◆ 玉鋼の杜 ~金屋子縁起と炎の伝承~ 21






「合祀神社及び氏子奉仕について」
「社家の記録」
この2章は飛ばします。

続いて始まるのが「宮司の記録」という章。

著者でもあり、金屋子神社の現宮司でもある安部正哉氏の、宮司になるまで~宮司就任~就任後の調査・研究記録などが綴られています。


その宮司の調査・研究記録から、必要と思われるものだけを抽出します。


今回がこのテーマのラストの記事となります。
長らくご愛顧頂きありがとうございました。

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■過去記事
1 … 金屋子神社の概況(金屋子神祭文雲州非田伝)
2 … 金屋子神の信仰圏
3 … 「金屋子神」八幡神説(前編)
4 … 「金屋子神」八幡神説(中編 1)
5 … 「金屋子神」八幡神説(中編 2)
6 … 「金屋子神」八幡神説(後編)
7 … 「金屋子神」天日槍神説(前編)
8 … 「金屋子神」天日槍神説(中編)
9 … 「金屋子神」天日槍神説(後編)
10 … 「金屋子神」卓素系神説
11 … 「金屋子神」素盞鳴尊・韓国伊太氐神説
12 … 「金屋子神」金山彦命
13 … 「金屋子神」その他諸々説
14 … 「金屋子神」の呼称(前編)
15 … 「金屋子神」の呼称(中編)
16 … 「金屋子神」の呼称(後編)
17 … 「金屋子神」古文書等からの考察(前編)

18 … 「金屋子神」古文書等からの考察(後編)
19 … 「金屋子神」にまつわる話
20 … 「金屋子神」のまとめ

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■ 金屋子神のルーツを訪ねる

◎兵庫県「宍粟郡千種町岩野辺」へ

「金屋子神祭文」には金屋子神が、
「播磨ノ國志相郡(しさはのこほり)岩鍋」という所から、「出雲ノ國野義ノ郡黒田ノ奥非田の山林」にやってきたとあります。

安部氏は昭和五十四年に訪れています。
その紀行文的なものが掲載されており、こちらでは必要情報のみを抽出します。



赤の破線囲みが「宍粟郡千種町岩野辺」
左上部の「三室山」から南方へ「千種川」
右上隅部から南へ黄の道路沿いに「揖保川」
上の緑のチェックポイントが金屋子神祠。



金屋子神が元いた所というのが「岩鍋」(現在の「岩野辺」)。
兵庫県の真ん中(南北)の西端、岡山県と鳥取県に接するところ。深い中国山地内。西に「千種川」、東に「揖保川」が流れています。

*千種の奥に「天児屋」という処があり特に良質の鋼を産出したと、地元郷土史家は語っているとのこと。
━━神功皇后が三韓征伐で渡航される折、赤穂(「千種川」下流)の沖を通過され、「千種川」河口の水の濁りをご覧になり、これは川上の「天児屋」で、天児屋根命が製鉄しているためだと云われたと伝えられている。そして皇室の守り刀はこの土地の鋼を素材として造られたという━━

*現在の千種町に限らず接続する波賀町、一宮町にわたって、この播磨の山ふところで有数の鉄山が展開していたと思われると。
鉄の奪い合いを伝承とする伊和神社が一宮町に鎮座しています。

*この辺り播磨の山奥には鉄山労働者と木地師が交り住んでいた。「梶」という姓は鉄山者の系統で、「椋」という姓は木地師の流れであり、この地方にはこの二つの姓を名乗る者が多いと。
その他にもそれを裏付ける説明がなされています。

*金屋子神が元居た処というのが、現在の「荒尾」という地ではないかと地元郷土史家は考えておられるようです。
上部に掲げた地図の3枚目、「金屋子神降臨の地 岩鍋」、「指定した地点」(金屋子神祠がある)が相当すると思われます。現在はGoogle Map等で確認する限り、石碑や案内等が設けられているようです。

当地には比田へ金屋子神が飛び立ったという伝承はないものの、鉄山師や村下が本社(金屋子神社)へ参詣していること、金屋子神の祠が今もたくさん残っていること(昭和五十四年時点のこと、現在は不明)などから。


赤破線囲み … 千種町西河内
赤三角 … 鍋ヶ森神社
紫三角 … 「金屋子神降臨の地」石碑



金屋子神飛び立ちの地として、著者はもう1ヶ所上げておられます。
「岩野辺」の北の「西河内」集落にある蜂尾神社(現在は「鍋ヶ森神社」/天御中主神)。土地の人は「お鍋さま」「森さま」などとも呼び、古くは岩穴や森そのものを御神体としていたとか。




河内国大県郡(現在の大阪府柏原市)に鎮座する両社。金山彦神・金山媛神を冠する唯一の式内社。
私自身も概ね月に一度以上は参拝を重ねていますので、当ブログでもお馴染みのお社。

荒んだ状態のお社に金屋子神社の安部宮司は大変に嘆かれたようです。
当時は現在の藤森宮司が務められる前の先代宮司のこと。現在の境内はかなり整備がなされ美しいものとなっています。ただし近年まで基幹産業を為していた地域で、崇敬を一心に集めていた金屋子神社とは比較にならないのではないかと…。





これでおしまい。

念願の金屋子神社に初めて参拝をしたのは昨年(2022年)の11月のこと。およそ8ヶ月をかけて記事にしました。

「金屋子神」の正体が明かされているわけでもないですが、多少は偉そうに語られるくらい密な内容を吸収させて頂きました。
これはひとえに金屋子神社宮司であり、著者でもある安部正哉氏が調査研究に苦心されたことによると思われます。



《完》



金屋子神社に奉納された「鉧(ケラ)」。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。