丹生川上神社 上社


大和国吉野郡
奈良県吉野郡川上村大字迫869-1
(P有)

■延喜式神名帳
丹生川上神社 名神大 月次新嘗 の比定社

■社格等
[旧社格] 官弊大社
[現在] 別表神社
二十二社の第二十六位(下四社の一社) 

■祭神
高龗神
[配祀] 大山祇神 大雷神


吉野郡の山中の社。式内名神大社 丹生川上神社を巡っては上社・中社下社が紆余曲折を経て現在の形に落ち着いています。三社はそれぞれ車でも30分以上はかかるほど相当離れており、三社を以て「丹生川上神社」と捉えるのであれば、相当なスケールで祭祀が行われたことと思います。
◎式内名神大社 丹生川上神社は、中世以降は衰退し所在不明に。明治四年に一旦は下社が比定社となりました。ところが異議があり明治七年に下社を口の宮、上社(当社)を奥の宮とすることに。さらにこれにも異議が出て明治二十九年に現在の上社・中社下社となり、比定社は中社と結論付けられました。上社・下社中社に包括される形となっています。
◎神武東征の際に夢に天神が出現、「天香山」の土を取って天平瓮八十枚、厳瓮を作り天神地祇を祀れば賊は平らぐという神託がありました。天皇は「丹生の川上」にて誓すると神意にかなっていたので、「丹生川上之五百箇直坂樹」で天神地祇を祀ったところ、賊の平定が容易に行われたとあります。
◎また676年の天武天皇の御宇、「人声聞こえざる深山に宮柱を立て祭祀せば、天下のために甘雨を降らし霖雨を止めむ」御神誨により創祀。
さらに763年に祈雨のために黒馬が奉納され、以後祈雨の際は黒馬、止雨の際は白馬が奉納されるようになりました。
元は大和神社の別宮とされ、境内には丹生川上神社の元社(高龗神社)が鎮座しています。
◎当社はダム建設のため遷座されており、現社殿はきらびやかな古社の面影のまったく無いものに。明治の初年までは高龗社という小祠であったようです。ところがダム建設工事の最中に祭壇跡が出現(現社地境内に模したものが再現)、これが一旦、当社を比定社に宛てるもととなりました。また付近からは環状列石などを伴う縄文時代の遺跡も出現しています(宮の平遺跡)。下社の方も縄文時代からの祭祀が行われていたとされます。これらから類推すると、上社・下社の中間である中社において、飛鳥時代に祈雨止雨の祈りが捧げられたのではないかと考えられます。
◎社名から当然のことながら、丹生都比売の姿が思い浮かばれます。おそらく奉戴氏族が関わったのでしょうが、その痕跡を見出だすのは困難。比売への奉斎経緯を考えると、少なくとも三社のうちいずれかで祀られていたのであろうと。いずれも山深いいわゆる「深吉野」の地であり「中央構造線」上。おそらくは水銀が産出されていたであろうと思います。

※写真は2017年3月撮影のものです。








旧社地で発見された祭壇を再現したもの。


旧社地はこの方角に。