やはり内容があまりに濃いがために
なかなか前へと進まず、
いつまでかかるのかな…という懸念が出てきました。
ま…ぼちぼちとやっていきます。
お付き合い頂ける方がありましたらさいわいです。
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■過去記事
~1 … 序
~2 … 耳と目の結婚(1)
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■序説 耳と目の結婚(2)
◎稲作文化偏重が生む日本民俗学の致命的暗部
第1回目の記事では、このお題の中から抽出しました。表題通りに柳田民俗学への批判であるため、こちらの記事では関与しません。必要な部分をさらに抽出しておきます。
━━弥生時代とそれに先行する時代とを区分する二つの大きな指標は、稲作の開始と金属器の登場であった━━
谷川健一氏は弥生時代以降の日本文化の二大支柱を「稲作文化」と「金属器文化」であると解きます。にもかかわらず、銅や鉄を取り扱う職業の分野で論じなければならないものが、稲作の分野に置き換えられ、農民の視点から論じられていることが多いと。その例が少し挙げられています。
*風の神
━━猛風や強風は、野だたらと呼ばれる原始的な製鉄方法をおこなうときになくてはならないものであり、鍛冶屋や鋳物師(いもじ)に大変よろこばれた。それがいつの間にか、風の神といえばめぐみの風でなく、農作物に被害を与える風をしずめる神とみなされるように変った━━
一例として「多可郡誌」(兵庫県の内陸山間部)に記される天目一神社(未参拝)が挙げられています。
要約するとこの社の旧社地には土器片が散乱しており、祭器の遺物であろうと。また田圃の中にも夥しい銕(てつ)を溶解した金属や炭が散乱、鍛冶の祖神を祀った地に間違いない。陰暦十一月八日の「フイゴ祭」には但馬・丹波・和泉の遠方から鍛冶職人が盛んに参詣していた。
雪や風で天候が悪ければ悪いほど参詣人は恐悦、快晴であると頗る心配した。
天候が悪い…快晴だ…とするのは農民側の捉え方であるということ。
当ブログではすっかりお馴染み、宮司には大変懇意にして頂いている両社が記されます。
鎮座地は河内国大県郡(現在の大阪府柏原市)「雁多尾畑(かりんどおばた)」(金山彦神社は麓へ遷座)。「雁」は朝鮮語の「カル」、すなわち「刃物」を意味する語。地名も社名も金属に関するもの。
ただし、金山媛神社は遷座していない説有り。龍田大社の遷座は天武朝以前説有り。しかも龍田大社 本宮跡が存在し、そちらへ遷座されて後に龍田大社へ再遷座したとされます。そもそも御座峰はギリギリ奈良県に属しているのですが。
また天武朝の時代には「竜田(龍田)」の地は、大和の三輪山や飛鳥の地から見て西北にあたり、そこから吹く悪い風が稲作に悪影響をもたらすとされます。「龍田の風神祭」及びその悪神を鎮める「廣瀬の物忌祭」が、天武天皇四年(675年)から平安末期まで、毎年2回も行われました。
参照 → 「龍田の風神」と「廣瀬の大物忌神」
*稲荷信仰
「稲荷」信仰は、田の神の信仰、田の神の使いとしての狐の信仰、また田の神から引き出されるミケツ神といった食物の神の信仰であると「民俗学辞典」(柳田国男著)から引用しています。
ところが「稲荷」を鍛冶の守り神とする信仰も古くからみられ、旧十一月八日の「フイゴ祭」の日は稲荷の祭日とも重なり合うと谷川健一氏はしています。
ただし当ブログにおいては、原始の「稲荷」信仰は伏見稲荷大社の「稲荷山」に宿る穀霊神を祀っていたのではないかと考えています。後に鍛冶神が重なり、また穀霊神に戻った可能性はありますが(→ 伏見稲荷大社の記事参照)。
*「雷神」と「小人」
「小人」が鍛冶神であるという言い伝えは世界に広く分布しており、それは海を渡って日本列島にもやってきたのだろうとしています。
神武紀の「赤銅(あかがね)のヤソタケル」では、鋳銅者と思われる集団を小人(朱儒)と表現されています。
また「子部」や「小子部(チイサコベ)」という古代氏族が存在し、「雷」と関連を持つとしています。
→ 雷丘
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20200717/22/keith4862/93/40/j/o1080081014790401149.jpg?caw=800)
子部神社(橿原市飯高町376)の社頭に掲げられる案内板。
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今回はここまで。
こんなペースでやっていればいつまでかかるんやろ?という感じもしますが…。
次回はいよいよ「耳と目の結婚」が語られます。
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。