◆ 「大美和」 第146号 (~その2)






体調を少々崩しておりまして…(過去形)
連日UP予定でしたが日にちを空けてしまいました。


大神神社が講社崇敬会会員等向けに
年2回発行される「大美和」。

今号で146号目。
前回の記事の記事の続きです。





「三輪山セミナー」講演録からの寄稿です。
西宮秀紀氏は「律令国家と神祗祭祀制度の研究」などの著書で知られます。

この寄稿はどうやら大神氏による私斎ではなく、朝廷による国家祭祀に焦点が宛てられているようです。いわゆる「律令国家と神祗祭祀制度」の大神神社バージョンといったところ。
大神神社の様々な「祭祀」が紹介されています。

*本文とは関係ありませんがイメージということにて…




■ 大神神社の祭祀

まずはどのような祭祀があるのかから。

「延喜式」(巻九・神名上)
大和国二百ハ十六座
 大一百二十ハ座〈並月次・新嘗、就中三十一座預二相嘗祭一〉
 小一百五十ハ座〈並官幣〉
添上郡三十七座〈大九座・小二十八座〉
 鳴雷神社〈大、月次・新嘗〉
 率川坐大神御子神社三座〈中略〉
城上郡三十五座〈大十五座・小二十座〉
 大神大物主神社〈名神大、月次・相嘗・新嘗〉
 神坐日向神社〈大、月次・相嘗〉
 狹井坐大神荒魂神社五座〈鍬・靫〉(中略)
 玉列神社 (中略)
山邊郡十三座〈大七座・小六座〉
 大和坐大国魂神社三座〈並名神大、月次・相嘗・新嘗〉(以下略)

これらのうちら「城上郡三十五座」の項に見える
「大神大物主神社」が大神神社のこと。

「添上郡三十七座」の項の「率川坐大神御子神社」が摂社 率川坐大神御子神社(通称 率川神社)のこと、「城上郡三十五座」の項の「狹井坐大神荒魂神社五座」が摂社 狹井坐大神荒魂神社(通称 狭井神社)のこと。

他に神坐日向神社玉列神社といった摂社も見えます。あれ?摂社 綱越神社が抜けとるやんか…。


「大神大物主神社」の項をもう一度見ましょう。
「名神大、月次・新嘗・相嘗」となっています。各々の説明を詳らかにするつもりもありませんが、「祭祀」を表しているためごく簡単にだけ説明しておきます。

*「名神大」
「延喜式」(巻三・臨時祭)に「名神祭二百ハ十五座…」とあります。
式内社(「延喜式神名帳」に掲載される神社)の中でも、名だたる選ばれた神が二百ハ十五座あるということ。「国家に大事のある時、諸国の名神に臨時の奉幣使を遣わして祈願した祭り」(デジタル大辞泉)

*「月次(つきなみ)」
「延喜式」(巻一・四時祭上)に「月次祭奠幣案上神三百四座」とあります。
「天皇の福祉と国家の安寧を祈念した祭。古代から行われた朝廷の年中行事で、毎年6月と12月の11日に朝廷が…(中略)…幣帛を奉納した」(百科事典マイペディア)

*「相嘗(あいなめ)」
「延喜式」(巻二・四時祭)に「相嘗祭神七十一座」とあります。
「天皇家と親しい神様がお相伴に預かる祭祀」(本誌より)
「延喜式」(巻二・四時祭下)には、「大神社一座 絹三丈 絲三絇銖 調布六端ハ尺 庸布一段一丈四尺 木綿四斤二両 鰒一斤五両 …(以下略)」と記されています。

*「新嘗(にいなめ)」
「延喜式」(巻二・四時祭)に「新嘗祭幣奠案上神三百四座」とあります。
「天皇が新穀を天神地祗に供え、みずからも食する祭り。祭事は十一月の下の卯の日に…(以下略)」(精選版 日本国語大辞典)

*「祈念(としごい)」
記載は無いものの、「延喜式神名帳」に載る神(式内社)はすべて「祈念祭」がありました。
「延喜式」(巻二・四時祭上)に、「祈念祭三千一百三十二座」とあります。
春の予祝祭のこと(本誌より)

大神神社にはこのような「祭祀」がありました。また大神神社独自の祭もあります。

大神神社独自の祭
「延喜式」(巻一・四時祭上)に以下のように記されています。
・三月祭
鎮花祭二座 大神社一座(中略) 狭井社一座(中略)
・四月祭
三枝祭三座〈率川社〉(中略)
右三社幣物依前件祝等

「鎮花祭(はなしずめまつり)」と「三枝祭(さいぐさまつり)」の祭祀は、都の神祗官に祝(はふり)が行き、そこで幣物を貰い、それを大神神社狭井神社率川神社に持ち帰りお供えしなさいということになっています。

「三枝祭」については、大神氏の「氏上」(氏族の首長)が定まっていれば祭る、そうでなければ祭りをしないと「令義解(りょうのぎげ)」という書には記されます。
これは「相嘗祭」にも同じ記述がなされており、「氏上」の決定が非常に大きな意味を持っていました。

率川神社に掲げられる「三枝祭」の案内板



■ 崇神天皇の「祭祀」

律令時代(奈良・平安時代)以降の大神神社の「祭祀」をみてきましたが、ヤマト王権時代の「祭祀」をみていきます。

疫病の大流行に苦しめられた崇神天皇。災いの原因を占うと、大物主神が倭迹迹日百襲姫命に憑依し「私を祭らないからだ」と答えを授けます。ところがそれでも収まらない。そこで天皇はあらためて「沐浴斎戒」(潔斎)をし、殿内を清浄にし再度お告げを請います。すると「大田田根子に祭らせよ」と告げられます(紀による、以下も同じ)。

さらに6ヶ月後の8月に倭迹速神浅茅原目妙姫(ヤマトトハヤカムアサヂハラマグワシヒメ)・大水口宿禰・伊勢麻績君(イセノオミノキミ)が同じ夢を見て、大物主神を祭る神主を大田田根子に、倭大国魂神を祭る神主を市磯長尾市(イチシノナガオチ)にせよとのお告げを得ます。
また伊香色雄(イカガシコオ)を神への幣物を渡す人に任じ、さらに他の神を祭っても良いかと占うと、却下されました。

11月に伊香色雄に命じて幣物を作らせ、大田田根子と市磯長尾市に各々大物主神と倭大国魂神を祭らせます。他の神を祭る許可も出て、八百万の天社・国社を祭りました。これでようやく疫病が鎮まったのです。

「ト法」「夢告法」「沐浴斎戒法」「憑依法」「神主に祭らせる法」といった「祭祀」が見られます。これらは律令時代にも見られますが、やはり古い時代の「祭祀」の方法であったと。


大田田根子を祀る大直禰子神社(大神神社 摂社)



■ 「斎戒」

先ほど「沐浴斎戒」という語が出てきましたが、諸文献には他にあまり出てこない語。寄稿された約半分を割いて、この語について説明がなされています。



◎訓み

紀の諸注釈は「沐浴(ユカハアミ)」、「斎戒(モノイミ)」と訓んでいます。



◎紀の事例

少子部蜾嬴(チイサコベノスガル)伝承に記されます。「日本霊異記」にも記されます。内容は割愛、下部記事をご参照下さいませ。

結局のところ雄略天皇は大蛇を山に放ちますが、この時、天皇は「斎戒」をしていなかったとあります。ここでも「三輪山」が関わっています。

神武東征神話にも記されます。「天香山」の埴(土)で拵えた「天の平瓮」「天の手抉」80枚ずつと「厳瓮」で「斎戒」し天神地祇を奉ったというもの。詳細は以下の記事にて。

また允恭天皇の時に、正確な氏姓が分からなくなったので「神盟探湯(くがたち)」が行われますが、この時に「沐浴斎戒」がなされてからと記されています。こちらも詳細は以下の記事にて。

以上わずか4箇所が紀に記されるのみ。うち2例は「三輪山」に関わり、うち3例は天皇が行っていることに注目!

この前で「神盟探湯」が行われたという、甘樫坐神社の磐座。



◎法制用語、制度としての(モノ)イミ

「斎戒」は「いかにも法制用語らしい…」としています。非常に違和感を覚えました。私などとは究めた深さがまったく異なるからでしょうが、対極にあるくらいに思っていましたが。

*「類聚名義抄」
11世紀末から12世紀頃に成立した辞典。「斎」には「モノイミ・イハフ・イム・ツゝシム」という訓が書かれているとのこと。

*「養老僧尼令」
「養老律令」(天平宝字元年・757年に施行)の構成要素の一。「養老律令」は最後の律令(ただし追加法は有り)。そこに「斎戒」という語が書かれているとのこと。

*「令集解(りょうしゅうのげ)」
貞観十年(868年)頃に編纂された「養老令」の注釈書。
「斎戒〈謂 斎会也 釈尤天別也〉」とあり、また「古記伝 斎戒功徳 謂斎会并造作仏教之類」とあるとのこと。つまり仏教用語の「斎会(サイエ)」のことであると。
ということは「令」用語としては使われていないということになります。

*「養老神祗令」
季冬条「斎日」
即位条「散斎(アライミ)一月・致斎(マイミ)三日」
散斎条「散斎・致斎」
月散条「一月斎・三日斎・一日斎」
祭祀条「散斎日」 …など

お祭をする際には官人は「イミ」をしなさいといったことが書かれています。これが「モノイミ」と同じ用法であろうと。



◎天皇と「斎戒」

官人には「散斎・致斎」を規定しているものの、天皇には規定されていません。天皇は法を超越した存在であるから一々書いていないとのこと。

「延喜式」(巻一・四時祭上)の大中小祀条には重要な記述があります。誌面通りに原文のまま掲載しておきます。

━━凡践祚大嘗祭 爲大祀祈念・月次・神嘗・新嘗・賀茂等祭 爲中祀大忌・風神・鎮花・三枝・相嘗・鎮魂・鎮火・道饗・園・韓神・松尾・平野・春日・大原野等祭 爲小祀〈風神祭已上 並諸司斎之鎮花祭已下 祭官斎之 但小祀祭官斎者 内裏不斎 其遣勅使之祭者斎之〉━━

最後の〈〉の中に「内裏斎せざれ」とあります。「内裏」とは天皇がいるところ。
つまり「風神祭」以上の祭祀は天皇が「斎」、「潔斎」されていることになるのだろうと。逆に大神神社に関わる「鎮花祭」「三枝祭」は天皇は「(モノ)イミ」しなくともよい、していないということが分かります。

そうすると先に記した崇神天皇や雄略天皇の項で記した「斎戒」は、法制用語の「斎」とも異なり、もっとプリミティブ(原始的)なそれ以前の慣習的な「斎」として伝承に描かれていたものと想定できるとしています。



◎斎宮・斎院、「出雲国神賀詞」

伊勢斎宮、賀茂斎院は「イツキノミヤ」または「イハヒノミヤ」両方の訓があります。「イミ」をして大神に仕えますが、仏教の穢を落としたりするのにおよそ3年間必要とされます。

「延喜式」臨時祭の神寿詞条の規定には、出雲国造は天皇の御代替わり毎に、都に向かい天皇の「寿ぎ(ことほぎ)」をします。
その際に「潔斎」してから向かい、宮中にて負幸物(おひさちもの)を賜り出雲国へ戻り、一年「潔斎」をして再び「神賀詞(かむよごと)」を奏上し、出雲国へ戻る。また一年「潔斎」してから献上物を持参して宮中へ。いかに「潔斎」が重要視されていたかが窺えます。

「延喜式」(巻八・祝詞)の「出雲国神賀詞」条には、「己(大穴持命)の和魂を八咫の鏡に取り託けて(つけて)、倭の大物主櫛𤭖玉命と名を称えて、大御和(大神、大三輪)の神奈備に坐せ」とあります。
こちらも大神神社に関わる「斎」と言えます。



◎続紀の「斎戒」
続紀には二例見られます。
一つは大宝二年(702年)、大安殿を鎮めて大祓し文武天皇が新しい宮で「斎戒」したというもの。第一回目の「祈念祭」のおり、文武天皇が行いました。
もう一つは天平七年(735年)に大宰府で天然痘が流行、諸国の国司に命じて「斎戒」し「道饗祭(みちあへのまつり)」を行ったというもの。

続紀に記されるのはこの2箇所のみ。
一つ目は「初めての…」、二つ目は「特例の…」ということと西宮氏は解しています。

通常行っていることは続記には記されない、逆に言うと「斎戒」というのは、日本人の祭祀を行う上で大事なものであると西宮氏。
続記は特例として載せられているものの、紀の2記事に大物主神、大神神社に関するのは重い意味を持つとしています。



大神神社に関わらず、日頃より神前に向かう際は、もちろん神棚も含み、多少は気を遣っているつもりではあるのですが…
「斎戒」とまでは言わずとも、古代人に倣い例えもう一段階でも気遣いをせねばならんな…と思った次第。あらためて気付かされました。


大神神社 拝殿



今回もまた長くなりました…

ま…最後までお付き合い頂いておられるような方は、ほとんどいないとは思いますが…

まだ続きます。

いや…中身が濃いな…。