◆ 火吹く人たちの神 ~9





「鉄」というものを常に念頭に置いていないと古代史は紐解けない…と教えてくれたのは谷川健一氏。

以来、常に「鉄」が念頭にあります。


ところがある時、「鉄」も「銅」も同じように考えていたことにはたと気付きました。

「銅」は「鉄」よりも早く用いられています。
もちろん製法も少し異なるようです。

ということは…
「鉄」と「銅」に携わっていた氏族も異なるのではないか???

えらいこっちゃ!!!
さーっと血の気が引くような思いをしたことを鮮明に覚えています。

大慌てで再読したのはこの書。

明確にはされていないものの、それとなく…な答えがこの書にはありました。

いずれ本題にてそのことに触れることとなります。


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■ 過去記事
~1 … 序
~2 … 耳と目の結婚(1)
~3 … 耳と目の結婚(2)
~4 … 耳と目の結婚(3)
~5 … 耳と目の結婚(4)
~6 … 耳と目の結婚(5)
◆第一部 第一章
~7 … 銅を吹く人(1)
~8 … 銅を吹く人(2)

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第一部 青銅の神々
第一章 銅を吹く人

■ 因幡の銅鐸と銅山━━伊福部とはどのような氏族か

前回の記事にて谷川健一氏から、「伊福部氏」と「銅」が繋がっているのではないかという仮説が立てられました。

では一体「伊福部氏」とはどのような氏族であるのかについて。



◎伊福吉部徳足比売の墓誌

江戸時代に百姓が銅製の骨蔵器を発見。その蓋に108文字の漢字が16行に渡り刻まれていました。これは伊福吉部徳足比売(イフキベノトコタリヒメ)経歴と葬送が刻まれた銘文、つまり墓誌であることが判明しました。

当地で郡領(郡司のうち長官または次官)の娘であった徳足比売は、文武天皇の御宇に采女として貢進されました。藤原京で病没し火葬された後、遺骨が当地に戻されたというもの。

原文を以下に示しておきます。

「日本大百貨全書」(ニッポニカ)より
━━因幡國法美郡 伊福吉部徳足 比賣臣 藤原大宮行宇大行 天皇御世慶雲四年 歳次丁未春二月二 十五日従七位下被賜 仕奉矣 和銅元年歳次戌申 秋七月一日卒也 三年庚戌冬十月 火葬即殯此處故 末代君等不応崩 壊 上件如前故謹録錍 和銅三年十一月十三日己未━━


伊福吉部徳足比売の蓋に墓誌が刻まれた骨蔵器(重要文化財)。*画像はWikiより



◎因幡国の伊福部氏

因幡国の伊福部氏は代々、因幡国一ノ宮の宇倍神社の神主を務めていました。鎮座地の近くで「銅製」骨蔵器が出土しています。

現在は武内宿禰を祀るとされますが、かつては伊富岐大明神を祀る社であったとのこと。
これは「二十二社註式」や「神名帳」の頭註に、ご祭神が大和葛城や美濃不破と同日同時に顕現したとあります。この「美濃不破」というのは、美濃国不破郡に鎮座する伊富岐神社のご祭神のこと。



◎「伊福部氏」と「銅」

伊福吉部氏(伊福部氏)の女性が「銅製」骨蔵器に納められていたことが示されましたが、谷川健一氏はさらに「伊福部氏」と「銅」との関わりを探っていきます。

宇倍神社の東北10kmほどの岩美郡岩美町(現在の国府町)「新井(にい)」から銅鐸が出土。

同町内には許野乃兵主神社が鎮座、隣町には佐弥乃兵主神社が鎮座。金銀銅を産出する山脈があるようです。文武天皇二年(698年)に因幡国が銅鉱を献上した旨が続紀に見えます。
近くには「荒金」という地もありますが、「鉱」は古語で「阿良加禰」。この「荒金」からは和同年間(708~715年)に銅が産出されています。


因幡国一ノ宮 宇倍神社 *画像はWikiより



◎伊福部氏の古系図

延暦三年(784年)に起こされた系図。第20代若子臣(母は風媛)の条の記載に、
━━禱祈(とうき)を以つて息を飄風(つむじかぜ)に変化す これを書して姓を気吹部臣(イフクベオミ)と賜ふ これ若子宿禰命にはじまるなり━━とあります。
これが「たたら」または「ふいご」をもって強い風を炉に送る有り様を示したものであると。

「古代史の謎を探る」佐伯有清氏から引用がなされています。
━━伊福部は吹部であって、笛を吹くことを職業とした部民であったというのがある。それは862年(貞観四年)ごろの人、伊福貞(イフキベノタダス、五百木部連貞とも書く)が雅楽寮(うたりょう)の合笙生であったことが傍証としてあげられている。もし伊福部が笛を吹く部民ならば、ほかに笛吹部という部民が現実に存在していたことを、どう処理してよいかという問題にぶちあたり、また伊福貞という人物が笙(しょう)を吹くのにたずさわっていたのも偶然のことかもしれないので、伊福部を笛を吹く部と解するのは疑わしい。
つぎに伊福部(五百木部)を景行天皇の皇子、五百木之入日子(イホキノイリヒコ、五百城入彦皇子)の名代部とする説がある。名代部というのは、五世紀の末語呂合わせら設置されたもので、名代の伴の出仕のための費用を出させるために置かれた農民の部であると考えられている。だがはたして五百木之入日子が実在した人物であったか、また実在が疑われている景行天皇の時代に名代部が存在していたのか、という疑問があり、伊福部を名代部とみるのを否定するものが多い━━

このように佐伯有清氏は旧説を否定し、さらに続けます。

━━息を吹く、または風を起すという意味に関連して、伊福部を火吹部と解釈し、天皇や皇族の食饌を煮焚し、湯を用意する職にあったとする説もみのがせない━━

さらに伊福部(気吹部)がたたらをつかさどる職業の名に由来するという説も。谷川健一氏はもちろん最後のこの説を支持しています。

また佐伯有清氏が、伊福部氏が大化の改新以前に因幡国で部民を統率していた氏族であるとしています。
これを受けて谷川健一氏は、文武天皇の時代に「荒金鉱山」から産出した銅を精錬する仕事も、伊福部氏統率の下に行われていたとみなすことが可能であるとしています。





今回はここまで。

もう一項進めようかとも思いましたが、
無理せずぼちぼちとやっていきます。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。