◆ 火吹く人たちの神 ~16







「雷」=「蛇」=「伊福部氏」(鍛冶集団)に、さらに
「小子(ちいさこ)」から、「小子部(チイサコベ、子部)」を繋げようと試みています…で閉じました。

そして昨日は自身のおさらいを含めて、

今回はそれらについての記事となります。



過去記事一覧を作成しました!


第一部 青銅の神々
第一章 銅を吹く人


■ 多氏の同族・小子部の鍛冶族としての役割

前回の記事の最後に「日本霊異記」の説話、「敏達天皇の時、尾張国阿有知郡(あゆちのこほり、愛知郡)片蕝里(かたわのさと)の農夫が、田植え中に小雨が降ってきたので木の本で雨宿りし金の杖を立っていた。その時、雷がその農夫の前に落ち、小子(ちいさこ)と成って従い伏した…」を記しました。



◎「片蕝里(かたわのさと)

前回の記事の最後に登場した尾張国阿有知郡(愛知郡)「片蕝里」は、名古屋市中区古渡町辺りに比定されるとのこと。第11回目の記事に登場した尾張国愛知郡日下部郷「伊福村」とは、わずか2kmほどの距離。

「雷」と「伊福部氏」がここでも関連を見せています。



◎「金杖」と「赤い幡鉾」

同じく「日本霊異記」に以下のような説話が載せられています。
━━雄略天皇が磐余宮に住んでいた時、天皇と后が大安殿で愛し合っていたところに、栖軽(少子部連蜾嬴)は気付かずに参入してしまった。天皇は恥ずかしくて行為を止めた。その時、雷が鳴った。そして栖軽に「鳴雷(なるかみ)を捕らえてくるように」と命じた。
栖軽は詔を請け、緋(あけ)の蘰(かづら)を額に着け、赤い幡鉾(武具)を備えて馬に乗り、阿部の山田(桜井市西端、明日香村に隣接)の前の道と豊浦寺の前の道を走らせ、軽(かる、近鉄岡寺駅の周辺か)の諸越の衢(ちまた)に至り、「天の鳴雷神(なるかみ)よ、天皇の命令で呼んで来いと言われた」と叫んだ。そしてここからまた馬を走らせ、「雷神(なるかみ)と雖もどうして天皇の命令を聞かないのだ」と言った。また走り出すと豊浦寺と飯岡との間に鳴雷(なるかみ)が落ちていた。栖軽はすぐに神司(神官)を呼んで籠(かご)に入れて大宮に持ち帰り、天皇に「雷神を捕らえて参りました」と申し上げた。すると稲光を放ち輝いた。天皇はこれを見て恐れをなし、幣帛を奉り落ちた所に戻させた。今は「雷丘」と言う━━

*雄略天皇の記述 … 「金杖」で「雷」を捕らえた
*敏達天皇の記述 … 「赤い幡鉾」で「雷」を追いかけた

この「日本霊異記」の説話は、雄略紀にも似たような説話が載せられています。


ここで中山太郎の「雷神研究」から引用を行っています。
━━雷鳴の折に、鍬を戸外に出し、もしくは鎌を竿の先に結び付けて、高く出す土俗も、かなり諸国に行われているが、その理由は判然と知ることができぬ。強いていえば、癘鬼(れいき)を払うために、二月と十二月の八日に、鎌を高く掲げるのは、鬼が低く降りて来ると、それで尻を切るという信仰があるから、例の雷鬼一体説から転じて来て、落ちると雷の尻を切るぞ、というのではあるまいか━━

金属製の「鍬」や「鎌」を戸外に出しておくというのは、「癘鬼(れいき)」といった、つまり悪霊を防ぐ目的があったのは容易に考えうること。しかし金属製の「杖」や「鉾」を高く掲げると、これはそれをめがけて雷を落ちやすくするということに。つまりそれを以て「雷神」を捕らえたということになると。

[大和国高市郡] 「雷丘」



◎「軍事的氏族」としての性格

紀と「日本霊異記」の少子部連蜾嬴が「雷神」を捕まえる際の手段は「呪術」であったとも、金属器の使用であったとも記されます。特に金属器の使用が強調されると。

これは前回の記事の「日本霊異記」で用いられた「金の杖」もそうですし、前々回の記事の「常陸国風土記」の「伊福部岳」で用いられた「刀」もそうであることから。


そしてそこから展開させて、「伊福部氏」も「少子部連蜾嬴」も、ひいては「多氏」も、「武器に関与する職業ではなかったか」と。
これについては直木孝次郎氏が既に、「小子部が軍事的性格をもつ」と推定しています。

「日本古典文学大系 日本書紀」には「少子部連」を以下のように記しています。
━━天皇の側近に奉仕する童子・女孺(にょじゅ・めのわらわ)等の資養費を担当する品部で、その管理者たる連の祖としてスガルの名を思いついたのであろう━━
ここには一切の「軍事的性格」は見出だせません。

一方でWikiでは「小子部」の解釈を以下のように記しています。
━━大王に近侍する少年男子の一群の存在が推定される。すなわち「小子部」は少年にまつわる部であり、将来の軍事力である少年男子を養成・管理して大王に近侍した伴造と考えられる。加えて「雷」にもかかわりがあるものと想定され、幼児を伴なって、宮廷での避雷の呪術の祭祀をする部であったことも窺われる━━
こちらは「軍事の予備軍」であると。

以上を踏まえると谷川健一氏が想定したように、「小子部」を統率した「小子部連」は、軍事系氏族であったと思われます。
事実、壬申の乱の際に尾張国司守の小子部連鉏鉤(チイサコベノムラジサヒチ)が二百の兵を率いて美濃国の不破郡「垂井」に馳せ参じています。「鉏」は「鋤(すき)」、「鉤」は「長い柄の先に先の曲がった金属製の器具が付いたもの」。いずれも金属器。

教育指導をする先生に留まらず、武闘派でした。


大和国十市郡の子部神社(橿原市飯高町376)に掲げられる少子部連蜾嬴の案内板。下の方の写真はイラストを切り抜き拡大。
「大和名所図会」に描かれた少子部連蜾嬴(一部ボカシを入れています)



◎「少子部連」と「伊福部氏」

紀の雄略天皇七年七月には以下の記述が見られます。
━━天皇は少子部連蜾嬴に詔して「朕は三諸岳の神の姿を見たい。或いはこの山の神は大物主神だと言う、また或いは菟田墨坂神だとも言う。汝は人を超越した力を持つ。自ら行って捕らえてくるように」と言った。蜾嬴は答えて「試しに捕らえて来ましょう」と言い、三諸岳に登り大蛇を捕らえて来て天皇に奉った。斎戒をしていない天皇に、雷の如き轟き、まなこは輝き、天皇は畏みて目を覆い、殿中に引きこもった。大蛇は岳に放たれた。これにより雷という名を賜り改めた━━

「蜾蠃」が「雷」へと名を改めたとあります。これには諸説あり、「三諸丘の神」が改名したとするものや、雷が落ちた丘が「雷丘」と改名したいうものも。
自然な流れで文脈を追えば「蜾蠃」が「雷」へと改名したのでしょうし、また「新撰姓氏録」には、「山城国 諸藩 秦忌寸」の項の注釈に、大泊瀬稚武天皇(雄略天皇)の所に「小子部連雷」と見えます。

この記述には非常に不可解な箇所が見られます。「三諸岳」の神を「或いは…」として「菟田墨坂神」とも記しています。
「三諸岳」はもちろん「三輪山」でしょうし、そうであるならもちろん大物主神で間違いないでしょうし、そうすると「菟田墨坂神」はなぜ記されているのでしょうか。「菟田墨坂神」とは大和国宇陀郡の墨坂神社に鎮まる神のこと。謎を抱えたままですが進めます。

神武紀に「墨坂に焃炭(おこしずみ)を置けり」とあります。谷川健一氏はこれを、「墨坂はたたらの炉の中に消炭や砂鉄を投げ入れる炭坂という役目の名を思わせる」としています。

「炭坂」という役職名が「たたら製鉄」には存在します。「歴史民俗用語辞典」には「踏鞴師(たたらし)と呼ばれる職人」とあります。また奥出雲町定住産業課 鉄の道文化圏推進協議会事務局の「出雲國たたら風土記」というサイトには、「村下(むらげ)の補助役」とあります。「村下」とは技術責任者のこと。

つまり役職名が神名になったと考えられるということに。そうすると「少子部連」が鍛冶と関わりがあると考えられるとしています。そして第10回目の記事にて記したように、大和国宇陀郡の「伊福郷」があり、墨坂神社とは3kmほどの隔たり。仮に元宮(旧社地)とを見てもほぼ同じ距離。

肥前国の南高来郡瑞穂町にある「伊福」の隣には、「古部(こべ)」という地も見られます。やはり「少子部連」と「伊福部氏」とは繋がりがあるのだろうと。

[大和国宇陀郡] 墨坂神社



◎「多氏」と「少子部連」

「多氏」の総氏神は大和国十市郡の多坐弥志理都比古神社(多神社)。その「若宮」として同じく十市郡に子部神社(橿原市飯高町372)子部神社(橿原市飯高町376)が鎮座します。この2社の距離は50m余り。多神社との距離は1kmほど。多神社のかつての社勢を鑑みると社域内であった可能性も。

「多神社注進状」には、少子部連蜾嬴の逸話が長々と記されています。また同状には、神八井耳命九世の多武敷の子として蜾嬴の名が見え、嫡子の多清眼の弟とされます。
「少子部連」は「多氏」から派生した同族と見て差し支えないと思われます。

さらに同状には「子部社」のご祭神を天火子日命(天穂日命)と天火子根命(天津彦根命)の二座としています。これは「神名帳」の「子部神社 二座並名神大」に合致するもの。このうち天津彦根命は、鍛冶神である天目一箇神の父。ここでも「少子部連」が鍛冶製鉄氏族であることが分かります。

それらから「少子部連」と同族である「多氏」も、鍛冶製鉄に関わりがあるとみてよいかと思います。

たびたび記してきましたが、そもそも「多氏」の本来の祖神は神八井耳命ではなく、尾張氏(海部氏)ではないかと考えています。そうすると「多氏」は「伊福部氏」とも同族となるのです。

これについては椎根津彦命(倭宿禰)考 ~1にて記しています。天火明命の裔である椎根津彦が、多坐弥志理都比古神社の本来のご祭神ではないかと。「弥志理都比古神」という謎の神の正体ではないかという仮説を立てています。


ただしこれは元々は谷川健一氏が説いたものを自分なりに解釈したもの。確か本書にて記してあったものだと記憶しているので、後々このことについて触れることとなります。





◎「侏儒」と「少子部連」

従来は「少子部連」は「侏儒」(しゅじゅ、=小人)を以て組織されていたと考える研究者が多くいました。太田亮氏も折口信夫氏も。直木孝次郎氏はそれを否定せずに、「少年を率いて宮廷に仕える少年によって組織された部」と解釈しています。
谷川健一氏は直木孝次郎氏説を支持しています。実際には「侏儒」ではなかったものの、「侏儒の伝承を持った氏族」であると。

ところが、
━━「小子部」という名称からは「侏儒」(こびと)を連想する向きもあるが、「侏儒」の訓は「ひきひと」であり、「ちいさこべ」とは異なる━━(Wikiより)
とあるように、これらの説を誤りとするのが現在は定説化しています。

直木孝次郎氏の次の言葉が的を得ているように思います。
━━小子部も子部の一種であって (中略) 少年を率いて宮廷に仕えていたものであろう。宦官の制(かんがんのせい)のない日本では、後宮の雑務にも小子部が従事していたのではなかろうか。(中略) 宮廷の奥向きに仕える者は、天皇の側近を守る軍事的職務をも兼ねやすい。(中略) 小子部も場合によっては天皇の親衛隊としての軍事的任務をともなったと思う━━

そして谷川健一氏は、
━━(少子部は)鍛冶氏族だからとうぜん雷神を制御する術を心得ていると見なされた。鍛冶のなかでも武器を鍛えるのがうまかった。武器を製造することからその軍事的な力をも高く買われたにちがいない━━と。

その後に続く、「そうして鍛冶氏族に特有な一寸法師などの説話の保持伝播者でもあった…」というのは、ここでは一旦保留にしておきましょう。





今回はここまで。

文献等からの引用が多くなったため、ずいぶんと長い記事となりましたが。

「小人」についての記事が続きます。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。