◆ 「大美和」 第146号 (~その1)





大神神社が講社崇敬会会員等向けに
年2回発行される「大美和」。

今号で146号目。
70年余り続いているもの。

神職たちの大神を奉斎する
「篤い」「熱い」お気持ちがダイレクトに伝わってくる小冊子。

並々ならぬ熱意を持って発行に及んでおられるご姿勢が垣間見られます。この書を頂けるだけでも講社崇敬会会員である価値はあると。

今回の寄稿は特に私の興味を沸き立たせるもの。大いに勉強させて頂きました。
あまりに長くなるので2回(3回になるかも…)に分けて記していきます。




先ずは新宮司からの御挨拶。
昨年末に引き継がれました。

日本国家を左右しかねる
…と言ってもいいほどの大神への奉斎。

とてつもない大任でしょうが
御活躍を陰ながら御祈り申し上げます。

大神神社の知名度が全国的にやや見直されつつあるのは、先代宮司の御功績でしょうかね。




古事記の研究で知られる菅野雅雄氏による
「三輪山セミナー東京」での講演録から寄稿されたもの。

もう結構なお歳だと思うのですが
中身の濃さはヤバイですね…

144号でも「古事記」の葦原中国と出雲というタイトルで寄稿されています。今回はその後半部分といったところ。
(前半部分の144号は → こちらの記事にて)



■ 神武天皇の「始馭天下之天皇」

神武天皇が東征し大和を平定、そして「始馭天下之天皇」と名付けられたとありますが…一般に「ハツクニシラススメラミコト」と訓が付されています。
意味としては「初めて国を統治した天皇」といったところ。

それが第10代崇神天皇の「御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)」と同じ訓みであり、2人(神)の「初めて国を統治した天皇」が存在するのはおかしい。神武天皇は架空の天皇ではないか?などとも言われます。
(記では「知初国之御真木天皇」と記される)

明確な答えを出されています。
「始馭天下之天皇」の訓みは、「ハジメテ アメノシタシラシメススメラミコト」であると。

「天上」の高天原から降臨した皇孫が、初めて「天下(アメノシタ)」を統治した天皇であると。

2代目綏靖天皇から9代目開化天皇にかけて徐々に勢力範囲を広げていきます。
葛城地方の東端の小さな支配地から、丹波国(当時は丹後・但馬国も含む)と連携できるまでに。そして崇神天皇により、多くの豪族の政治勢力と権力を併合してヤマト国成立の基礎を固めたのであるとしています。

「国家」について菅野氏は、
━━ 一定の範囲の土地があって、そこに人が住んでいて、住んでいる人の間に支配被支配の関係が生じた時に、初めてそこが国家となる…(中略)…支配・被支配と言ったら…(中略)…被支配者とは税金を納める者。…(中略)…その三要素が整った時…(中略)…初めて国家が成立する━━としています。

神武天皇の時には国家の仕組みが書いておらず、崇神天皇の時に初めて税金が出され国家が出来上ったとしています。
だから崇神天皇は「初国」の名であると。

もうこれが答えでいいんじゃないでしょうか。少なくとも今後私はこの説で進めていきます。



■ 「初国」の範囲

とにかく疫病の大流行に苦しめられたのが崇神天皇。

ある夜、夢に大物主神が現れ「我が御前を意富多多泥古に祭らせよ」と神託がありました。そこで(1)意富多多泥古(紀は「大田田根子」)を探して見つけ、神主として祭らせました。
さらに(2)伊迦賀色許男命(イカガシコオノミコト)に命じて、「天の八十平葺(やそひらか、=皿状の祭器)」を作り天神地祗の社を定め奉りました。また(3)宇陀の「墨坂神」に赤色の楯矛を祭り、(4)「大坂神」に黒色の楯矛を祭りました。また(5)「坂の御尾の神」、また「河の瀬の神」にもれなく幣帛(みてぐら)を奉りました。これらを以て国家が安泰となったのです。

(1)から(5)まで番号を振りました。
(2)(5)は「複数の神々を対象」とした記事であり、(3)(4)は「個の神の祭祀」であると。
そして(3)(4)は「初国」の「四至」を表す記事であると。以下に「四至」の場所を菅野氏の図に倣い、示しておきます。

*(3)「墨坂」は四至の東限。但し神武東征は南方からの行程であったため、東を示す「青」ではなく南を示す「赤楯」を祀った。また崇神天皇は紀伊国造家系の荒河刀弁(アラカワトベ)を妃としている。
*(4)「大坂」は四至の西限。但し西を示す「白」ではなく北を示す「黒楯」を祀ったのは、第9代開化天皇が丹波の竹野比売を皇后としているため、北の境界線は不要となった。
*北の「春日」は北限として示したもの。豪族の春日氏(和珥氏系)の政治勢力と権力を併合したため(当時春日大社はまだ存在しない)。
*南の「宮滝」は南限として示したもの。根拠は示されていないが、神武東征ゆかりの地であり、この先の南方はさらに深い山々となるためか。
*北限・南限については少々反論したくはなるものの、場所の大差はないので倣っておきました。


崇神天皇を祀る天皇社(大神神社 末社)。



■ 大物主神の登場

紀では巻第二の第八段第六の一書に、大国主神の別名として書かれています。ところが記には大国主神の別名にはありません。これはなぜなのか…。

神武東征東征前からスタートします。
神武天皇が日向にいた時に、「阿多」(鹿児島県の一番北)の小椅君(隼人族と思われる)の妹である阿比良比売を娶ります。

東征を終え即位すると、三嶋溝咋の娘である勢夜陀多良比売が大物主神に娶られ生まれた比売多多良伊須気余理比売を大后として迎えます。

勢夜陀多良比売が川で用を足していると、大物主神が矢に化身して流れて来て陰を突いた…というかの有名な神話。そして生まれたのが皇后となる比売多多良伊須気余理比売(紀は姫蹈鞴五十鈴媛命)。

神武天皇は鵜葺草不合命という神の子。つまり神武天皇も神。神が迎える大后は神の子でならないといけない。だから神である大物主神の子の比売多多良伊須気余理比売を迎えたと菅野氏はしています。神の子ではない阿比良比売ではいけないのであると。

「古事記」を作ったのは天武天皇。天智天皇の崩御後、壬申の乱により近江朝廷軍を倒して即位しましたが、世間からはクーデターにより皇位継承者を倒して奪い取ったと思われても過言ではない。天武天皇こそが真の継承者であることを示さねばならなかった…と。

近江朝廷の主は大友皇子。天智天皇崩御後に空位ということは考えにくく、天武天皇が即位するまでは大友皇子が弘文天皇として即位していたと明治政府は第39代天皇としました。

その大友皇子は、父はもちろん天智天皇、母は伊賀国の郡司の娘ではないかとされる伊賀采女宅子娘(イガノウネメノヤカコノイラツメ)。
一方の天武天皇は、父は第34代舒明天皇、母は第35・37代皇極天皇(斉明天皇)。つまり天皇と天皇の間の御子という最上の出自。皇位継承の正統性を「神の子」というところに求めたと、菅野氏は結論付けました。

もちろんそれまでの歴代天皇のほとんどが、豪族の娘を皇后としています。ですから大友皇子(弘文天皇)が即位する上では何ら問題はないのですが、天武天皇の方が遥かに皇位継承に相応しいということを知らしめたかったのでしょう。だから「古事記」を作ったのだと菅野氏はみています。

そうすると一方の「日本書紀」の方は持統天皇でしょうか。持統天皇が即位してからはそのように変わったように思います。もちろん対中国向けの正史を整えたいという理由が当初にはあったのですが。
これで日本の歴史書が同時進行で2つも編まれたという辻褄にも説明がつきます。

そして大物主神が大国主命の別名であると記さないのは、大物主神が神として存在せねばならないために伏せているということが分かります。

大国主命の前に「海を光して依り来る神ありき…」と登場し、「御諸山(三輪山)の上に坐す神なり」と説いたのが大物主神。



菅野氏は冒頭にて、この「なぜ?」の解決に六十年かかったと述べられています。大変にありがたくも一瞬で拝受させて頂きました。

菅野雅雄氏…ちょっとこの御方の功業を追ってみたいと思います。

「三輪山」



いや…
ちょっとばかりどころか、えらい長くなってしまいましたね…

これでもずいぶんと端折ったつもりなのですが…。

続きは次回に回します。


*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。