航空の夢は会社や国内での活動に限界を悟り、 折から昨年東京オリンピック(1964、S39)渡航制限も緩和されチャンス到来とばかり脱出に賭ける。 
当初米国で小型軽飛行機関係を目的に日頃から心の準備をしていたが、 本社米会話講習の際知合いの丸山さんとヨーロツパへの感心が芽生える。
 
 彼は数多くの国が燐接するヨーロッパ所謂漫遊?の旅。 私はドイツでのグライダー工場見学と技術習得、 ドイツはグライダーのメッカ憧れの地。 専用滑走場300以上(西ドイツ)あり、 一方日本は航空活動7年間の空白で、彼の国の強かさが伺える。 サッカー、ドライブに継ぐポピュラーなスポーツに思えた。
 
 目的は違えど脱出は一緒に、 準備は小1年例のジャズ喫茶で打合せ、パスポートや渡航手続き日本交通公社、ロシヤ経由に海路を山下新日本汽船(乗船予約)等。
ドイツ、ロシアのビザは公社で手配も、 共産圏東ドイツ(当時)は国交なくモスクワで取得の必要に不安が過るが当時格安のコース、未だ渡航は昨年始まった許り。
 
 セキスイ退職前は昼休みも屋上で体力温存にスポーツ等一切断ち、 只管昼寝。
だが寮の悪?先輩の勧めで、運動を辞めた油断がタバコを嗜む、以来今も尚。
 
 有給も残の消化を兼ね、 長崎(当時家族在)に帰省し歯の治療や身の回り準備。
久々家庭の温もりを味わう、 寮生活の丼飯と違い茶碗にひと時家庭生活を堪能。
両親, 弟妹達は遠くへ旅発つ私を気遣う空気は重く、 水盃の如く別れを惜しむ。 
 
 長崎出発博多~新大阪から横浜迄、新幹線は初乗り、早朝にも係らず沓掛(同期入社:信州大工学、既に係長)さんがホームで待機見送りに、嬉しく有り難かった。
 
 愈々横浜サウスピア(南埠頭)で 出国手続きに数時間を要しロシア客船バイカル号(5千トン?)に乗船、船室に荷物を置き早々デッキへ。 須藤さん、小方・河野君が手を振って呉れているが多勢の見送りに凝視しないと見失う距離、 沢山のテープが交わされ盛大な船出に感激、暫しの別れを惜しむ。
 
 12時出港で、落ち着く間もなく昼食、未だ東京湾内決められたテーブルに招じられ
早速こってりのロシア料理、 油ぎったライスにミルクをかけた上バターがのってる。 モスクワまで5日間食事は万事この類、当夜のメニューもフルコースを食後に予約。 
 
 所が太平洋に出た途端上下左右揺れは激しく。 早くも船酔いに夕食は半数以上
姿無く閑散。 同室6名の内2名(男女別室)が一晩中ダウンし戻している。  
周囲は、 上智大生ロシア語科で弁論大会優勝のご褒美とか、 東ドイツ炭鉱へ研修の沖縄八重山から若い二人連れ、 早稲田大探検部でヘルシンキを目指し北欧
の北端を目指すらしい。 各人各様の目的や夢を持ち同行中思いを語り合う船旅。
 
 翌夕刻津軽海峡通過の際遥かに北海道松前、青森竜飛岬を遠望、日本に別れ。
出発以来翌々朝ロシア・ナホトカ到着入国手続きは船内で行われ上陸後荷物検査に数時間、 持参のタバコ・ピース1箱を審査官に集られ早速外国の不条理を知る。
 
 港から駅まで荷物を手に徒歩行、 数時間ホームに待たされ列車に、既に夕刻。
ベンチには若い女の子供達が数人、 透き通る白さに青い目彫り深い顔立ちはまるで人形さんの様だ。 恐らく10歳そこそこか、殺伐とした駅と周辺の差異が異郷。
 
 列車はコンパートメントで二段ベッド4人部屋、広軌の大陸鉄道部屋も備付備品も
大型、窓際には固定のテーブル幸い丸山さんと二人のみ、 暮行く車窓を眺めるものの行けども広大な原野が際限なく。 夜間点々と灯りも瞬時通過、途中停車駅では線路工夫の姿、 デッカイ中年女性もツルハシを手にしている。 成程 男女同権とは
そ~なのか妙に納得。 翌朝も又同様な景色には少々見飽きるが翌朝ハバロフスク駅に到着。バスに揺られ空港へ、 待たされた挙句予定3時間遅れの出発とか。
空港のロシア機撮影に構えた途端何処からか現れ遮られる。
 
  臨時のバスで観光、日本人墓地へ粗末なセメント作り等身大の枠で囲われており、 その数3~40。 比較的清掃は行き届いており、 黙祷としばしの時を過ごす。
次アムール川河畔に案内、流れは比較的ユッタリだが土色の泥流。 対岸は微かに気配程度の雄大な見晴らしに圧倒され、遥か遠くの山を指差し中国領と案内人。
  
 ここで、 度々ロシアと言っているが当時「ソビエト連邦」が正式呼称、 時は冷戦の最中で東欧等共産圏内は常に緊張感が伴なっていた。 積水退職直前の7月、
総務受付から、 警察の方が見えてると電話で呼びだされた、職場の皆からエッと
驚きの空気。 オットリ刀で応接室へ私服の警察官から警察手帳を提示され応対。
 
 今回ロシアに行くそうだが目的や期間、訪問の地等細々聴取、目的の趣旨を確認後付いては情報収集に協力をとの事。 帰国後何でも良いからあらゆる情報を集めているとの趣旨、公安警察だった。 外国が稀有な時代、それもソビエトだから余計。
ロシアのビザ(それも通過ビザだが)申請は公安迄通じてるとは少々驚いた。
 
 ハバロフスク空港は軍民共用、遠くに軍用機は見えるが戦闘機は確認出来なかった、 午前中に到着したが早くも夕暮れロシアから東ドイツを出るまで常に夜行で
旅の楽しみを削がれてる。 愈々モスクワへ8時間半の空路、機体はツポレフ114、
戦略爆撃機ベアーの旅客機仕様。 4発の二重反転大口径のターボプロップ、プロペラ機はゾクゾクする。 当時ロシアはミグ、イリューシュン、アントノフ等々先鋭的なラインナップはロシア独自の特徴があり、フライング等雑誌での詳報は興味深々。
Ту-114 «Россия» Tu-114 «Rossiya» (Cleat)
乗機の「TU-114(ツポレフ)」ターボプロップ二重反転プロペラが特徴、貴重な体験。 
西側では「ボーイング707」や「ダグラスDC8」、「コンベア880」等4発ジェットの時代。
 
 ワクワク感に感激しながら乗込み着席、所が翼付根付近で窓は小さく少ない、我々の席だけ対面シート、途中向席の女性と交替。
スチュワーデスはブクブクの叔母ちゃん連中、通路が塞がれてる。 対応はゾンザイでニコリともしない、共産圏内では総じてこの様な扱い、ナホトカからの列車もほぼ。
 
 エンジン始動でランウエイから離陸緊張の瞬間、眼下を覗き見る事も出来ず不愉快此上無し。 上昇時は最大出力だけに振動騒音共に大きく、寧ろ胎動がフアンとして時に興奮の時。 30分過ぎたころ即ち水平飛行に移った後も主翼装着のエンジンの振動騒音が直接伝わる。 飛行中モスクワ空港到着まで悩まされたには往生こいた。 3時間の時差もあり深夜1時頃、殆んど横浜からの団体の如き客集団。 バスで1時間以上点々とホテルへ降ろし、最後となりホテル「オスタンキーノ」にチェックインは3時前、翌日は東ドイツ大使館を探しビザ取得をしなければと焦りが募り爆睡。
 
 翌朝ロビーで昨日機内で乗り心地に体調崩してた商社勤務の女性二人、休暇で
両親赴任のウイーンを訪れるとか共にビザを、タクシーで同道。 共産圏は英語は通じ難い第二外国語はドイツ語の様だ、 しかし運転手はロシア語で構わず捲し立てる、我々の理解関係なく。 ウロ覚えのドイツ語で無事ビザ取得、 帰途赤の広場正面のグム国立百貨店へ寄る、 規模は大きいが品数客共に閑散。 外人客はドルしか使えないらしく、 この際貴重なドルは温存、 見るだけの観光に留めた。
 
 モスクワ駅行きの送迎バスをホテルロビーで待つ間、 紳士から声掛けられしばし雑談、 のち知るが東京女子医大心臓外科の榊原教授、北海道医大初の心臓移植で度々紙上やTVで見かけたお方。 ドイツ行の夢を聞きミュヘンの学会に行く所で、
何月何日何時頃ミュヘンのドライベン・ブロイ(ビアホール)で会食の予定なので、都合つけば来なさいと誘われたが、それきりに。 当時の渡航はとてもの方達との廻り合いもある。
 
 モスクワ駅でパリ行き国際列車に乗車、 同じくコンパートメント食事は食堂車で、
全て旅費に含まれており国境通過も換金は一切不要なのが助る。 車中ドイツ女性の主婦だとか底抜けに明るいスーパー母ちゃん、日本を一人で楽しんだ帰途らしい。
憶えたての日本語に英語で語るが、いつの間にやらドイツ語を早口で移行してしまう、 そして一人手を叩き又大笑い。 単調な旅にまわり一堂癒された事か。
 
 ポーランド国境で入国手続きは3時間余り停車、 荷物検査等軍服らしき官吏との遣り取りは共産圏全て国境事に煩わされる。 車外を見渡すと長大な列車が一斉に2~3M持ち上げられている。 広軌から狭軌用に台車の一斉交換、 丁度湾曲の線路上で遠く先頭と最後尾が見通せたのは壮大な景色。 線路両側にスタンド式の油圧設備が設置され。 所代われば・・・の類、いやはや、ヤルーッ!!  私たちは車輌諸共空中に浮んでいる。 周囲景色は晩夏の見渡す限り麦畑、 絶景なるかな五右衛門気分に浸る。
 
 ポーランドは当時最先端グライダー「FOKA」(フォーカ)生産の地、仰向けに搭乗し操縦するスマートな機体は革命的で以後殆んど競うが如く同スタイルに。
青空の下どこかで産み出されてると思うと、 憧れに恋心とはこの様なものなのか。
食堂車で外国映画スターの様な薄いサングラスの青年、飲み物を勧められ車窓を眺めながらの懇談、 珍しく流暢な英語のポーランド人。 件の話に及び相槌再々に
も時折ロシアに対する複雑な思いと国への愛着に笑顔が印象に残る。 壁に耳有りの事情、 ドイツだか自由圏には旅馴れた感じだが詳しくは触れなかった。
 
  国境の町凍てつく「ベルリン」
 東ドイツを抜け東西ドイツ国境のベルリンは深夜、1時間程度停車だったか、乗員の乗り換えか。 駅構内ホーム共電球で薄暗い不気味な緊張を醸している。 カーテンを少し開いて見渡すと、 歩哨の兵隊が10M置き位に、列車を取り巻く様に銃を
斜め下に構えた姿。  薄明かりに黒く直立不動の影は、 鉄兜と銃のみ不気味な光を放ち緊張は今旅で最高度に。 正に東西冷戦の最前線! 東西ベルリンの町は東ドイツのほぼ中央部に位置し、 西ドイツとは一本の道路と鉄道で結ばれただけの云わば陸の孤島。 ベルリンの壁崩壊は記憶に新しい。
 
 翌早朝、 私達の旅の終着駅、 西ドイツ側国境の町ハノーバーに到着。 
果たして何処で超えたのか? 入国審査、手荷物検査は?? 別な不安がよぎる。
後で不法入国の咎を受けないかとか・・・???。 何でも無かったかの様な光景。
 
 晴れて自由主義世界に戻った、 万歳を叫びたいくらいの開放感!、社会復帰だ!!
総じて共産圏はどんより薄曇り、風景は殺伐、人々は活気無く不信感の眼差し。
常に監視の目を意識、 何かの度に横柄な対応に内心ストレス溜る一方だった。   
 
 帰国の途、 再度同じコースをしかも厳寒の季節辿るのだが西側とのギャッブ
益々つのるばかり。 
 帰国後 後年、左翼学生達の過激な姿に一見は百聞にしかず、 を献上したく。
  
 ともあれ晴れて西ドイツの地を踏み、改めて周囲を眺め、 朝日に映え緑豊かな自然や街並み。 整然とした道路や並木、 小奇麗な家々まるで「おとぎの国」だ。
今は海外旅行盛んで簡単に行ける時代、 ドイツ・オランダは必見の地と思うが。
 
  次回 ⑱ 憧れのドイツ
          グライダー工場で・・・滞在の日々をチョコッと・・・。