重く安心ならぬ事態。 従っておせち料理が大量に余す事に、 昨夜は爆食で始末は流石にこたえた、本日廃棄処分。
 
 この数日夜間は稼業のH.P.やブログ数種メンテ、出入りサイトの散見と出没に費やし、ようやく我にかえりつつある。 この三ケ日朝からの飲酒は吾身に堪え体調いささかヤバイ。
 
 ドイツ滞在中土・日は、ほぼ全ての商店・レストラン等街中がシャッター状態は以前に記した。 独り身ゆえ観光以外に仕方なく行動を起こす事となる。 宿(ユースホステル)で知り合った長身のイギリス人の友人とオランダ行き。 セキスイ時代工場長が欧州出張で撮影、数多くのカラースライドを借用、寮の部屋で物珍しく寮生と見て、それなりオランダの景色・風景は多少の知識? 
 
 ロッテルダムの卓球場で日本人船員と合同、懐かしいショートピース進呈される。早速喫煙後、プレーの順番で立ち上った途端ストーン! 英国の友人と二人して椅子に尻餅を衝いて仕舞った。 現地タバコに馴れ日本タバコの強さに頭クラクラ、一様にニコチン濃度が低く体が順応してしまったのだろう、数箱は大切且つ慎重を心得。
日本貨物船の船尾にはためく日の丸に郷愁を覚え、似た経験はフランクフルト空港で日航機の飛立つ姿同様な経験、頑張ってる日本に心強さと頼もしさを刻み込む。
   
 街はまるで田園風景、落着いた家並みで窓はドイツと違い大きくカーテン開け放ち、夜間は家庭内(リビング)生活態様が丸見え、各家庭競うが如くは飾り窓の如し。
今思うに編み物や読書、家族団欒はプライバシー以前、今現在はどうなってるのか気になる。 当時は落着いた佇まいに高度な先進社会を見た思いだったが。
家々の周囲は芝生緑多く、植栽が行届てるは「ハウステンボス」を遥かに凌ぐ? !   
 
 道路は車道、歩道の間に自転車道路が隈なく行き渡った配慮に感心する。
別名「ネーデルランド」(低地)は国土の多くが海面より低くほぼ平地で自転車は
多く普及は当然の事なのだろう、エコの先取りは当時からがスバラシイ。 田園地帯には多くの風車が見られ多くは排水若しくは送水に用され、運河も用水路の役割が我々写真等で目にする光景、尤も当時は今ほど情報なく物珍しさはひとしお。
 
 宿での食事は食パンだが黄色く色付き甘い味付、黒パンやフランスパンとも全く異なり、食文化の違いは歴史以前に何がどう違うのか。 多くの国がせめぎ合うが如きヨーロッパで各国独自文化や言語しかり、良くぞ保ち得たと感心もする。
又 同じ黒パンでも、ドイツとロシア・東欧では味、食感や風味も明らかな違い。
 
 滞欧中、旅人に取り英語が一番通じやすく、快適さは人情と共に好印象。
時間有れば、レンタカーで周遊はお勧め、オーストリア・スイス山岳と比肩する。
違えた場合50年前の事ゆえ、その節はお許し願いたく。
 
                

 花の都パリ 私にとり全くの外国、言葉の通じない不遇は滞在中全てが不自由。  

 

インスブルックで知合ったチャン君の声かけで一度はと訪れたのだが、ベルギーのブリュッセルで一泊例の「小便小僧」の像を見た程度で余り印象は無い。 ただ街を過ぎた辺りからフランス語に変わりなんとも、英語ドイツ語共に全く通じず、ドライバーや道行く人全てノン。 聞くには心地よいフランス語が鼻母音や半母音を発する事が出来ず、齧った程度の語学、役に立たず脳が路頭に迷うが如く。 何処をどう辿ったのか取り合えず彷徨った挙句パリ・ソルボンヌ付近彼の元に行き着いた。 

 
 パリで馴染みの古いアパート3階の一室、窓の景色は古色蒼然なアパート群。 彼の母は日本人でベトナム人父とのハーフである事を始めて伝えられた。 インスブルックでは詳しい話はしていなかったが確かに日本人らしい雰囲気もある。
歓待の積もりか童謡のレコード「さくら」をかけてくれ少しセンチな気分に浸った。
ソルボンヌ大学に留学中、同じベトナムの友人とルームシェアしており、そこに数日厄介になった。 フランス語は流暢だが英語は私以上にたどたどしいが、意思疎通は有難い。 夜近くのベトナム料理の食堂でベトナム食を振舞われ、しかしニョクマムの生臭い味と匂いはチョット馴染めなかった記憶、彼精一杯の持て成しだった。
 
 翌日メトロ(地下鉄)でセーヌ川沿いのルーブル美術館、元々要塞として建設されたらしく広大な敷地と建物に圧倒される。 とても一日では、教科書で見慣れた絵に
目が行くが、それ以上に素晴らしい芸術作品の数々は凄いの一言。 ミロのビーナスは廊下か通路にポツン、ミレーの落穂拾い等も壁にただ掛けての展示(今は知らぬが)手で触れられる、尤も監視員の眼が光っている。 床にしゃがんで画学生か模写に励んでいた。 数年前、京都の美術館で3時間余り並んだ挙句トコロテンの如く押されながら見たのと全くの違い、正に一人独占してジックリには拍子抜け。 
 
 引き返す付近にノートルダム寺院、デカイ! 建築物は全て石造りだがよくぞ、とだけの印象。 ルーブル→コンコルド広場→シャンゼリゼ通り→凱旋門が一直線に連なっており、シャンゼリゼのオープンカフェで一服とコーヒータイム。 このコーヒーが途轍もなく苦い? 砂糖やミルクを加えても飲めたものでは無く其れっきり、ただ道行く人や景色を眺め雰囲気を味わう。 思い返すと朝から一言も喋ってない、疎外感にふと吾に返るが、どうにも言葉が解らない喋れない正に異国を痛感。 
 
 凱旋門からエッフェル塔へ、ルーブルからの徒歩行は聊か疲れたが、エレベーターで展望台に昇る、4本脚の一脚にあり斜めに添った走行、昇降は面白い。 
吹きさらしの展望台からはパリはおろか、かなり遠くまで見通せ、又今朝からの道のりを辿るが如く眼下を見下ろす。 東京タワーのガラス越しと違い臨場感は別格。
ニューヨークのエンパイアステートビル最上階でも金網越しの同様な体験。
 
 まだモンマルトルの丘やベルサイユ宮殿にも行きたいが、案内が読めない、尋ねるにも英語が通じない、私だけの経験か。 従ってチャン君の案内は夕刻か夜が頼りに、 附近の散歩がてら見物が強く記憶に。 帰国し3年後、長崎の県展で50号の油絵が入選、題名は「ソルボンヌ散策」恐らく留学の徒と勘違いでは、絵仲間7人全員落選。 風景だけは脳裏に深く刻まれたのだろう、パテ塗りで雰囲気は出ていた。
 
 展示は長崎県立美術館、天主堂の絵専門で長崎では重鎮の中山清三郎画伯と隣り合わせ。折りよく氏と対面、頑張って下さいと励まされたが。 以来一作も描いてない画けない。 前年、夜間簿記学校同級の女性、マサカ?との視線を背に感じた
 
 パリからリヨン、マルセイユを回りスイスのジュネーブ、だが当地もフランス語チューリッヒ手前辺りかドイツ語圏に漸くほっとする。 日本から大勢が押しかけてるが、私は二度と・・・。 ただフランスパン(ナゲット)は固いが100%美味い、老人はスープに浸して食している。 フランス料理なる物一度たりとも、しかし町外れの食堂らしき所の料理とスープやサラダは絶品。素朴なドイツと違い真のフランス料理と解釈。
 
  語学力無くしての一人旅、左様にも不便をつくづく味合わされコリゴリのフランス。
今では、せめて日本語か英語の地図を持参しておけばと悔やまれる。
 
           開放的な街中に魅せられて・・・ 
                      
   只今平成27/12/31 午後11時前、 つまり大晦日間もなく新年を迎える。
毎夜の事だが8時過ぎ就寝、当夜起床は相変わらず、生活習慣は又年を跨ぐ事になる。
年越し準備は20日頃よりボツボツ始め本日の5時過ぎほぼ終えた、 その後一杯で一眠り。
現在TVQで年越し「ジルベスターコンサート」オーケストラ演奏でクラツシックが流れてるが静寂。 
 
 丁度50年前、この瞬間をミュンヘンで迎えた。 ドイツは通常でも土・日・祝日はデパート、商店やレストランも全て閉店。 認識不足は食べ物に窮す、街中を彷徨うごとく探し歩きミュンヘン市庁舎付近だったか、下駄箱程度のロッカーでガラス窓の様な自動販売機にコインを投入。 黒パン、牛乳、ワイン、チーズ、ハンバーガー等を買う、この手の販売形態は未だ日本では無かった?  救われた思いで抱えて歩く内に同年齢位か日本人青年と出会った。 日本人商社マンの家庭でご馳走になった帰りらしい、互いに話を交す内バツグからゴソゴソと新聞紙に包んだオニギリを4個差し出して呉れた。 正に地獄に仏!  それもまだ暖かさも残ってる様な海苔巻、しかも梅干入り!!  即、丸山さんと口にほお張る、こちら食べ歩きは普通の作法、郷に従って。 夢にも似た懐かしさとウマさに感激 恐らく五本指に入る、最早珍味だ! 
 
 先述したが、街中のペンション暮らし、窓は二重窓でその空間が冷蔵庫代わり。
黒パン、牛乳、バター、チーズ、ハム・ソーセージ等を保管していた。 黒パンは大きく脇に抱えパンを廻しながらナイフで1枚ずつ切る、1個で約1週間は持つ大きさ、牛乳は1リットルのビン入り。 外はマイナス15~20℃の極寒、雪は2~30cm程度積もっているがパウダースノー、 極度の乾燥から手で握っても固まらないケタぐると粉の散るが如く。
しかし室内は暖房で暖かく下着のみで過ごせる。 湯沸しはIHIかガスレンジ?高温になるが炎は見えず赤熱も無い記憶定かでないが、時折持参の緑茶大切に味わう。
 
 忘れてたが、水道の水は飲まない(飲めない)、水は沸すか買う物とは驚いた。
値段はほぼビール程度の価格だった記憶、ビール瓶を水筒代わりがドライバーも。
硬水の為、石鹸の泡立ちも歯痒い位いに悪い、洗濯物はバスタブに長時間浸し纏めてトイレで使用如きパッコン棒でシゴイている。 
 
 9月末ごろゾーリンゲンを去る際に、南は寒いから止めとけと誰かに忠告された。
ミュンヘン含め当バイエルン地方は500M程度の高地、数十キロ南方はアルプス。
聞いた当時キツネに抓まれた様な妙な気分、日本とはまるで逆にポッカ~ン。
 
 話は常に前後するが、ゾーリンゲンから来た当初はユースホステル滞在が常。
朝10時頃チェックアウト、午後4~5時頃チェックイン男女別々の部屋割り、10~20人程度2段ベッドの大部屋、夫々勝手に休むが団欒は食堂かロビーで過ごしていた。
タバコは自由だが酒類はご法度で11時消灯、まだ晩酌習慣が無かったのが幸い。
 
 ミュンヘンの宿(ユースホステル)や街はほぼヨーロッパ中央に位置しており、ヒッチハイカーには人気宿、従って最大クラスの規模だった。 概ねドイツの若者は3~4割程度、世界各国から一夜限りの寄り合い、グループより単独行動が大半、気の合う同士で国際的ディスカツションが夫々のテーブルや庭先で交されている。又次の旅先の情報交換も地図を指しながら、互いに慣れない言語(ほぼ英語)でのやり取り。
 
 日本人は未だ少なく、拙い英語駆使も慣れたもの。 偶に同じ日本人が同席すると、拙い方が口不調法になるのは仕方無いが、 同じミュヘンの街中で日本の若者が言語ノイローゼに陥り日本語もシドロモドロに。 領事館を教え別れたが準備不足の侭日本を飛び出したのだろう。 多少の会話力を身に付けてたのが助かった。
 
 朝三々五々の別れ、行く先はパリ、ウイーン、チューリツヒ、ブリュッセル、ベルリン、ロンドン、アムステルダム、北欧へと歴史か地図上でしか知らない地名が目的地。 殆どがリュックを背負ってのヒッチハイクだがほぼ一日で届く距離。 やがて私も彼の地に行く事と成るのだが、まるで感覚が違う。 国境越えも一切検問は無く素通りには面食らった、当初は記念に都度車を止めてパスポートにスタンプを押して貰っていたが、やがて面倒になり止めた。 
 
 ヒッチハイクでの景色や異人さんとの会話も楽しみのひとつ、 アウトバーンに乗れば長距離に有り付けるが街中から入り口迄辿り着くのが運不運を分ける。
国境毎に貨幣が変わるのでバスや電車用の小銭持合せず従って前述の如くに。 会話でドイツ国内での地方訛りの違いも次第に、オーストリアやスイス人のドイツ語の違いに会話から出身も判りだした。 地を這うかの如き移動は観光旅行とは全く別な趣と体験、ドライバーの厚意で食事や一宿の恩恵に授かる事も度々。
 
 特にドイツでの体験だがヒッチハイクに日本の国旗は重宝だった。 車を止める際都市近郊では多くのヒッチハイカーが親指を立て客引きの如く連なってるが、ドイツは親日国家、つい20年前まで連合国相手 共に戦った同士。 しかも最後迄頑張った故尊敬の言葉も再々、今度やる時はーっと、又戦をやる積りか豪の者もいたが。
枢軸三国のひとつイタリアには逆の感情を持っていたのも、むべなるかな。
 
 止める確立は非常に高く、知合った友と同道の際、彼は隠れ止め役をする事も。
複数は中々捉らず難しいが、隣合った同士哀願される事も数度と無く有った。
但し、日本人少ない時でもあり子供からキネジッシュ(中国人)と指差されは参った。
 
 面白いのは歴史上、普仏戦争で領土は入組み交互に且つ収奪の結果か、小さなスイス・ベルギー・ルクセンブルグ等国内の東西でドイツ・フランス語とつまり交わす言葉が違う。 又ドイツ語圏ではビール、フランス語圏ではワインがお茶代わりに飲まれている。 何度か触れたが乾燥した空気は喉の乾きを殆ど覚えなかったが、例えばカフェでの一杯は地ビールかワインで潤す。 仕事中やドライバーも、である。
 
 食事やスープも国により微妙に違う。 僅か数時間でスリ抜けられる距離(県以下)だが明らかな違いは歴史文化の違いで有り、家々や街の佇まいも一変、国境越えに気付く。
 
         次回 ⑳-3 パリ 花の都 ?
      
  この数日年末の雑事に追われると共にP.C.診断の結果、ハードはO.K.だがシステムが壊れている。 OSの再インストール必要あり、 OSとマザーボートの両方のCDが必要だが、マサカと思うがMBのCDが見当らない。 P.C.ショップでは2週間待ち、新規買換えも視野に思案する。 居間の本機を6月に買ったばかり、年明けでも再考し越年覚悟が・・・後述の如くに。
 
 もう一つ、 28日深夜RKB特番で「飛べやオガチ」の再放送を以前紹介していたが、当日の番組欄にも無い? 果たして放送は無かった。今月始めから何度となくテロッブで宣伝されていたが今もって理由不明、期待された方に申し訳無くゴメンナサイ。
 
    ゾーリンゲン  
  この5~6日間、PCトラブルでかなり時間を巻き戻す必要に脳内もフリーズ気味。
 まずはハノーバーで国際列車を降りた時点から独自行動。 当り前だがこれまでは、お客さん扱い時々刻々を楽しめれば良かったが、 これからは自由と不自由の両方とも抱えねばならない、 新めて彼の地を踏み緊張感を憶えると共に漲る。
 
 これからの旅は基本ヒッチハイクと宿泊はユースホステル。 予め日本で国際登録した手帳を持参。 ヒッチハイクは同行の丸山さんからのアドバイスで前年春の連休、明石から3泊4日で伊豆半島一周羽田と往復、当時就航したばかりの最新鋭B727旅客機(ジェット三発のT尾翼)をターミナルビル屋上から眺めた・・を経験済み。
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写真 ヒッチハイクで伊豆半島一周の際 「潮吹岩」。 S39/5(1964)
当時流行のカニ族、黄色のリュックに寝袋・テント姿はドイツでも同様
 
  当時から西ドイツはアウトバーン(自動車専用高速道路)がかなり網羅され無料!  しかも速度制限が無い!!    ある時ベンツで170km/h走行中脇をビューッと追い越され瞬く間に消え去った、 ドライバー曰くヤグワ、ヤグワと呟いている、 260km/hは出ているらしいジャガー・スポーツカーの事。 乗用車はほぼ170平均で走行、 たまに140km/hの車もあるが少数。市内でも90km/h位いで走っている、ドイツ人ドライバーは殆んど皮手袋を装着。日本では前年か名神高速道路が開通したばかりの時代。
アウトバーンとフォルクスワーゲン(国民車)はヒトラーの遺物、生活道路として又、車社会の浸透の状態は、当時日本と同じく戦後20年にも拘らず凄い。
 
 旅の始まりはハノーバーのインターチェンジ入口から、 ゾーリンゲンを目指し早朝だが早々にヒッチハイクは若いカップルに拾われた。 朝日に映え緑豊かな自然や街並み。 整然とした道路や並木、 小奇麗な家々まるで「おとぎの国」だ。 前回⑰記述の如くで、 丸山さんとスタート。
 
 現在12/30午前1時、昨日結局PCを買ってしまった。 昼間は日常の些事で途切れ頭もチョチョ切れ作業が捗らない事に我慢ならなかった。 OSは変らずW7(3台目)自分流にセッティング、無線LANや辞書登録に昨夜11時頃より嵌っている。 6~7割り方済み、今後は成り行きで随時追加作業に委ねる。
 
 アウトバーンに差し掛かった時点で周囲の景色は一変、美しい光景に覚えたてのドイツ語でシェーン! (美しい)すると前のカップルが思わず顔を見合わせ笑ってる。どうも彼女の事と勘違いしてる様だが、それなりに美人だったが誤解もアリかな?!
 
 何度か乗継ぎゾーリンゲンのシュタッヘ家に辿り着いた。 丸山さんの知合いの知り合い本当に薄いご縁なのだが三男エドガーとムッター(お母さん)に迎えられ2週間ばかりお世話になる事に。 次男フリードヘルムの部屋を当てがわれた、彼は26~7歳でケルン大学在学中で寄宿生活。 エドガー19歳で仕事に就いているが滞在中、ワーゲンで近在のあちこちへドライブは夫々に興味を起こされた。
 
 長男(入り婿?)の家庭にも案内され、義父は自宅脇の仕事場で刃物生産、見慣れた鍛冶屋さん風。ゾーリンゲンは刃物の産地として世界ブランドだが、中小の工場が散在している程度、 これら家内工業で支えられているのだろうか。
 
 近在、商業の街デュッセルドルフやケルンの大聖堂等々。 ラムシャイドの滑空場では波打つ滑走路?最初に見た奇異な光景。 飛行機曳航のグライダーが交互に見え隠れには驚いた、滑走路は舗装された滑走路しか知らなかっただけに。 
しかし各地で似た様な風景は数々目にする、 最近話題の普天間基地も同様。
同じくハング型の市内モノレールが両岸から架けられたトラスブリツヂにぶら下る様に走っている、 殆んど川面を辿るが如き路線に用地買収の手間を省いたドイツ流の合理性を垣間見た。
 
  私見乍ら一般にヨーロツパで風呂に入る習慣は無いのか、バスタブは何時も洗濯物が浸かっておりシャワーが一般的か、確かに夏から真冬にかけ滞在したが汗を掻く事は殆ど無かった様に思う。 空気が乾燥しているせいか不自由しなかった。 
 
 公営プールのシャワーでは湯上りの如くに石鹸で体を洗っていた風呂代わりか。又、女性は見た所目鼻がハッキリ美人顔だが近くで見ると産毛が茫々、剃ると如何わしい商売女と間違えられるとか、 従って一様に化粧は粉が吹いている感じ。
確証は無く風聞の程度でしか無いが。
 
 シュタッヘ家では、朝は黒パンにバターを塗りコーヒー。 昼はソーセージにマスタード、蒸かしたジャガイモ(これが美味い、何処でも)、キャベツの漬物(ザワークラウト)、他にもう一品で一番のご馳走。 夕食は黒パン・バターにチーズと紅茶、これが一般家庭の食事。  ユースホステル(ユーゲントヘルベルゲ)でも似た様なメニュー、朝夕は比較的質素で昼食が日本での夕食に値するのか、所変ればのひとつ。
 
 シュタッヘ家のムッター(名前は聞いてなかった?)にはお世話になりっ放し、思い出すも若気か今も冷や汗、フリードヘルムには帰省の折、懐かしさにデュッセルドルフ郊外のセキスイの工場(塩ビパイプを生産)に連れて行って頂いたのを思出す。
 
 ドイツ語
 滞在中フォルクスシューレ(小学校)で夜間外国人相手のドイツ語教室、世界各国から来ている人達と1週間程度か習う、 フリードヘルムからも英語辞書片手に数回(彼は卒業後高校教師とは後年再訪の丸山さんからの伝聞)。
 
 ドイツ語は英語・フランス語と共に、セキスイ寮時分、須藤さんと共に励んだが、不肖私めには付け焼刃。 故に一苦労! ラテン系そのものが複雑怪奇、例えば名詞には男性、女性に中性名詞?又夫々に冠詞が複雑に変化、最早実践で覚えるしか。
 
 恥を承知で言えば英語の何と平易で整列された言語かが理解できる。 序でに
日本語も助詞・助動詞の変化やオマケに漢字、よそ様の国の人々に気の毒な事。
 
 ユースホステル
 日常会話も覚束ない侭、目的の航空関係を訪ねる為ゾーリンゲンを出発。
丸山さんともここで別れ愈々一人旅、 宿はユースホステル泊の予定だが幸いあらゆる街や場所に存在、ヨーロッパ各地はもとより世界から若者が離合集散の場。
 
 目的は様々だが各地の情報交換、又国際交流の雰囲気は友人知己つくりの場
として最大限活用したもの。 ドイツ国内はもとよりパリやウイーン、ロッテルダムを旅したのも彼らのお陰。 遠くアフリカ、フィリピン、スペイン、イタリア、アメリカ、イスラエル、南米の人達とも住所交換、再会を約したがほぼ世界一周は可能な位い出会いの所だった。 日本人とは殆ど会わなかった、最も前年解禁されたばかり。
 
 面白い事に発展途上国出身者ほどエリート若しくはインテリジェンスやマナー等優れものが多かった傾向。 知人情報だがアフリカ某国では王様待遇の扱いに並外れた生活が送られたらしい。
 
 場所や建物は夫々だが、ハイデルベルグ等、古城が其の侭使用されている宿も。
古城は小高い丘上に有り、辿るにはしんどかったが周辺が見渡せる景色は、遥かな歴史と共に旅気分を満喫、食事付きで2~3マルク(当時2~3百円)は有難かった。
 
 インスブルック(オーストリア)は数年前「冬季オリンピック」が開催され、トニーザイラーの活躍は俳優としても鰐淵晴子共演の映画にもなった(見てないが看板で)所。
そこは自炊が出来る宿、瞬時に仲間で互いの料理を振舞う事になりインターナショナルクッキング。 ミュンヘンのベンツ(弁護士見習い)、チャン(パリ在住のベトナム留学生)、ベンドバスチン(徴兵前の休暇中、後ドイツ空軍入隊帰国後絵葉書が届く)と友人等々7~8人正に国籍不明の鍋パーティーの賑わいに。 特に3人とはその後彼らを訪ね滞欧中何度か交誼し名前も忘れがたい。 街はアルプスそのもの2千m級の山並みが眼前に迫るが如く、空は暗い位いの青さと夜の星空は別世界。
 
 山裾の牧草地に立つと放牛のカウベル(鐘)が谷間にこだまし夢の様な時空間。
アルプスのハイジ?か、 画面と違い周囲360度回りは緑豊かな自然と匂う空気感。
しかしウッカリすると○○を踏ん付けたり、腰にヒンヤリを味わう事になる。
 
         ミュンヘン~
       
   この数日自室P.C.の無線LAN不調とフリーズに祟られその対応に苦闘、 毎夜色々と講じたが一向に解決に到らず、 業務専用機で取敢えず書込むが合間の事ゆえ、途切れ乍らの作業になりそう。
 
  ミュンヘン シャイベ社訪問 
 ミュンヘン西北に位置し 、悪名高いダッハオ強制収用所で有名だが、当時知るよしも無く訪れた。 民家からは少し離れポツンと木造の工場、 私が鍛えられた旧前田航研と同程度の規模、 町工場の風情。 手前駐車スペースか無整地の広場の先に工場。モグラ詰りモーターグライダーSF-25A並列の複座機が完成目前の姿を目にした。 塗装も終わって出荷直前か、 その脇をすり抜け作業員を捉まえお願いをした所、社長が出てきた。 益々田舎のお爺さん風、詳しいスタッフを紹介するから待つように、 若手眼鏡の中肉中背インテリらしき青年設計者のデービット・スティーブンソンだった。 工場を一通り案内頂き二階の設計室へ、 黒板の如き製図板5~6位いしかも設計は彼一人。 図面の一枚を見てビックリ!  ベルクファルケ複座のソアラー三面図が目に入った。
 
 福岡・六本松の前田師宅で見覚えの図面、 正直シャイベ社の機とは知らなかった。 師の自宅で学生先輩達と鋼管羽布張り胴体と木製翼は当時の主流だが、
その前進翼に驚嘆。 つまり平面図で翼に前進角(後退角の逆)が付いており、 
重量の変化や重心移動に対応の幅を持たした翼、 しかし捻り剛性には可なり余裕が必要で高等技術。 図面は福大か九大が輸入を検討の中で入手したらしい。
 
 仕様のドイツ語と共に匂いを嗅ぐ様に、舐めるが如く興奮に浸った覚えが。
所が目の前に設計の当事者が、 懸命にその時の模様や感想を聞かせたもの。
彼(30歳過ぎか)は米国から勉強を兼ねドイツへ来たとの事、 しかし冷静沈着な
対応は巻き舌米語ではあるものの極めて慎重に言葉を選び話してくれ話は尽きず。   
又、 英国のOSTIV(国際的技術委員会?)、ホテルでProf.サトウと同室だったそうだ。
 
 
  デービット・スティーブンソンからの提案
話は跳ぶが、3年後彼からタイプライターの手紙、 昨年現地ドイツ女性と結婚したとの知らせ。 趣旨は日本に来てグライダー造りをしたい、 そして米国への輸出を計画している、付いては一緒に起業しないかとの申し出であった。 米国内の営業ネットワークは彼なりの算段が文面から感じとられた。
 
 流石は国際的感覚の野望に我々の思いはほど遠く、 驚くと同時に感心させられ。
私は長崎で漁船・クレーン設計等の下請け、 個人経営つまりフリーで始めた時。
早速 福岡のオヤジさんに連絡し一夜話すが結論に到らず、翌日佐藤先生宅に伺い相談。 当時佐藤先生は九大定年退官後、久留米工業短期大学学長だった。
同大学を4年生大学とすべく文部省との折衝に尽力されてた時期(現久留米工大)。 
 
 旧知のスティーブンソン(イギリス・オスティブ世界大会の時、ホテル相部屋)からの手紙に眼鏡をズリ上げ身を乗り出さんばかり。 手紙熟読の上、 当時日本経済の時代背景と霞ヶ関の理解に身を挺しての苦労譚。輸出以前の国内事情の段階で困難を予想、 結果断念するハメに返事に窮した。国産グライダーの夢は消え去ったが、 ヒントを得てコマツとの開発目的に発展。
 
 同氏設計のグライダーや特にモグラは世界を席捲、 小倉空港でテスト飛行の時九州学生航空連盟(通称:学連)の学生が、そのモグラで訓練を目に、 思いは複雑。折角彼からのご指名に力及ばずは、 後年㈲福岡航研設立の起爆剤となった。
 
  爾来、シェンプヒルス、グラッスフリューゲル、ベルコウ、アカデミュッシュフリューゲル等々訪れ都度同様の経験を積み資料等入手。 現場の数々を踏み益々空への思い募るばかり。ミュヘン中心部ペンションの一室に住み暫し定住、 それら資料を毎夜整理しながら即座に着手へと逸る思い正にホームシック状態。 
 
 幸い日本脱出仲間の丸山さんがミュンヘン滞在中、ホテルレストランで部屋付きでアルバイト(ドイツ語で仕事、日本のアルバイトとはニュアンスが異質)つまり下働き中、私と違い万事に大らかが彼の尊敬すべき面。 ゾーリンゲンで別れて以来別行動で如何に連絡取れ再会できたのか今もって不明。 
 
 時に財布事情逼迫目前の私に、 彼の勧めでバイト探しの数日。 レオポルドシュトラーセ高級中華レストランのクローク(上着・手荷物等預)担当に有り付いた、時給3マルク(90円/マルク当時)。 不慣れな接客にドイツ語対応は語学研修の場に、チッブは直接懐が西洋流、 時給を越え、笑顔とダンケシェーンが身に付く。
 
 丸山さんとは同じ通りだがペンションとは反対方向。 互いに午後2時~5時迄休憩時間、彼の部屋での数時間談笑がどれだけ癒された事か。 彼と同室のドイツ青年が部屋に入るなり指先を拳銃の如く構え、いきなりヌルヌルジーベン! (ゼロゼロセブン)とおどけた姿には爆笑、 我々には間抜けた言葉にしか聞こえなかった。
 
 ホーフブロイハウス(ドイツ最大のビアホール 又 ヒトラーがナチス結党の場)
 休日はペンションとの通勤途中のイングリッシュガーデン散策。 数度ペンションから10分程のビアホール・ホーフブロイハウス(H.B.)の長テーブルで隣会った知らぬ同志でプロースト(乾杯) ! バイエルンの弦楽生演奏と喧騒は正にここがドイツ。 ビールグラスを横に寝かせると、追加のビールがゴッツイお姉さま達両手に10本位持ち歩き置いてくれる1リットル/1マルク、店の出入り口には監視員。HBマーク入りの陶器製ビールカップを記念に失敬する輩が多いらしい。
 
 そこはヒトラーがテーブルに立ち上りナチス・ドイツを旗揚げした場所としてつとに有名。 以後ビール党は本場仕込みを自称、以来心身ともに嗜んでいる。
 
 しかし最初訪れた「ドイッチュミュージアム」大ドイツ博物館がミュヘンの主目的。メッサーシュミット、ハインケル、ユンカースの爆撃機V-1・V-2ロケット、Uボート実物等々ハーケンクロイツ(鉄十字)のマーク堂々の陳列と身直に触れ感動に圧倒と羨望。 他にダイムラーの自動車の数々はマニア垂涎の場所。 控えるに日本は敗戦と共に悉く破壊抹消の遇を。 つまり歴史的遺産を破壊のみならず世界に冠たる技術遺産を抹消。戦乱の世とは云え血の結晶を消し去った時の軍部(官僚)の逃避行動は重く罪深い。 前田航研終戦解散時、全員集合記念写真の後、 軍命令で秋草等完成機焼払う。
 
 
        ゾーリンゲン、ミュンヘン、バリ、ウイーン、インスブルックの旅
                
  ドイツグライダーのメツカ(聖地) 以上に世界のと言っても過言では無い。
飛行目的では無い私も、その地に立つと感慨ひとしおの気分に浸れる場所。 
ドイツは南部アルプスを控えるバイエルン州を除き、 大地が波打つような地形。
案外平地は少ない様な記憶、 滑空場は走行中の機体が見え隠れも珍しくない。
例えばゴルフ場の様なと思えば理解頂けるかも、 冗談のようだが本当の話。
 
ウィキペディア 引用
 >オリンピック競技に代わるものに、世界滑空選手権大会がある。第1回は、1937年にワッサークッペで開催された。第二次世界大戦以降は2年おきに開催されている。
同競技会には、男女を問わないオープン競技が6種目と、女性種目と2つのジュニア種目の計9種目が含まれている。>
 
         
 当地は比較的高地で眺めも良く、斜面上昇風も望めそうな地形が散在、
当日はウイークデイと曇天の中風以上の悪コンディションでもあり、クラブハウスも閑散としていたには残念。 週末には全国各地からキャンピングカーに機体コンテナーを牽引、 家族でフライトやバーベキューを楽しんでるらしい。 
 
 機体コンテナー牽引の車両はアウトバーンで良く見かけた、 又見通し良く晴天の日はかなりの確立で空にグライダー数機も度々。 上昇気流の中2機が翼端を接するが如く旋回中、アスペクトレシオ上げ効果狙いか高等技術を駆使している。
現在のゴルフやヨツト普及の程度か、 当時(S40、1965)のドイツに於ける活動状況。
その時はただ羨ましいのひと言、 又日本では、が現実に引き戻す。
 
 当日は寒風のなか一人寂しく立ち尽くし、ため息をつき早々に引上げた。
気になったのが、 東ドイツとの国境近く遠くに境界と思しき光景が見える、
しかしベルリンの壁のような、とかは見られない簡単にとは思ったが確認出来ず。 
 
 下記アドに風景写真借用(御免)
     http://527.teacup.com/sata/bbs/3976   
 写真2番目 遠望の「鷲の碑」(ワッサークッペの象徴) もっと手近で低かった様な。
 写真3番目 曳航ウインチは6機連続発航出来る優れ物、 2~3機用は当時でも。  
 
      モーターグライダーの老舗 設計のデービット・スティーブンソンとの・・・ 
        
  当時ドイツ最古(創業1927)にして最大のメーカー、 ポッペンハウゼン集落の外れ、 道路からの眺めは数棟の工場が隣接して建っている木造平屋の工場建築。 
矢張り突然の訪問、尤も連絡しようにもTelするほど独語を話せるわけが無く、が正直な所。 
 
 いきなり設計室兼社長室に招じられた。 例によりごっついオッサンが社長のルドルフ・カイザー(前田師と似た風貌だが・・・)、と若手のゲルハルト・ワイベル二人で談笑中。 社長は製図板に半分腰をかけパンを噛り乍らの立ち話。 世界的ベストセラー Ka-6(単座), -7(複座)機等の生みの親。 ワイベルはカイザー亡き後ASWシリーズを引継いだ(後年知る)、世界的なお二人。 だが当時は知るよしも無い、ただ社長は前田航研の軍用グライダー「ク-1」双胴の兵員輸送用と「ク-10」パイロット訓練用ソアラーをご存知には驚きと感激。 
 戦時中ドイツのロケット機「Me163」を軍で「秋水」として試作、 前田航研で乗員訓練用グライダー「秋草」として生産、 斯様に当時は情報を交わしてた時代。
 
 明るいヤンキーの如き両人にほっとする。 ワイベルが工場を案内、 まず主翼工場。
手前は例の木製リブ造り、作業は私も経験済だが2M四方の作業台に女性4人が互いに向き合い、細々と冗談でも交わしての作業。 その先では主翼の桁と前縁リブにベニアを張付け(Dボックスを形成)矢張りリブ毎に薄いバネ板らしきもので締めている。  面白いのは均等に圧力を架ける様接触面は雪駄の如く木で曲率に合わせ高さを変化させた工夫に成る程。 接着剤の違いも有るが押え木で押え釘を1本づつ慎重にクギ打ちつけ、且つ袋に為らぬ様最大限の注意を必要とした難儀な作業が。 彼我の相違とギャップをマザマザと見せつけられられた。
 
 何でもない様で苦労した者のみぞ知る、 随所に散見は驚きと感嘆に終始。
同社は木製羽布張り主翼と鋼管羽布張り胴体が主流、 その胴体の製作現場では
手も体もデッカイおっさんが胴体治具を回転させながら1本づつパイプをガス溶接。
薄肉の鋼管溶接は細かい神経的な作業だけに黙々と、 しかし熱歪みは避けられない。 組上がった胴体を修正の為ガスで再度過熱の上、 局部に木を当て、思いっ切りハンマーで振り下ろしている、 瞬間ゾーッ壊さんばかりの事態?に凍りつく。
かくして胴体が次々何でも無いように7~8機分整然と出来上がっているが。
 
 ひと通り案内頂き再び社長室へ、 改めて見学の模様等でコーヒーを飲みながら質問や雑談している時、 ワイベルが突然社長が眠ってるからと社長にウインク社長ニヤニヤと笑っている。 コン(ム)メンジービッテ(来なさい)と工場裏の片隅にレンガ造りの小屋とでも30坪位いか、 中に入ってビックリ仰天「AS-12」の試作開発現場。
 
 T字尾翼のFRP製、 胴体と一体の異次元とも思えるスマートな機体に慄然、瞬間鳥肌が立った。 バルサコアにFRPをオーバーレイし、 磨きを入れ仕上がっているが内装や塗装前、 内部もジックリと見られた。 私のセキスイへの期待はこれだった。
 
 50年後の今、「ASW」シリーズは元より、 世界最先端の機体もほぼ同様スタイル。
主翼は翼端のウイングとオープンクラスではより長スパンで高アスペクト比になっているが、 私はその原型機をしかも開発中を眼にした、つまり目撃者なのだ!!!
 
 新時代の夜明けを直接目にし触れて、 反面絶望の思いが心奥に突き刺さる。
 
 ドイツでは一見何でも無い様な物が、実はその裏に途方も無い経験とワザが繰み込まれている。 ドアノブがその例、殆んど部屋のドアに使われており、全国隈無くか?アルミ製頑丈で無骨なL字型に過ぎない、手触りは滞在中手に馴染んできた。
 
 一見しただけで直ぐに可能性が見えてくる、 がしかしそれを実行するととんでもない事に陥る、 私の心に刺さったトゲが、 つまりぃ~その・・・ 言葉にし難く。  
 
 帰り際、 ワイベルが図面が入ってる引出しから1枚手渡してくれた、 「AS-12 」
の三面図だ、 思いっきりダンケシェーン!!  ビッテビッテと笑顔の御両人。
狭い室内で感じた現物以上に、 実機の想像を掻き立てて呉れる。
今回最高のお土産と成ったのは云うまでもなく、 後ろ髪を曳かれる思いで帰途。
    因みに同社のH.P. http://www.alexander-schleicher.de/
    TOPページの各機体のプロフィールは私が見た「AS-12] 原型機その侭。
 
 以上、 記憶を辿りつつ書き綴っているが、 深夜でも有りまるで先程の出来事の様に当時のシーンが蘇る。 何かが乗り移ったかの如く不思議な世界に嵌って。
余程の濃密な体験が当時にワープし動かされてるのか、 延々と思い出が。
昨日、何を食べたのか暫く時間が罹る昨日今日、 数年前古希を過ぎた今。
 
 折角の機会でもあり、 翌日近くのグライダーのメッカ「ワッサークッペ」へ
 
    次回 ⑱-2 ワッサークツペ 散策          
         

  

 西ドイツには5年程滞在し航空関係の設計や現場体験、 事業の状況把握と生活。あわよくば就職し滞在を、 残念乍ら前年かEEC(当時:現EC)域外者に規制を知る。
アルバイト・パーミツション(労働許可)が取れず各社訪問の旅が、いきなり高いハードルに。
 
 予め訪問先は洋誌から目途、主だった各社は突然の若者訪問にも、社長や設計者
自身が工場内隈なく説明と見学を許可、量産中の最新機や開発中の機体も数々。
実は、九大・佐藤博教授(戦前九大航空科創設の為ベルリン大学留学)は上層部知己多く、 教授は前田建一師と戦前より共にグライダーの創生紀を築き、 機体検査官として師と自宅に数度訪ね航空局提出資料の打合せに同道してた顔見知り。 
プロフェッサー「サトウ」、「マエダ」の名は各社相応の対応と手厚くが有難かった。
 
 後年、 ㈲福岡航研でA.C.M.(アドバンスド・コンポジット・マテリアル : 先進複合材料)製軽飛行機試作開発で荷重試験に佐藤先生立会った際、 主翼構造がスパー(桁)のみでスッポンポンの中を覗き、もう私らの時代じゃゴザッせんと賛辞を頂き更に破壊試験を勧められ実施。 世界一周無着陸機「ボエジャー」に一週間遅れのロールアウト。

イメージ 1

              ACM(カーボン・ケブラー)製 軽飛行機 α-1
             S60~62(1985~87) 開発~1987/1/6 初飛行
B12.4m  L6.2m  H2.1m W240kg  We145kg  E38ps  Vmax102km/h  Vmin44km/h 
 機体構造重量 75kg   機体全構造ACM製は今尚世界最新鋭 ?
 
 西ドイツ、グライダー(フルークツォイク・バウ)各社訪問                          
    最初に訪れたのは、アウトバーン、シュテュットガルトから東に入った「シェンプヒルス(ト)」社 木造の工場で門や塀等は無く道路からも作業風景は覗ける、 各社同様な光景は今も浮ぶ。 訪問の趣旨を告げると社長直々のお出ましに思わず緊張、 細面の英国紳士然のスーツ姿。 断っとくが挨拶程度はドイツ語だが殆んど英語で通した。 当地では高校程度の人達は大概通ずる、フランス語もかなりなもの。 一般的な印象に過ぎないが、英語圏以外の人が話す英語が私の耳に通じ解り易い。 
 
 社長は私の来訪にいきなり日本との係りでプロフェッサー・サトウの名が、 一瞬驚いた。  佐藤先生はお会いするも二歩も三歩もの距離で拝む様な存在だから。
社長直々の案内で主翼、尾翼、胴体等の木工の作業現場は整然と並び、思わず頬ずりしたくなる様な温もりを感じたもの。 目の前にズラッーと本物の光景が、しかも作業員達の手で手際よく次々と形が露わに成り行く工程が不思議に思えた。
私の経験からは想像を越えた世界、 正に世界へ輸出は7割を越えるとか。 
機体の型式は忘れたが、 木製羽布張り単座丸胴体・単座のソアラー「スタンダード」クラス機(主翼幅15m)。  当時 最もポピュラーなクラス。
 
 日本との違いは接着剤と材がスプルース、片やカゼイン(牛乳由来成分)とヒノ木。
特にカゼイン(粉)は水の溶き具合でダゴ(だんご状)に為り易く、且つ圧着(5kg/c㎡以上)は段取りと時間に追われる、つまり生産性とてもでは無い。 一方目の前ではゴムバンドやベルト様のもので〆る程度。 主要構造部材の接着現場でもいとも簡単に。  接着剤はコゲ茶色のアラルダイト(エポキシ系樹脂)だった。 
 
 しかも接着剤をパテ代わり仕上面に塗りつけ水ペーパーで磨きを、恰も鏡面の如く。
いきなり目からウロコ。 胴体はベニアをくり抜いた(糸鋸で)スパント(断面形状を形造る)外縁に接着剤を塗り付け、外板ベニアを被せ自転車チューブで締め付ける。
しかも、 胴体をダクトとして温風を送って乾燥をしており、 彼らの合理性はその後
も至る所で目にし味わう事となる。  しかし製品は精細・精密さは行届いていた。 
 
 現実、 日本の当局(当時運輸省航空局)での許認可がチラつく、 後年実務で度々
出入りし応分の成果を挙げたが。 当時 師の話で航空再開直後か横浜在のS(?)さんが木製複座機を、当時発売され始めたたボンドで接着、完成したが不許可に。
尤も製作に当っては予め設計図書や使用材料等は申請の筈、 戦後のドサクサか。
 
 その後も各社現場を見る度に、日本では果しての現実問題が頭を翳める。
 
 ドイツ人は一般日本人と違いごっついオツサン、 農家の朴訥なお百姓さん風。
あの姿態で、スマートで流れる様な流線型、洗練され精緻を尽くされたグライダー。
を, 始めワーゲンやポルシェ、ベンツ等工業製品の数々は、 今もって不可思議。
 
      秘密の最新鋭機、開発現場、 飛翔のメッカ、ワッサークッペ    
               
  航空の夢は会社や国内での活動に限界を悟り、 折から昨年東京オリンピック(1964、S39)渡航制限も緩和されチャンス到来とばかり脱出に賭ける。 
当初米国で小型軽飛行機関係を目的に日頃から心の準備をしていたが、 本社米会話講習の際知合いの丸山さんとヨーロツパへの感心が芽生える。
 
 彼は数多くの国が燐接するヨーロッパ所謂漫遊?の旅。 私はドイツでのグライダー工場見学と技術習得、 ドイツはグライダーのメッカ憧れの地。 専用滑走場300以上(西ドイツ)あり、 一方日本は航空活動7年間の空白で、彼の国の強かさが伺える。 サッカー、ドライブに継ぐポピュラーなスポーツに思えた。
 
 目的は違えど脱出は一緒に、 準備は小1年例のジャズ喫茶で打合せ、パスポートや渡航手続き日本交通公社、ロシヤ経由に海路を山下新日本汽船(乗船予約)等。
ドイツ、ロシアのビザは公社で手配も、 共産圏東ドイツ(当時)は国交なくモスクワで取得の必要に不安が過るが当時格安のコース、未だ渡航は昨年始まった許り。
 
 セキスイ退職前は昼休みも屋上で体力温存にスポーツ等一切断ち、 只管昼寝。
だが寮の悪?先輩の勧めで、運動を辞めた油断がタバコを嗜む、以来今も尚。
 
 有給も残の消化を兼ね、 長崎(当時家族在)に帰省し歯の治療や身の回り準備。
久々家庭の温もりを味わう、 寮生活の丼飯と違い茶碗にひと時家庭生活を堪能。
両親, 弟妹達は遠くへ旅発つ私を気遣う空気は重く、 水盃の如く別れを惜しむ。 
 
 長崎出発博多~新大阪から横浜迄、新幹線は初乗り、早朝にも係らず沓掛(同期入社:信州大工学、既に係長)さんがホームで待機見送りに、嬉しく有り難かった。
 
 愈々横浜サウスピア(南埠頭)で 出国手続きに数時間を要しロシア客船バイカル号(5千トン?)に乗船、船室に荷物を置き早々デッキへ。 須藤さん、小方・河野君が手を振って呉れているが多勢の見送りに凝視しないと見失う距離、 沢山のテープが交わされ盛大な船出に感激、暫しの別れを惜しむ。
 
 12時出港で、落ち着く間もなく昼食、未だ東京湾内決められたテーブルに招じられ
早速こってりのロシア料理、 油ぎったライスにミルクをかけた上バターがのってる。 モスクワまで5日間食事は万事この類、当夜のメニューもフルコースを食後に予約。 
 
 所が太平洋に出た途端上下左右揺れは激しく。 早くも船酔いに夕食は半数以上
姿無く閑散。 同室6名の内2名(男女別室)が一晩中ダウンし戻している。  
周囲は、 上智大生ロシア語科で弁論大会優勝のご褒美とか、 東ドイツ炭鉱へ研修の沖縄八重山から若い二人連れ、 早稲田大探検部でヘルシンキを目指し北欧
の北端を目指すらしい。 各人各様の目的や夢を持ち同行中思いを語り合う船旅。
 
 翌夕刻津軽海峡通過の際遥かに北海道松前、青森竜飛岬を遠望、日本に別れ。
出発以来翌々朝ロシア・ナホトカ到着入国手続きは船内で行われ上陸後荷物検査に数時間、 持参のタバコ・ピース1箱を審査官に集られ早速外国の不条理を知る。
 
 港から駅まで荷物を手に徒歩行、 数時間ホームに待たされ列車に、既に夕刻。
ベンチには若い女の子供達が数人、 透き通る白さに青い目彫り深い顔立ちはまるで人形さんの様だ。 恐らく10歳そこそこか、殺伐とした駅と周辺の差異が異郷。
 
 列車はコンパートメントで二段ベッド4人部屋、広軌の大陸鉄道部屋も備付備品も
大型、窓際には固定のテーブル幸い丸山さんと二人のみ、 暮行く車窓を眺めるものの行けども広大な原野が際限なく。 夜間点々と灯りも瞬時通過、途中停車駅では線路工夫の姿、 デッカイ中年女性もツルハシを手にしている。 成程 男女同権とは
そ~なのか妙に納得。 翌朝も又同様な景色には少々見飽きるが翌朝ハバロフスク駅に到着。バスに揺られ空港へ、 待たされた挙句予定3時間遅れの出発とか。
空港のロシア機撮影に構えた途端何処からか現れ遮られる。
 
  臨時のバスで観光、日本人墓地へ粗末なセメント作り等身大の枠で囲われており、 その数3~40。 比較的清掃は行き届いており、 黙祷としばしの時を過ごす。
次アムール川河畔に案内、流れは比較的ユッタリだが土色の泥流。 対岸は微かに気配程度の雄大な見晴らしに圧倒され、遥か遠くの山を指差し中国領と案内人。
  
 ここで、 度々ロシアと言っているが当時「ソビエト連邦」が正式呼称、 時は冷戦の最中で東欧等共産圏内は常に緊張感が伴なっていた。 積水退職直前の7月、
総務受付から、 警察の方が見えてると電話で呼びだされた、職場の皆からエッと
驚きの空気。 オットリ刀で応接室へ私服の警察官から警察手帳を提示され応対。
 
 今回ロシアに行くそうだが目的や期間、訪問の地等細々聴取、目的の趣旨を確認後付いては情報収集に協力をとの事。 帰国後何でも良いからあらゆる情報を集めているとの趣旨、公安警察だった。 外国が稀有な時代、それもソビエトだから余計。
ロシアのビザ(それも通過ビザだが)申請は公安迄通じてるとは少々驚いた。
 
 ハバロフスク空港は軍民共用、遠くに軍用機は見えるが戦闘機は確認出来なかった、 午前中に到着したが早くも夕暮れロシアから東ドイツを出るまで常に夜行で
旅の楽しみを削がれてる。 愈々モスクワへ8時間半の空路、機体はツポレフ114、
戦略爆撃機ベアーの旅客機仕様。 4発の二重反転大口径のターボプロップ、プロペラ機はゾクゾクする。 当時ロシアはミグ、イリューシュン、アントノフ等々先鋭的なラインナップはロシア独自の特徴があり、フライング等雑誌での詳報は興味深々。
Ту-114 «Россия» Tu-114 «Rossiya» (Cleat)
乗機の「TU-114(ツポレフ)」ターボプロップ二重反転プロペラが特徴、貴重な体験。 
西側では「ボーイング707」や「ダグラスDC8」、「コンベア880」等4発ジェットの時代。
 
 ワクワク感に感激しながら乗込み着席、所が翼付根付近で窓は小さく少ない、我々の席だけ対面シート、途中向席の女性と交替。
スチュワーデスはブクブクの叔母ちゃん連中、通路が塞がれてる。 対応はゾンザイでニコリともしない、共産圏内では総じてこの様な扱い、ナホトカからの列車もほぼ。
 
 エンジン始動でランウエイから離陸緊張の瞬間、眼下を覗き見る事も出来ず不愉快此上無し。 上昇時は最大出力だけに振動騒音共に大きく、寧ろ胎動がフアンとして時に興奮の時。 30分過ぎたころ即ち水平飛行に移った後も主翼装着のエンジンの振動騒音が直接伝わる。 飛行中モスクワ空港到着まで悩まされたには往生こいた。 3時間の時差もあり深夜1時頃、殆んど横浜からの団体の如き客集団。 バスで1時間以上点々とホテルへ降ろし、最後となりホテル「オスタンキーノ」にチェックインは3時前、翌日は東ドイツ大使館を探しビザ取得をしなければと焦りが募り爆睡。
 
 翌朝ロビーで昨日機内で乗り心地に体調崩してた商社勤務の女性二人、休暇で
両親赴任のウイーンを訪れるとか共にビザを、タクシーで同道。 共産圏は英語は通じ難い第二外国語はドイツ語の様だ、 しかし運転手はロシア語で構わず捲し立てる、我々の理解関係なく。 ウロ覚えのドイツ語で無事ビザ取得、 帰途赤の広場正面のグム国立百貨店へ寄る、 規模は大きいが品数客共に閑散。 外人客はドルしか使えないらしく、 この際貴重なドルは温存、 見るだけの観光に留めた。
 
 モスクワ駅行きの送迎バスをホテルロビーで待つ間、 紳士から声掛けられしばし雑談、 のち知るが東京女子医大心臓外科の榊原教授、北海道医大初の心臓移植で度々紙上やTVで見かけたお方。 ドイツ行の夢を聞きミュヘンの学会に行く所で、
何月何日何時頃ミュヘンのドライベン・ブロイ(ビアホール)で会食の予定なので、都合つけば来なさいと誘われたが、それきりに。 当時の渡航はとてもの方達との廻り合いもある。
 
 モスクワ駅でパリ行き国際列車に乗車、 同じくコンパートメント食事は食堂車で、
全て旅費に含まれており国境通過も換金は一切不要なのが助る。 車中ドイツ女性の主婦だとか底抜けに明るいスーパー母ちゃん、日本を一人で楽しんだ帰途らしい。
憶えたての日本語に英語で語るが、いつの間にやらドイツ語を早口で移行してしまう、 そして一人手を叩き又大笑い。 単調な旅にまわり一堂癒された事か。
 
 ポーランド国境で入国手続きは3時間余り停車、 荷物検査等軍服らしき官吏との遣り取りは共産圏全て国境事に煩わされる。 車外を見渡すと長大な列車が一斉に2~3M持ち上げられている。 広軌から狭軌用に台車の一斉交換、 丁度湾曲の線路上で遠く先頭と最後尾が見通せたのは壮大な景色。 線路両側にスタンド式の油圧設備が設置され。 所代われば・・・の類、いやはや、ヤルーッ!!  私たちは車輌諸共空中に浮んでいる。 周囲景色は晩夏の見渡す限り麦畑、 絶景なるかな五右衛門気分に浸る。
 
 ポーランドは当時最先端グライダー「FOKA」(フォーカ)生産の地、仰向けに搭乗し操縦するスマートな機体は革命的で以後殆んど競うが如く同スタイルに。
青空の下どこかで産み出されてると思うと、 憧れに恋心とはこの様なものなのか。
食堂車で外国映画スターの様な薄いサングラスの青年、飲み物を勧められ車窓を眺めながらの懇談、 珍しく流暢な英語のポーランド人。 件の話に及び相槌再々に
も時折ロシアに対する複雑な思いと国への愛着に笑顔が印象に残る。 壁に耳有りの事情、 ドイツだか自由圏には旅馴れた感じだが詳しくは触れなかった。
 
  国境の町凍てつく「ベルリン」
 東ドイツを抜け東西ドイツ国境のベルリンは深夜、1時間程度停車だったか、乗員の乗り換えか。 駅構内ホーム共電球で薄暗い不気味な緊張を醸している。 カーテンを少し開いて見渡すと、 歩哨の兵隊が10M置き位に、列車を取り巻く様に銃を
斜め下に構えた姿。  薄明かりに黒く直立不動の影は、 鉄兜と銃のみ不気味な光を放ち緊張は今旅で最高度に。 正に東西冷戦の最前線! 東西ベルリンの町は東ドイツのほぼ中央部に位置し、 西ドイツとは一本の道路と鉄道で結ばれただけの云わば陸の孤島。 ベルリンの壁崩壊は記憶に新しい。
 
 翌早朝、 私達の旅の終着駅、 西ドイツ側国境の町ハノーバーに到着。 
果たして何処で超えたのか? 入国審査、手荷物検査は?? 別な不安がよぎる。
後で不法入国の咎を受けないかとか・・・???。 何でも無かったかの様な光景。
 
 晴れて自由主義世界に戻った、 万歳を叫びたいくらいの開放感!、社会復帰だ!!
総じて共産圏はどんより薄曇り、風景は殺伐、人々は活気無く不信感の眼差し。
常に監視の目を意識、 何かの度に横柄な対応に内心ストレス溜る一方だった。   
 
 帰国の途、 再度同じコースをしかも厳寒の季節辿るのだが西側とのギャッブ
益々つのるばかり。 
 帰国後 後年、左翼学生達の過激な姿に一見は百聞にしかず、 を献上したく。
  
 ともあれ晴れて西ドイツの地を踏み、改めて周囲を眺め、 朝日に映え緑豊かな自然や街並み。 整然とした道路や並木、 小奇麗な家々まるで「おとぎの国」だ。
今は海外旅行盛んで簡単に行ける時代、 ドイツ・オランダは必見の地と思うが。
 
  次回 ⑱ 憧れのドイツ
          グライダー工場で・・・滞在の日々をチョコッと・・・。
                 
 社内では提案制度があり提案箱が職場毎に配置、 社員誰でも仕事や職場で気付いた事を提案出来る。 それらは労使の委員会(?)で協議し評価、比較的早期に実現が為され、 快適な職場の改善や時に技術や設備にも触れ、広範多岐に渡る。
 
 若い優れ者集団だけに、 しかし会議での発言機会が少ない現場サイド社員のアイデアは、 設計に当り具体的且つ視点を換えたヒントは難題解決への道が拓けた。
 
 私担当の延伸フイルムでは、 フイルムの厚みのバラツキの解決に悩んでいた。
温度分布か、フイルム素材由来なのか、 何しろミクロン単位のレベルに過ぎないが
巻き取ったロールでは明らかにデコボコが現れている。  現場で開発作業に当っている先輩社員のOさん(大学で化学専攻)から、 周囲から冷却空気を均等に吹き付けバラツキを補正の提案。 新たな装置を開発設置、環境は130℃。 技術的解決の難題は種々有ったが、 かなりな改善が見られ商品化に一歩近ずいた。 
その提案はのち特許取得と会社創立祈念日に工場長表彰を授与された。
 
 バスケツトやテニスコートも工場裏ハズレの田圃を買収、 新設されたのも同様の訴えが功を奏し整備は有難かった、 尤も暫らく部員の整地作業を伴ったが。 
忘れもしないS39/10/10(1964)そのコートで昼休みプレー中、 ジャンプシュートし着地の際仲間の足上に、 転倒し捻挫。 幸か不幸か医務室で東京オリンピック開会式実況中継を聴いていた。 当夜杖代わりの木刀を買求めたが、腫れは益々まるで
象の足の様に、 その後完治せず今も冷えると痛みを覚える。
 
 バスケツト部に総務の林課長(京大でプレー・宮崎出)に部長就任を願い、部はこれからの時、残念ながら部活は勢いを欠き、 部も昔の姿に戻ったのは残念至極。
 
 慰安旅行
 会社や健康保険組合、労働組合からの補助で年2度の慰安旅行や、借り上げられた
「海の家」に行った楽しい思い出の一枚、 写真は海水浴で仲間と若狭高浜に。
セキスイ海の家
           写真右端、当時は運動でガリガリだった。
 
 航空機開発の夢再び
 開発の仕事もほぼ目途が付き、 スポーツを絶たれ航空の夢再び擡げ出したのも
この頃。 オリンピックを機に渡航が自由化、外貨持出し枠500ドル(360円/ドル)。 
予て日頃温めていた外国で航空への取組みを真剣に、 幾許かの貯金も少々。
当時、 寮ではマージャン全盛の時代95名程度の内、嗜まないのはホンの数人。
給料日、各仲間内の貸し借りの清算がアチコチで、 連休に帰省費用負担も抱え。
 
 今以ってゴルフ、マージヤン、車とは無縁の人生、 ヨットは船舶免許、 66才で原付免許取得は酔っ払い運転自制の年頃を自覚、 晴れて爆走?で余生を楽しんでいる。
 
 追々⑰と同時並行で追記の予定、 都合4年半の在籍だが周囲の温かい先輩同僚達との交流は、唯一のサラリーマン生活。 青春を謳歌は濃厚且つ広範囲に及ぶ。
 
 
  次回 ⑰ 夢に燃えドイツへ