前回の記事にて「和名抄」に記される6箇所の「伊福郷」のうち、4箇所(近年の考古学成果により5箇所)が銅鐸と関わりがありました。
谷川健一氏はさらに突き詰めていきます。
◎長門国意福駅
現在の山口県美祢市於福町(おふくちょう)であるとのこと。山口県の中央やや西の山間部。
「延喜式」に「意福駅馬三匹」とあります。「イフク」と呼んでいたであろうとのこと。
当時の「駅」ですが…
朝廷からの命令を地方に伝えるため遣わされた「駅使」が、三十里(約16km)ごとに設けられた「駅家」で提供される「駅馬」を乗り継ぎながら目的地へと向かいます。
現在のようにテレビも電話もネットも無い時代。中央からの情報伝達はこのようにして行われていました。
「延喜式」には設置された全国の「駅」が網羅され紹介しているのですが、ここでは「意福駅」に「駅馬」が三匹用意されていた…ということになります。
「風土注進案」という書には、
━━山城山に黄金(こがね)の蔓(つる)ありしを堀出せしは、山子どもおふくおふくと呼びしより、於福と唱へ来りしとも申し伝へ、その詳らかなること相知りがたし━━とあるようです。
「おふく」は後世の附会なのでしょうが、何よりも鉱山採掘につながる地名であるということ。
「ふるさとの歴史・美禰」にも、
━━於福の地名は金銀銅鉄などの鉱石を吹き分ける息吹(イキブク・イブク)に通じるものがある━━と記されるとのこと。
当地ではやはり「銅」が採れたようです。「於福鉱山」(江戸初期には既に稼働)、「山上鉱山」(明治に開発)、「金ケ原鉱山」(明治に開発)が見られます。
googlemapを眺めていると「大和鉱山跡」(銅山)なるものも見られました。かなりの銅が採れたようです。
北隣の「渋木村」(現在の長門市渋木)は、往古は「集福(しふく)」という名で呼ばれていたらしく、これは「イフク」に通ずるもの。こちらにも銅山があったようです。
東隣の美東町(みとうちょう)から、遥か東の先の山口市阿東生雲辺りまで銅山が目白押し。この阿東に「地福(ぢふく)」という地がありますが、これも「伊福」と由縁があるのかもしれません。
◎尾張国愛知郡日下部郷「伊福村」
「尾張国風土記」逸文に、愛知郡日下部郷「伊福村」にある福興寺という仏教施設は、三宅連麻佐という人物が聖武天皇の時に造営にあたったとあります。
三宅連は天日矛神を祖とする渡来系氏族。因幡の古系図にあるように(→ 第9回目の記事にて)、但馬出石(いずし)の天日矛神の本拠に伊福部神社があるように、「伊福部氏」と天日矛神との結び付きに着目しています。
「伊福村」は現在の名古屋市の「広小路」にあたるとしています。中区錦辺りの名古屋一の中心街か。すぐ近くの名古屋城壕から銅鐸が出土しているとのこと。
◎大和国城下郡三宅郷の糸媛(糸井比売)
この項は本書には記されない、私自身のオリジナルなもの。
「三宅連」の本貫地は大和国城下郡、現在の磯城郡三宅町や川西町といった辺り。「三宅連」と同祖(天日矛神)という「糸井連」も拠点としていました。
また三宅町から田原本町にかけて、鏡作坐天照御魂神社を始めに「鏡作部」たちが奉斎していた社が密集します。
「伊福部氏」の痕跡は見当たらないものの、銅鐸ではないものの、鏡はもちろん「銅」製であり、伊福部氏が関与していたものと考えます。宇陀郡「伊福部郷」より運び込まれたのでしょうか。
[大和国城下郡] 比賣久波神社
◎尾張国鳴海の海底銅鐸
名古屋市緑区鳴海町(なるみちょう)という所があり、海底銅鐸が発見されたとの言い伝えがあるようです。少なくとも明治以前のこと。中心地の「鳴海駅」で海岸から5~6kmほど。かつては海中であったのかもしれません。
この辺りに式内社 伊副神社(いふくじんじゃ)が鎮座していたとされます。所在不明ながら論社として鳴海八幡神社が挙がっています。
他に愛知郡中根村(現在の名古屋市瑞穂区丸根町)からも銅鐸が出土しています。
谷川健一氏は以上から、熱田神宮を中心に伊福部氏が濃尾平野に展開していたことは十分に考えられる、としています。
ところが現在は伊福部氏が原始は尾張国に居り、後に因幡へ移ったとみる説が有力。具体的には彦坐王が因幡へ遠征した際に従軍、そのまま因幡に拠点を移したものと考えています。
◎土佐国安芸郡の銅鐸
現在の高知県安芸市伊尾木字切幡から銅鐸が出土。「和名抄」では「丹生郷」で掲載されているとのこと。
「伊尾木」はもちろん「五百木」であろうし、「伊福」と通じるものがあるとみています。
今回はここまで。
「伊福部氏」と「銅」との繋がり、これだけの事例が揃うともう動かし難い事実かと思います。
次回はこれらの事例を整理し、さらに次のステップへと進んでいきます。
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。