社内では提案制度があり提案箱が職場毎に配置、 社員誰でも仕事や職場で気付いた事を提案出来る。 それらは労使の委員会(?)で協議し評価、比較的早期に実現が為され、 快適な職場の改善や時に技術や設備にも触れ、広範多岐に渡る。
若い優れ者集団だけに、 しかし会議での発言機会が少ない現場サイド社員のアイデアは、 設計に当り具体的且つ視点を換えたヒントは難題解決への道が拓けた。
私担当の延伸フイルムでは、 フイルムの厚みのバラツキの解決に悩んでいた。
温度分布か、フイルム素材由来なのか、 何しろミクロン単位のレベルに過ぎないが
巻き取ったロールでは明らかにデコボコが現れている。 現場で開発作業に当っている先輩社員のOさん(大学で化学専攻)から、 周囲から冷却空気を均等に吹き付けバラツキを補正の提案。 新たな装置を開発設置、環境は130℃。 技術的解決の難題は種々有ったが、 かなりな改善が見られ商品化に一歩近ずいた。
その提案はのち特許取得と会社創立祈念日に工場長表彰を授与された。
バスケツトやテニスコートも工場裏ハズレの田圃を買収、 新設されたのも同様の訴えが功を奏し整備は有難かった、 尤も暫らく部員の整地作業を伴ったが。
忘れもしないS39/10/10(1964)そのコートで昼休みプレー中、 ジャンプシュートし着地の際仲間の足上に、 転倒し捻挫。 幸か不幸か医務室で東京オリンピック開会式実況中継を聴いていた。 当夜杖代わりの木刀を買求めたが、腫れは益々まるで
象の足の様に、 その後完治せず今も冷えると痛みを覚える。
バスケツト部に総務の林課長(京大でプレー・宮崎出)に部長就任を願い、部はこれからの時、残念ながら部活は勢いを欠き、 部も昔の姿に戻ったのは残念至極。
慰安旅行
会社や健康保険組合、労働組合からの補助で年2度の慰安旅行や、借り上げられた
「海の家」に行った楽しい思い出の一枚、 写真は海水浴で仲間と若狭高浜に。
写真右端、当時は運動でガリガリだった。
航空機開発の夢再び
開発の仕事もほぼ目途が付き、 スポーツを絶たれ航空の夢再び擡げ出したのも
この頃。 オリンピックを機に渡航が自由化、外貨持出し枠500ドル(360円/ドル)。
予て日頃温めていた外国で航空への取組みを真剣に、 幾許かの貯金も少々。
当時、 寮ではマージャン全盛の時代95名程度の内、嗜まないのはホンの数人。
給料日、各仲間内の貸し借りの清算がアチコチで、 連休に帰省費用負担も抱え。
今以ってゴルフ、マージヤン、車とは無縁の人生、 ヨットは船舶免許、 66才で原付免許取得は酔っ払い運転自制の年頃を自覚、 晴れて爆走?で余生を楽しんでいる。
追々⑰と同時並行で追記の予定、 都合4年半の在籍だが周囲の温かい先輩同僚達との交流は、唯一のサラリーマン生活。 青春を謳歌は濃厚且つ広範囲に及ぶ。
次回 ⑰ 夢に燃えドイツへ