(但馬国一ノ宮 出石神社)





◆ 玉鋼(けら)の杜
 ~金屋子縁起と炎の伝承~ 7





前回の記事までで「金屋子神」八幡神説は終了。

今回より天日槍神説に突入します。
おそらく3回に分けることになるかと思います。場合によっては2回となるかもしれませんが。

今回は前編となります。



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■過去記事
1 … 金屋子神社の概況(金屋子神祭文雲州非田伝)
2 … 金屋子神の信仰圏
3 … 「金屋子神」八幡神説(前編)
4 … 「金屋子神」八幡神説(中編 1)
5 … 「金屋子神」八幡神説(中編 2)
6 … 「金屋子神」八幡神説(後編)
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■ 「金屋子神」天日槍神説(前編)

◎「古代の製鉄」山本博氏著より。

氏は江田船山古墳(未拝)から出土した鉄刀の銘文にある「伊太○」について、「伊太祁(イダテ)」と推定しています。

この「伊太○」については諸説あり、主に以下3説が挙げられます。
*「伊太加」
*「伊太於」
*「伊太和」
最新の科学調査では「伊太和」であるとされます。前後の文面よりいずれも鉄刀の製作者であろうと。

「伊太祁」説は初耳。
この著書を長年所望し、ネット上で探索を続けているものの常に在庫無しの状態なので。

したがってこの説には賛同しかねるのですが、掲載しておきます。


まず「イダテ」関連の神社を挙げています。
出雲5、播磨2等々14社。
出雲が最も多いと。

また社名に「韓国」を冠している神社があり(揖夜神社境内社の韓國伊太氐神社など)、「韓国から出雲へのコースを表している」と。

「イダテ」の表記は伊太氐・射楯・伊達等々あるが、祭神が「五十猛」という神社もあり、「イダテ」と読むことが考えられ、「イダテ」は「作刀神」であるとしています。

播磨国総社の射楯兵主神社(記事未作成)は、出雲系のイダテ神と出石系の兵主神(天日槍神)の二神。播磨国各地で国占め争いをしたと。

兵主神の分布は
但馬6、播磨2、因幡2等々18社
但馬に多く出雲には1社も無い。

つまり「出雲系イダテ」と「出石系兵主神」が勢力拡大を図り、播磨において国占め争いがなされたとしています。



◎「古代日本の製鉄に対する韓国文化の影響」日本鋼管連盟 窪田蔵郎氏より。

金屋子神の縁起書(金屋子神社の記事に紹介)に、播磨国から(別伝で奥州から)比田(金屋子神社鎮座地)への移動は、砂鉄や木炭を求めて、たたら民族が移動したものとし、特に白鷺に乗って移動したとあるのは、「天日槍神説等を総合的に考えるのであれば、韓国式服装をした製鉄技術者の移動である」としています。



◎「古代工人史紀行」深沢武雄氏著より。

金屋子神社金山彦命・金山媛命が祀られるようになったのは中・近世以降のこととしています。

金山彦命・金山媛命は大和の金神であり、しいて言えばのちの大和朝廷直属の金神であると。したがって金屋子神社の「金屋子神」とはまったく別個の神であると。

一方天日槍神は種々のものを携え新羅より渡来して来ていますが、その際に、「配下には製玉・製刀・製鏡にたずさわる工人らとともに、恐らく製鉄にかかわる人もいたであろうと推察される」としています。

「播磨風土記」には、出雲系の葦原志挙乎命とさかんに国占めの争いをしたとあり、播磨は葦原志挙乎命のものとなり、天日槍神は但馬へ。
ところが多可郡黒田庄(現在の西脇市黒田庄町)に一社、天日槍神を祀る兵主神社が残っているとのこと(未参拝)。

そして「山の四面に十二の谷あり、皆、鉄をいだす」とみえ、その鉄を発見したのは、「別部の犬」という人物であると記されていると。
さらに託賀郡荒田の条には、天目一箇神を奉祀したという記事がみえると。

「別部の犬」とは自身が犬であると称して、鉱脈を探し回っていた部民。
犬と言えばやはり隼人でしょうか。「警蹕(けいひつ)」という犬の遠吠えが想起されます。神事などで、真っ暗にして低い声で「うぅぅぅ…」と呻くアレですね。
和気氏が関わると思われます。宇佐八幡宮神託事件で知られる和気清麻呂が末裔。垂仁天皇の第10皇子の鐸石別命(ヌテシワケノミコト)を祖とする氏族。「鐸」は銅鐸や鉄鐸の鐸であり、明らかに産鉄(産銅)鍛冶氏族。

中断しましたが戻して、その結論として以下の内容を示しています。
━━古代日本における製鉄の創始期にあっては、それぞれの産鉄地に、それぞれ固有の鉄山師あるいは、製鉄にたずさわる工人の集団が徘徊していたのであり、その各々の象徴的な存在が、大和では、金山彦命・媛命、播磨では天日槍神・天目一箇神・犬などとなっていたのであった。つまり、それらの神々、あるいは人物に代表される古代鉄山師たちは、互いに独立に、絶えずより良質の砂鉄の山を探し求め、時にはその砂鉄地帯をめぐる激しい抗争を繰り返しながら、営々と鉄製品を製作し続けたのである━━

また続けて、
━━そして、あえて金屋子神降臨譚の金神について述べるならば、その金神が播磨からはるばる出雲に飛んできたという一節は、当時としてはより先進的な播磨系の製鉄技術が、ある時期に、もちろん人とともに出雲地方へも伝播していった━とそんな昔のいきさつを具体的な意味として含んでいるのではなかろうか。そのより先進的な技術が、直接天日槍神のそれにつながるとまではいわないまでも━━と。

以上をまとめると、ある時期(中・近世以降)に播磨系の製鉄技術が出雲地方へ伝播。その際に播磨地方で象徴的な信仰の対象であった天日槍神も伝播したということになろうかと思います。

とすると、問題は中・近世以前の信仰は?ということになりますが、それは示されていません。

金屋子神社の創建年代は分かりません。神名帳に記載が無いということはそれ以降、つまり

播磨国各地で天日槍神と、しきりに国占め争いを行ったのは葦原志挙乎命。これとて「国占め争い」に於いて担がれたのが葦原志挙乎命ということであって、製鉄鍛冶従事者たちが信仰していたということではないかと。





*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。