◆ 「大美和」 第145号 (~その2)






(~その1)の記事 からの続きです。



軽く受け流せそうにないテーマばかりなので、2回に分けました。


~*~*~*~*~*~*~*~*~*~




■ 継体・安閑天皇と倭王権

「謎の大王」という形容詞で語られる継体天皇。古代史・考古学の分野から古来より様々に論じられてきました。

その継体天皇を長子の安閑天皇にも着目することで、新たな視点を広げてみようという試み。

現在中断中の「阿蘇ピンク石」製石棺のテーマ記事においても、継体天皇はその核の一でもあり、しっかりと学んでおきたいところ。

焦点は継体天皇が、前代(武烈天皇)と血統の繋がらない新しい大王なのか否か。遠藤氏は新しい大王という趨勢に反論を唱えています。

先ずは記の武烈天皇・継体天皇段から。
━━(武烈)天皇既に崩りまして、日続(ひつぎ、=皇位継承)知らすべき王なし。故、品太天皇(応神天皇)の五世の孫、袁本杼命(ヲホドノミコト)、近淡海国(近江国)より上り坐さしめて、手白髪命(タシラカノミコト)に合わせまつりて天下を授けまつりき━━

手白髪命とは、武烈天皇の妹である手白香皇女のこと。継体天皇の皇后となりました。

一方、紀の記述。
━━男大迹天皇(継体天皇)、誉田天皇(応神天皇)の五世孫、彦主人王(ヒコウシオウ)の子なり。母を振媛といふ。振媛は活目天皇(垂仁天皇)の七世の孫なり…━━

継体天皇は母とともに皇族の古い血を引いているとあります。この後に父を亡くし母の実家である越前で育てられたと。
つまり記は「近江国」から、紀は「越前国」から倭王権に迎えられたということになります。

その他、即位年を記では43歳としているのに対して、紀では57歳としている相違点を挙げています。

皇位継承の様子を紀は詳細に伝えています。
━━大伴金村大連、乃ち跪きて天子の鏡・剣の璽符(みしるし)を上り、再拝みたてまつる … 大伴大連等、皆曰さく「臣伏して計るに、大王民を子として国を治めたまふこと、最も宜称ひ(かなひ)たまへり。臣ら宗廟社稷の為に計ること、敢へて忽(いるかせ)にせず、幸に衆の願に籍りて乞はくは、聴納る(ゆるしいる)ることを垂れたまへ」とまをす。男大迹天皇の曰はく、「大臣・大連・将相・諸臣、みな寡人(われ)を推す。寡人敢へて乖かじ(そむかじ)」とのたまひ、乃ち璽符を受けたまふ。
是の日、天皇、位に即きたまふ。大伴金村大連を以ちて大連とし、許勢男人(コセノオヒト)大臣を大臣とし、物部麁鹿火(モノノベノアラカヒ)大連を大連とすること、並に故の如し。是を以ちて大臣・大連ら各職位のまにまにす━━

これは「樟葉宮(くずはのみや)」にて、「継嗣選定会議」のようなものが開かれたもの。
大伴金村らからの即位要請を受けた継体天皇が、皆の要請なら…と反対せず受諾したと記されています。

ここで重要なのは、前代のスタッフ(大臣や大連ら)がそのまま再任されていること。
さらに遠藤氏はこの後に続く手白香皇女を皇后としたことにも着目(引用は割愛します)。既にキサキがいたのに武烈天皇の妹を皇后としています。

継体天皇が「磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)」へ入るまでに20年もかかっています。これには相当の抵抗勢力があったためとするのが趨勢。ところがスタッフの再任や前代の妹を皇后としたように、抵抗勢力の存在は考えられないとしています。

大和に入りしたのが20年後ということに関しては、「継体天皇自らの拠点の選択」を前提とし、「自分の基盤である近江・越前に片足を置きつつ倭王権の新しい君主として…」としています。

これは「樟葉宮」、次の「山城筒城宮」が「淀川」水系にあり、遡上すれば琵琶湖へ、さらにその先に越前があるという見方から。




ここでこの寄稿文に載せられている系図を拝借して掲載します。
本来なら著作権等の問題があるのでしょうが、ま…こっそりと。簡単な図であることですし、本文はトリミングしましたので。

これは「上宮記曰一云」という、「釈日本紀」より引用されたもの。文章をもとに図を起こされています。

そもそも「上宮記」自体の信憑性は高くなく、ましてや「一云」。しかも確か「上宮記」は逸文であったかと思われます。
ですが、「釈日本紀」が引用したということが決め手でしょうか。

この系図で分かることは、「継体天皇は入婿として理解できること」としています。それは即位後に手白香皇女が皇后となったことから。
またこれは第24代仁賢天皇も同様に解釈できると。父である市辺押磐皇子を雄略天皇に殺され、身を按じて丹後や播磨に隠棲していましたが、発見され即位した際に雄略天皇の娘である

春日大娘皇女を皇后としています。

これらから、
「五世紀の大王家、六世紀の大王家は連続しているのです。もっといえば倭王位の継承が血縁に規定されていた」としています。だからこそ「入婿のような婚姻が必要とされた」と。

遠藤氏は安閑天皇への着目を促しています。安閑天皇は継体天皇の即位前、まだ近江または越前にいた時代の目子媛(メノコヒメ)の子。ちなみに安閑天皇の弟が次代の宣化天皇。

その安閑天皇が継体天皇

安閑天皇は名は勾大兄(マガリノオオエ)。「大兄」は皇族のなかでも特に有力な皇子にのみ与えられた名であろうとしています。
在位期間はわずかに2年。多数の「屯倉」設置、「勾舎人部」「勾靫部」を置いたことのみが事蹟として記されます。

継体天皇が即位した際に、前代のスタッフを再任させたと書きましたが、彼らは継体天皇を担いだ側の者たち。天皇が本当に頼みとしたのは、「みずからの分身である息子たちに他ならない」と。

続記の天平勝宝三年(751年)条に、雀部真人という人物が祖先の記録に間違いを申し出る記事があります。
そこに「磐余玉穂宮・勾金椅宮(まがりかなはしのみや)に御宇しし天皇の御世に…」という記述があります。

「勾金椅宮」は大和国高市郡にあった安閑天皇の宮処。
普通は二代の天皇に渡る場合は、「○○宮御宇天皇・○○宮御宇天皇」となるはず。ところが続記の表記だと曖昧で、どちらの天皇の時世なのか不明。これは極めて異例なもの。

ここで遠藤氏が大胆な仮説を上げます。
━━治世の「重複」とは、継体と安閑の父子、大王が実質的には二人いた状況を考えてみます。それが宮二つの御世と記したことの原因ではないかと━━
つまり継体と安閑による「共同統治」であったと。

継体天皇七年十二月条には、
「春宮に処て、朕を助けて仁を施し、吾を翼けて(たすけて)闕(けつ、=宮のこと)を補ふべし」とあり、「統治権の一部を勾大兄皇子に与えた」と解釈できるとしています。

まったくの意表を突かれた説。
公式には継体天皇の後、安閑天皇、宣化天皇と目子媛との二子が相次いで即位。そして春日大娘皇后との間の子が欽明天皇として即位します。
ところが安閑天皇、宣化天皇と欽明天皇との二統が並立して存在したとする説も有名。これらを根底から覆す説を解いています。

戦後間もなくに、それまでの制約が解かれて出された水野祐氏に端を発する「王朝交替論」。以降、これが主流となっていますが、部分的な見直しが必要とされる時期にきているのかもしれません。


~*~*~*~*~*~*~*~*~*~



■ 大和の御田植(オンダ)行事

政治、皇位継承といった息苦しく緊張感漂うものを扱ったので、ほっとした心持ちで。

先ず最初に農耕儀礼の「モノ」から紹介されています。
◎農具再利用の木製仮面
奈良県桜井市の大福遺跡・纏向遺跡、東大阪市の西岩田遺跡から、全国で3例発見されています。これは鍬を再利用したもので、2~3世紀頃のもの。「ヤマト王権の儀礼の影響を受けた有力者が祭りに使ったのではないか」という意見も。邪馬台国の時代と重なる可能性もあります。

続いては「文字」。田植えに関わる文献がいくつか紹介されています。
◎「栄華物語」
藤原道長邸での早乙女や田楽衆の記録
◎「古本説話集」
◎「枕草子」
「折れ伏すやうに…うしろざまにゆく」田植えの様子を見て、「ほととぎす、おれ、かやつよ。おれ鳴きてこそ、我は田植うれ」

次に能楽・狂言の田植。
◎脇能物「賀茂」
◎狂言「みずかけむこ」

さらに、柳田國男氏の「遠野物語」。

そして今回の目玉となっている「民俗行事としてのオンダ」。先に正月以降いろいろと行われる民俗儀礼が紹介されています。
◎年の始めの「仕事始め」
◎寺院での「修正会・初祈祷・オコナイ・ショウゴン」
◎「粥占」「豆占」
◎農耕開始直前のノガミ(野神)祭り
◎「御田植行事」(オンダ)
◎田植え始めと田植え終いの「サビラキ」「サナブリ」
◎神社での「ケカケゴモリ」
◎「虫送り」、「雨乞い」
◎収穫時に稲穂を畦に立てる「刈り上げ」
◎「秋祭り」

もっと深く勉強していかねば…と常々思ってはいますが…
自身の足が動かなくなってからかな…。

◎「御田植行事」
大和では「御田(オンダ)」、関東では「田遊び」などと呼ばれることが多いようです。
もっとも有名なのは伊雜宮「御神田(オミタ)」でしょうか。
他に東京都「徳丸の田遊び」、静岡県「藤守の田遊び」、和歌山県「花園のオンダ」、住吉大社「オンダ」、広島県「大田植」なども挙げられています。

◎大和国内の「オンダ」
すべてを寄稿通りに紹介するわけにもいかないため、手向山八幡宮の「オンダ」のみ原文引用しておきたいと思います。

手向山八幡宮「オンダ」(二月節分)
━━二月節分の日に能狂言の様式による行事が行われる。翁面を着けた田主(宮司)、牛役の少年(牛童)、早乙女役の巫女、白丁姿の地謡などが登場する。田主が、瑞垣の門の柱元に小松と小幣を立て掛け、キリコ(切り餅)と大豆と籾種を供え、これに向かって小鼓とスリガネ(銅拔子、仏教的なものと思われる)を打って水口祭りをする。田主が「今日た最上吉日なれば鍬初めをせばやと存じ候」と語り、①鍬初め②牛使い③エブリ使い④肥使い⑤種蒔き⑥見廻り⑦早乙女招き⑧田植え
江戸時代後期の記録では、立春以降の正月卯日に行われ、八乙女神楽や若宮のオンダも行われていた。永禄一一年(1568年)のオンダの延引にも触れることから、一六世紀後半には行われていたらしい。類似の詞章は、奈良市菅原の天満神社や吉野町の吉野水分神社にも伝わっている。能狂言の形式をとって、節分に行われる田植行事であるが、特に「水口祭り」の方法が注目される。籾と大豆とキリコを供え、銅鈸子と鼓を軽く打つ所作は、籾種の発芽と無事成長を願って楽器で囃す行為だと考えられる。大神神社の御田植祭でも神官が祭文を唱えて水口祭りをするが、吉野水分神社でも同様の行為がある。大和高原の各地の秋祭りで行われる田楽のなかに、楽器の周りを飛び廻ったり、扇で煽ぐ所作があるが、これも苗を囃す所作と考えられる。中国地方では実際の田植えを歌や太鼓で囃す「大田植」が行われるが、「田植えを囃す楽」としての田楽の一部が伝わった行為だと思われる━━

東大寺の鎮守社であるため仏教色が強く、神事とは無縁の楽器も使われるようです。

春日大社「オンダ」(三月十五日)

大神神社「オンダ」(二月六日)

廣瀬大社「砂かけ祭り」(二月十一日)

廣瀬大社境内の案内板より


六県神社「オンダ」(二月十一日)

子供の出産場面を演じる「子出きオンダ」で知られる。

飛鳥坐神社「オンダ」(二月第一日曜)
男女の交わりを神前で演じる奇祭で有名。




平尾水分神社「オンダ」(一月十八日)

白山神社(大宇陀野依)「オンダ」(五月五日)

以上の一例が挙げられていますが、大和国内では現在56ヶ所で「オンダ」が確認されているとのこと。

━━農村部における暮らしの根幹にかかわる特色ある儀礼で、…農耕に関わる人々が、演じる者と見守る者に分かれながら神前で一体となって、楽しみそして祈るという生業に根ざした素朴な「民衆演劇」である━━と記しています。