丹生川上神社 中社


大和国吉野郡
奈良県吉野郡東吉野村大字小968
(P有)

■延喜式神名帳
丹生川上神社 名神大 月次新嘗 の比定社

■社格等
[旧社格] 官弊大社
[現在] 別表神社
二十二社の下八社の一

■祭神
[本殿] 罔象女神 (相殿)伊邪那岐命 伊邪那美命
[東殿] 大日孁貴命 八意思兼命 誉田別命
[西殿] 開化天皇 上筒男神 大国主命 事代主命 綿津見神 菅原道真公


吉野郡の山中、「吉野川」の支流である「高見川」沿いに鎮座する社。式内名神大社 丹生川上神社を巡っては上社・中社(当社)・下社が紆余曲折を経て現在の形に落ち着いています。
◎式内社 丹生川上神社は名神大社であり二十二社の一社となるなど、かつては屈指の大社であったものの中世以降は衰退し所在不明に。一旦は下社が比定されたものの、現在は中社(当社)を比定し、上社を「口の宮」、下社を「奥宮」とし、中社が上社と下社を包括する形で落ち着いています。
決め手となったのは、「類聚三代格」(平安時代中~末頃)所収、寛平七年(895年)の太政官符にある「東限塩勾 南限大山峰 西限板波瀧 北限猪鼻瀧」というものに合致するのが、当社であることから。
また森口奈良吉翁の緻密な研究から、当地こそが式内名神大社 丹生川上神社であると結論付けられました。
◎創建は社伝によると、天武天皇白鳳四年(675年)「人聲の聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨を止めむ」(社頭案内)と、神武東征ゆかりの地に奉斎したのを始めとしています。これは上記「類聚三代格」所収の大政官符記載を受けてのもの。当社祝や祢宜による解状に記される「名神本紀」から引いたもの。
◎神武東征ゆかりの地というのは、紀の神武天皇即位前記に記されるもの。神武天皇が東征の際に夢に天神が出現、天香山の土を取って天平瓮八十枚、厳瓮を作り天神地祇を祀れば賊は平らぐというもの。天皇は丹生の川上にて誓したところ神意にかなっていたので、「丹生川上之五百箇直坂樹」で天神地祇を祀ったところ、賊の平定が容易に行われたと。
◎また当地は社名通りに丹生都比売ゆかりの地でも。丹生都比売神社に伝わる古祝詞「天野告門」によれば、『丹生都比売命は吉野川沿いにこの丹生川上の地に上られ「国かかし給ひ」米作りと云う生産の安定を図りつゝ十市、高市、宇智郡、紀州の幾箇所かを経て(中略)丹生都比売神社に御鎮座された』とあるようです。
この鎮座地については境内を出て、「蟻通橋」を渡った北詰すぐ近くの摂社 丹生神社の辺り。
◎「十市、高市、宇智郡、紀州の幾箇所かを経て…」についての比定地は下記の通り。
*十市 → 大仁保神社(明日香村入谷)
*高市 → 大仁保神社(高取町丹生谷)
*宇智 → 丹生川神社

◎原初の信仰は「夢淵」に端を発するものと考えられています。「高見川」に「四郷川」と「日裏川」と三川合流する、この上なく美しい霊境。ここで先住民による素朴な信仰が始まったものと。摂社 丹生神社、つまり旧社地であり、丹生都姫や神武天皇が神籬を立てて祭祀を行ったのは、こちらの眼前。

◎以上をまとめると、素朴な水神信仰から始まった霊境に、丹生都比売が行幸、その聖地にて神武天皇が戦勝祈願、さらに天武天皇も「壬申の乱」前に当地で「戦勝祈願」、最終的に祈雨止雨祈願を行われるようになったと結論付けられるかと思います。
◎上社・中社・下社の三社の中ではもっとも新しいと考えられる社。現在のところ、上社と下社付近で縄文時代の遺跡が発見されています。おそらく当時より何らかの祭祀が行われていたと思われます。
縄文人は雪の季節には「吉野川(紀ノ川)」を下り紀伊国へ、それ以外の季節は遡り吉野郡の方へと、季節毎に移住を繰り返していたと想定されているので、今後当社周辺からも発見があるのかもしれません。
◎当社は大和神社の別社とされています。これは上記の太政官符にも記されていること。また大和神社境内には当社の元となる高龗神社が鎮座しています。

◎ご祭神や太古からの祭祀の歴史等、その他当社に関するあらゆる詳細は以下にて。
1回目 → 「丹生川上」信仰の深淵
2回目 → 神代の「丹生川上」信仰

3回目 → 神武天皇による「丹生川上」親祭
4回目 → 古代皇室の水神信仰「みぬま」と丹生女神(前半)
5回目 → 古代皇室の水神信仰「みぬま」と丹生女神(後半)
6回目 → 歴代天皇の丹生行幸と「吉野離宮」、丹生川上神社創建(前半)
7回目 → 歴代天皇の丹生行幸と「吉野離宮」、丹生川上神社創建(後半)
附 1 *附 2 *附 3 *附 4 *附 5 *附 6 *附 7 
附 8 *附 9


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※写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。












社前の禊場