この数日自室P.C.の無線LAN不調とフリーズに祟られその対応に苦闘、 毎夜色々と講じたが一向に解決に到らず、 業務専用機で取敢えず書込むが合間の事ゆえ、途切れ乍らの作業になりそう。
 
  ミュンヘン シャイベ社訪問 
 ミュンヘン西北に位置し 、悪名高いダッハオ強制収用所で有名だが、当時知るよしも無く訪れた。 民家からは少し離れポツンと木造の工場、 私が鍛えられた旧前田航研と同程度の規模、 町工場の風情。 手前駐車スペースか無整地の広場の先に工場。モグラ詰りモーターグライダーSF-25A並列の複座機が完成目前の姿を目にした。 塗装も終わって出荷直前か、 その脇をすり抜け作業員を捉まえお願いをした所、社長が出てきた。 益々田舎のお爺さん風、詳しいスタッフを紹介するから待つように、 若手眼鏡の中肉中背インテリらしき青年設計者のデービット・スティーブンソンだった。 工場を一通り案内頂き二階の設計室へ、 黒板の如き製図板5~6位いしかも設計は彼一人。 図面の一枚を見てビックリ!  ベルクファルケ複座のソアラー三面図が目に入った。
 
 福岡・六本松の前田師宅で見覚えの図面、 正直シャイベ社の機とは知らなかった。 師の自宅で学生先輩達と鋼管羽布張り胴体と木製翼は当時の主流だが、
その前進翼に驚嘆。 つまり平面図で翼に前進角(後退角の逆)が付いており、 
重量の変化や重心移動に対応の幅を持たした翼、 しかし捻り剛性には可なり余裕が必要で高等技術。 図面は福大か九大が輸入を検討の中で入手したらしい。
 
 仕様のドイツ語と共に匂いを嗅ぐ様に、舐めるが如く興奮に浸った覚えが。
所が目の前に設計の当事者が、 懸命にその時の模様や感想を聞かせたもの。
彼(30歳過ぎか)は米国から勉強を兼ねドイツへ来たとの事、 しかし冷静沈着な
対応は巻き舌米語ではあるものの極めて慎重に言葉を選び話してくれ話は尽きず。   
又、 英国のOSTIV(国際的技術委員会?)、ホテルでProf.サトウと同室だったそうだ。
 
 
  デービット・スティーブンソンからの提案
話は跳ぶが、3年後彼からタイプライターの手紙、 昨年現地ドイツ女性と結婚したとの知らせ。 趣旨は日本に来てグライダー造りをしたい、 そして米国への輸出を計画している、付いては一緒に起業しないかとの申し出であった。 米国内の営業ネットワークは彼なりの算段が文面から感じとられた。
 
 流石は国際的感覚の野望に我々の思いはほど遠く、 驚くと同時に感心させられ。
私は長崎で漁船・クレーン設計等の下請け、 個人経営つまりフリーで始めた時。
早速 福岡のオヤジさんに連絡し一夜話すが結論に到らず、翌日佐藤先生宅に伺い相談。 当時佐藤先生は九大定年退官後、久留米工業短期大学学長だった。
同大学を4年生大学とすべく文部省との折衝に尽力されてた時期(現久留米工大)。 
 
 旧知のスティーブンソン(イギリス・オスティブ世界大会の時、ホテル相部屋)からの手紙に眼鏡をズリ上げ身を乗り出さんばかり。 手紙熟読の上、 当時日本経済の時代背景と霞ヶ関の理解に身を挺しての苦労譚。輸出以前の国内事情の段階で困難を予想、 結果断念するハメに返事に窮した。国産グライダーの夢は消え去ったが、 ヒントを得てコマツとの開発目的に発展。
 
 同氏設計のグライダーや特にモグラは世界を席捲、 小倉空港でテスト飛行の時九州学生航空連盟(通称:学連)の学生が、そのモグラで訓練を目に、 思いは複雑。折角彼からのご指名に力及ばずは、 後年㈲福岡航研設立の起爆剤となった。
 
  爾来、シェンプヒルス、グラッスフリューゲル、ベルコウ、アカデミュッシュフリューゲル等々訪れ都度同様の経験を積み資料等入手。 現場の数々を踏み益々空への思い募るばかり。ミュヘン中心部ペンションの一室に住み暫し定住、 それら資料を毎夜整理しながら即座に着手へと逸る思い正にホームシック状態。 
 
 幸い日本脱出仲間の丸山さんがミュンヘン滞在中、ホテルレストランで部屋付きでアルバイト(ドイツ語で仕事、日本のアルバイトとはニュアンスが異質)つまり下働き中、私と違い万事に大らかが彼の尊敬すべき面。 ゾーリンゲンで別れて以来別行動で如何に連絡取れ再会できたのか今もって不明。 
 
 時に財布事情逼迫目前の私に、 彼の勧めでバイト探しの数日。 レオポルドシュトラーセ高級中華レストランのクローク(上着・手荷物等預)担当に有り付いた、時給3マルク(90円/マルク当時)。 不慣れな接客にドイツ語対応は語学研修の場に、チッブは直接懐が西洋流、 時給を越え、笑顔とダンケシェーンが身に付く。
 
 丸山さんとは同じ通りだがペンションとは反対方向。 互いに午後2時~5時迄休憩時間、彼の部屋での数時間談笑がどれだけ癒された事か。 彼と同室のドイツ青年が部屋に入るなり指先を拳銃の如く構え、いきなりヌルヌルジーベン! (ゼロゼロセブン)とおどけた姿には爆笑、 我々には間抜けた言葉にしか聞こえなかった。
 
 ホーフブロイハウス(ドイツ最大のビアホール 又 ヒトラーがナチス結党の場)
 休日はペンションとの通勤途中のイングリッシュガーデン散策。 数度ペンションから10分程のビアホール・ホーフブロイハウス(H.B.)の長テーブルで隣会った知らぬ同志でプロースト(乾杯) ! バイエルンの弦楽生演奏と喧騒は正にここがドイツ。 ビールグラスを横に寝かせると、追加のビールがゴッツイお姉さま達両手に10本位持ち歩き置いてくれる1リットル/1マルク、店の出入り口には監視員。HBマーク入りの陶器製ビールカップを記念に失敬する輩が多いらしい。
 
 そこはヒトラーがテーブルに立ち上りナチス・ドイツを旗揚げした場所としてつとに有名。 以後ビール党は本場仕込みを自称、以来心身ともに嗜んでいる。
 
 しかし最初訪れた「ドイッチュミュージアム」大ドイツ博物館がミュヘンの主目的。メッサーシュミット、ハインケル、ユンカースの爆撃機V-1・V-2ロケット、Uボート実物等々ハーケンクロイツ(鉄十字)のマーク堂々の陳列と身直に触れ感動に圧倒と羨望。 他にダイムラーの自動車の数々はマニア垂涎の場所。 控えるに日本は敗戦と共に悉く破壊抹消の遇を。 つまり歴史的遺産を破壊のみならず世界に冠たる技術遺産を抹消。戦乱の世とは云え血の結晶を消し去った時の軍部(官僚)の逃避行動は重く罪深い。 前田航研終戦解散時、全員集合記念写真の後、 軍命令で秋草等完成機焼払う。
 
 
        ゾーリンゲン、ミュンヘン、バリ、ウイーン、インスブルックの旅