◆ 火吹く人たちの神 ~2






第1回目の記事では、恒例の如く序章的なものを少々熱く語っておきました。

思いを公開することで自身の逃げ場を失くし、やりきることを誓おうと。

近頃はこうでもせねば、すぐに横着し出すので…。


今回よりいよいよ本題へ突入です。


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■序説 耳と目の結婚

◎戦後「記紀」批判論の有効性と新たな方法論の確立

先ず「耳と目の結婚」という大きな表題が掲げられています。古代史に詳しい者なら、「耳族」(アマテラス系)と「目族」(タカミムスビ系)との混淆のことなのであろうと察しが付くことでしょう。

アメノオシホミミ、ヒコホホデ、ワタツ、タギシミミ、キスミミ、ミゾクイミミ、カムヤイミミ、カムヌナカワミミ

天目一箇神、目原坐高御魂神社(大和国十市郡 天満神社)…

つまりは先住で海人系・農耕民族である「耳族」と、新たに進入した金属系である「目族」との混血が進んだ…といったようなことであろうと。

これが広く知られるようになったのは、谷川健一氏によるものかどうかは定かではありませんが。

ところが冒頭からそのような話しは一切出て来ず、何やら小難しいことを押し付けられそうな小見出しが掲げられています。

どうやら「あることを言いたい」ための、必要な「前置き」みたいなものでして…

ばっさり割愛(笑)

途中から「言いたい」ことがちらほら出てきます。一例として挙げるに留まらない、重要なもの。

*「古語拾遺」の「鉄鐸(てつたく)」
「鉄鐸」を古語では「さなき」というとあります。この「さなき」の名を持つ土地(佐那具、佐鳴さなき、猿投さなげ、散吉さぬき)から銅鐸が出土したとすれば、「さなき」と銅鐸との関連を推し量られます。

「古語拾遺」が著された九世紀初頭には、銅鐸がいかなるものか忘れられ、金属製の「鐸」を「さぬき」と呼んだのではないかと。地名は弥生時代にまで遡って命名されたものであると知れよう、としています(詳細は第一章で論じている)。

*「和名抄」の「伊福」
「伊福」が古代の鍛冶氏族である「伊福部氏」の居住地で、銅鐸も製作したのではないかと(こちらも詳細は第一章で論じている)。

各地の伊福部神社はもとより、各地の伊富岐神社、「伊吹山」「廬城(いおき)」「家城(いえき)」「意福」「伊尾木」「五百木(いおき)」…これら類似する地名を調べると悉く銅鐸が出土しているとのこと。

谷川健一氏は民俗学の立場から、地名は考古学的な遺跡や遺物とむすびつけて考える場合、それが名付けられた時代を推定することができるとしています。

*「神武紀」
東征軍が「熊野神邑(みわむら)」に至り「天磐盾(あまのいわたて)」に登ったと記されます。武甕槌命が高倉下の夢に現れ、「庫」に神剣を置いておくからそれを神武天皇に奉れと神託します。

「天磐盾」は「ゴトビキ岩」(神倉神社)のこととされ、それが「庫」であると。またゴトビキ岩の下から銅鐸が出土しています。


紀伊国牟婁郡 神倉神社「ゴトビキ岩」と銅鐸片が発見された岩下の祭祀跡。



*「出雲国風土記」の大原郡神原郷の条
古老談として大国主命の「神御財(かむみたから)」を積んで置いた場所であり、本来は「神財郷」というべきであるが、今は誤って「神原郷」と言っているとあります。

神原神社(未参拝)の境内古墳から「景初三年」(239年)銘(全国で二例、他に「景初四年」銘も有り)の三角縁神獣鏡が出土。さらに多量の鉄製品も埋葬。

谷川健一氏は神社の起源を、「弥生時代に求めることも無理ではなくなる」としています。既に私の中ではごく普通の常識となっていますが、これは谷川健一氏らの功績によるものなのでしょうか。



◎古代への架橋としての古地名・伝承・氏族・神社の組合せ

「The 民俗学」的な小見出しとなっています。「神武紀」の「天磐盾」以降、「青銅の神の足跡」とは何ら関係の無さそうな事例が挙げられ、「民俗学」は何たるかについて書かれてきましたが、その理由がはっきりとします。これらも「前置き」でした。

*記の飯豊青皇女と意祁王・袁祁王の神話
谷川健一氏は「青」という字に着目しました。今では当たり前のように捉えられている、「青」とあれば(地名、人名)とあれば金属鍛冶と関わる可能性がある…は谷川健一氏の功績によるものなのでしょうか。
(第二部 第二章「青の一族」にて詳細が述べられています)

記によると、飯豊青皇女の兄(紀では父)である市辺之忍歯王が、雄略天皇により殺害。雄略天皇は自身の即位の障害となりそうな者を次々と葬っていたため、子の意祁王・袁祁王は身の危険を察知し「山城の苅羽井」へ逃走。

「山城の苅羽井」とは現在の京都府綴喜郡井手町「玉水水主」であると当書はしていますが、おそらく城陽市「水主」辺りのことかと(久世郡鎮座の水主神社・樺井月神社辺りか)。市町村編入合併等で変わったのでしょうか。

「玉水水主」の東隣には「青谷」という地名。「市野辺」というは市辺之忍歯王を連想させます。
また古老は「大柴」という地に王子が住んでいたという伝承があるとのこと。「大柴」は「忍歯」を連想させるし、「王子」から「大柴」という名が生まれた可能性も。
さらに「青谷」には粟神社(おうじんじゃ)が鎮座。「粟」は「青」ではなかったかという考えを述べています。

意祁王・袁祁王はこの後、丹後国へ逃げますがそれはまた第二章にて。

山城国綴喜郡 粟神社



*兵庫県多可郡加美町の荒田神社
「播磨国風土記」に、━━道主日女命が父無し子を生んだ際に盟酒(うけいざけ)を作るために田七町に稲を植えると七日七夜の間に稲が実った。諸神を集め宴会を開くと、道主日女命の子は天目一箇神(アマノメヒトツノカミ)に酒を捧げたので父親が分かった。後に田が荒れたので荒田村と名付けた━━とあります。

よく似た神名に天道日女命という神がいます。
道日女命は天火明命の妃。記紀には登場しないものの、「先代旧事本紀 天神本紀」や「勘注系図」「丹後國風土記」殘缺等に記されます。

→ 「丹後國風土記」殘缺においては、【丹後の原像】内で第38回記事第45回記事等で天道日女命が登場しています。

この「播磨国風土記」のみに、配偶者が天目一箇神であると記されます。天目一箇神と天火明命とが同神とは到底考えられません。近江国の御上神社等では天之御影命と同神とされています。また天目一箇神の配偶者はこれまで私の知り得る限りでは、情報はありません。
おそらく道主日女命は土着の女神であり、天道日女命とは別神だと考えます。

風土記の記述とは別に、谷川健一氏は地元古老から伝承を入手します。
━━昔、このあたりに一人の姥神が住んでいて、落葉清水と称する神泉から水を汲んでは、それでカビをこしらえ(甘酒をつくるという方言)、神立道(コダチミチ)を通っては神の御許に酒をささげ、お祭りをしていた。この姥神は目一つ皇子の家内といわれていた。彼女は酒を作る米のとれる時分には火の車に乗って往来する━━

「姥神」とは道主日女命のことでしょう。「目一つ皇子」とはもちろん天目一箇神。そうすると風土記の内容と合致するものに。
常民の生活の中で伝承されてきたものの長さに目を見張ること、またそれがちゃんと風土記と合致する内容であることに、谷川健一氏は驚いていますが…柳田国男氏や谷川健一氏の多大な功績のおかげか、驚きはしませんが。

道主日女命は老後、こちらで過ごしたのでしょうか。出自、事蹟等はほとんど語られていません。
「先代旧事本紀」は父を天日神命とし、尾張氏系図(Wikiより、何を指すのか不明)では大己貴神としているようです。天日神命は対馬での信仰に由来する太陽神とされています。


道主日女命を祀る丹後国加佐郡 山口神社(舞鶴市堂奥)



私の関心はすっかり道主日女命へと向いていますが、谷川健一氏は別のことを言わんとするがため、これらの事例を上げています。

それは表題通りに「古代への架橋としての古地名・伝承・氏族・神社の組合せ」が民俗学にとって重要であると。そしてこれをちゃんとやったのが谷川健一氏が初めてであると。

谷川健一氏の絶対的崇拝者である私は、ずっとこれを信じてきました。
本居宣長の最大の欠点はほとんど現地に赴いていないこと。現地に赴き、周辺の地名や地理を頭に入れ、神社を拝し、伝承や関わる氏族の移動等を調べ確認し…

だからアホみたいにひたすら神社を拝し続けたのですが。
地域の神社を密に拝すると、氏族の移動などが分かり、点と点が結ばれます。さらにくまなく拝すると、やがて面で覆われます。そうすると氏族の移動は完璧!他にもいろんなことが分かります。

これから神社を多く参拝しよう、古代史を勉強しようという方にはぜひともおすすめしたいものです。


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今回はここまで。

少々脱線もしつつ…
奔放かつ緻密にぼちぼちと進めていきたいと思います。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。