只今平成27/12/31 午後11時前、 つまり大晦日間もなく新年を迎える。
毎夜の事だが8時過ぎ就寝、当夜起床は相変わらず、生活習慣は又年を跨ぐ事になる。
年越し準備は20日頃よりボツボツ始め本日の5時過ぎほぼ終えた、 その後一杯で一眠り。
現在TVQで年越し「ジルベスターコンサート」オーケストラ演奏でクラツシックが流れてるが静寂。
丁度50年前、この瞬間をミュンヘンで迎えた。 ドイツは通常でも土・日・祝日はデパート、商店やレストランも全て閉店。 認識不足は食べ物に窮す、街中を彷徨うごとく探し歩きミュンヘン市庁舎付近だったか、下駄箱程度のロッカーでガラス窓の様な自動販売機にコインを投入。 黒パン、牛乳、ワイン、チーズ、ハンバーガー等を買う、この手の販売形態は未だ日本では無かった? 救われた思いで抱えて歩く内に同年齢位か日本人青年と出会った。 日本人商社マンの家庭でご馳走になった帰りらしい、互いに話を交す内バツグからゴソゴソと新聞紙に包んだオニギリを4個差し出して呉れた。 正に地獄に仏! それもまだ暖かさも残ってる様な海苔巻、しかも梅干入り!! 即、丸山さんと口にほお張る、こちら食べ歩きは普通の作法、郷に従って。 夢にも似た懐かしさとウマさに感激 恐らく五本指に入る、最早珍味だ!
先述したが、街中のペンション暮らし、窓は二重窓でその空間が冷蔵庫代わり。
黒パン、牛乳、バター、チーズ、ハム・ソーセージ等を保管していた。 黒パンは大きく脇に抱えパンを廻しながらナイフで1枚ずつ切る、1個で約1週間は持つ大きさ、牛乳は1リットルのビン入り。 外はマイナス15~20℃の極寒、雪は2~30cm程度積もっているがパウダースノー、 極度の乾燥から手で握っても固まらないケタぐると粉の散るが如く。
しかし室内は暖房で暖かく下着のみで過ごせる。 湯沸しはIHIかガスレンジ?高温になるが炎は見えず赤熱も無い記憶定かでないが、時折持参の緑茶大切に味わう。
忘れてたが、水道の水は飲まない(飲めない)、水は沸すか買う物とは驚いた。
値段はほぼビール程度の価格だった記憶、ビール瓶を水筒代わりがドライバーも。
硬水の為、石鹸の泡立ちも歯痒い位いに悪い、洗濯物はバスタブに長時間浸し纏めてトイレで使用如きパッコン棒でシゴイている。
9月末ごろゾーリンゲンを去る際に、南は寒いから止めとけと誰かに忠告された。
ミュンヘン含め当バイエルン地方は500M程度の高地、数十キロ南方はアルプス。
聞いた当時キツネに抓まれた様な妙な気分、日本とはまるで逆にポッカ~ン。
話は常に前後するが、ゾーリンゲンから来た当初はユースホステル滞在が常。
朝10時頃チェックアウト、午後4~5時頃チェックイン男女別々の部屋割り、10~20人程度2段ベッドの大部屋、夫々勝手に休むが団欒は食堂かロビーで過ごしていた。
タバコは自由だが酒類はご法度で11時消灯、まだ晩酌習慣が無かったのが幸い。
ミュンヘンの宿(ユースホステル)や街はほぼヨーロッパ中央に位置しており、ヒッチハイカーには人気宿、従って最大クラスの規模だった。 概ねドイツの若者は3~4割程度、世界各国から一夜限りの寄り合い、グループより単独行動が大半、気の合う同士で国際的ディスカツションが夫々のテーブルや庭先で交されている。又次の旅先の情報交換も地図を指しながら、互いに慣れない言語(ほぼ英語)でのやり取り。
日本人は未だ少なく、拙い英語駆使も慣れたもの。 偶に同じ日本人が同席すると、拙い方が口不調法になるのは仕方無いが、 同じミュヘンの街中で日本の若者が言語ノイローゼに陥り日本語もシドロモドロに。 領事館を教え別れたが準備不足の侭日本を飛び出したのだろう。 多少の会話力を身に付けてたのが助かった。
朝三々五々の別れ、行く先はパリ、ウイーン、チューリツヒ、ブリュッセル、ベルリン、ロンドン、アムステルダム、北欧へと歴史か地図上でしか知らない地名が目的地。 殆どがリュックを背負ってのヒッチハイクだがほぼ一日で届く距離。 やがて私も彼の地に行く事と成るのだが、まるで感覚が違う。 国境越えも一切検問は無く素通りには面食らった、当初は記念に都度車を止めてパスポートにスタンプを押して貰っていたが、やがて面倒になり止めた。
ヒッチハイクでの景色や異人さんとの会話も楽しみのひとつ、 アウトバーンに乗れば長距離に有り付けるが街中から入り口迄辿り着くのが運不運を分ける。
国境毎に貨幣が変わるのでバスや電車用の小銭持合せず従って前述の如くに。 会話でドイツ国内での地方訛りの違いも次第に、オーストリアやスイス人のドイツ語の違いに会話から出身も判りだした。 地を這うかの如き移動は観光旅行とは全く別な趣と体験、ドライバーの厚意で食事や一宿の恩恵に授かる事も度々。
特にドイツでの体験だがヒッチハイクに日本の国旗は重宝だった。 車を止める際都市近郊では多くのヒッチハイカーが親指を立て客引きの如く連なってるが、ドイツは親日国家、つい20年前まで連合国相手 共に戦った同士。 しかも最後迄頑張った故尊敬の言葉も再々、今度やる時はーっと、又戦をやる積りか豪の者もいたが。
枢軸三国のひとつイタリアには逆の感情を持っていたのも、むべなるかな。
止める確立は非常に高く、知合った友と同道の際、彼は隠れ止め役をする事も。
複数は中々捉らず難しいが、隣合った同士哀願される事も数度と無く有った。
但し、日本人少ない時でもあり子供からキネジッシュ(中国人)と指差されは参った。
面白いのは歴史上、普仏戦争で領土は入組み交互に且つ収奪の結果か、小さなスイス・ベルギー・ルクセンブルグ等国内の東西でドイツ・フランス語とつまり交わす言葉が違う。 又ドイツ語圏ではビール、フランス語圏ではワインがお茶代わりに飲まれている。 何度か触れたが乾燥した空気は喉の乾きを殆ど覚えなかったが、例えばカフェでの一杯は地ビールかワインで潤す。 仕事中やドライバーも、である。
食事やスープも国により微妙に違う。 僅か数時間でスリ抜けられる距離(県以下)だが明らかな違いは歴史文化の違いで有り、家々や街の佇まいも一変、国境越えに気付く。
次回 ⑳-3 パリ 花の都 ?