(金屋子神社の神門越しに拝殿を)
◆ 玉鋼(けら)の杜
~金屋子縁起と炎の伝承~ 4
前回の記事では「金屋子神」の八幡神説「前編」を。今回はその「後編」となる予定でした。
ところが到底、2回では収まりそうにないために「中編」を設けます。
ブログですし、あまりに長い記事になるのもどうかと。ほどよく切ることにしました。
「前編」では導入的なもの、「中編」と次回の「後編」はその核心に迫るものとなります。
これはまた、このシリーズ記事全体の核心となるものかもしれません。
ご興味ある方にとっては、クライマックスくらいのレベルでご覧頂けたらさいわいです。
■ 「金屋子神」八幡神説 (中編1)
今回は「八幡神」と「金屋子神」とのつながりについて。
━━八幡信仰は、「玉依姫考」に説かれているように、母子信仰に始まっている。即ち、八幡三所の一所たる比咩神とは多くの場合玉依姫で、「依」は「魂の依りつく意」で、八幡神は、そうした、大神に仕える巫人と御子神との母子三柱の神を中心とした信仰から始まったと説き、その証左として、大隅正八幡宮の縁起を掲げておられる。これと変わらぬ母子信仰本来の形に近い話を、赤来町の旧県社「出雲赤穴八幡宮」において発見したとして、柳田先生の説かれる八幡信仰のより古形のものがあった。又、この八幡宮が鎮座する場所の小字が「金屋」となっている。金屋とは、いうまでもなく、金屋子信仰の伝承者・炭焼小五郎の撤布者であった。それがこの地名として残っていることは、また金屋子神と八幡神との関連をいっそう深く感ぜしめずにはおかない━━
◎先ずは「八幡信仰」。
応神天皇(誉田別命)を主神として、比売神(比咩神)・応神天皇の母である神功皇后(息長帯姫命)を「八幡三神」として祀る社。
「八幡三神」のうち比売神や神功皇后に代えて、仲哀天皇や武内宿禰、玉依姫命が祀られている神社もみられます。
比売神(比咩神)に関して多くは宗像三神のこととされます。他に玉依姫命(応神天皇の妃、叔母、母などとされる)、皇后である仲津姫命とするものも。
ここでは応神天皇・神功皇后・玉依姫命の母子三神ということと思います。
◎次に「炭焼小五郎」。
豊後国に伝わる長者伝説で、全国に伝播しています。「真名野長者」伝説や炭焼藤太とも。
━━奈良の都に、久我大臣の娘で大変美しいが顔に醜いあざを持ち、結婚できない玉津姫という女がいた。三輪明神から豊後国の炭焼小五郎と結婚するようにお告げがあり、豊後国海部郡へ向かい貧しい小五郎と出会い結婚する。「金亀ヶ淵」の水で顔を洗うとあざはすっかりなくなり、また当地で採れる「黄金」のおかげで二人は瞬く間に長者に。そして般若姫という美しい娘が生まれる。そこにお忍びで来ていた橘豊日皇子(後の用明天皇)と結ばれ身籠る━━
橘豊日皇子は豊後に来て最初に宇佐八幡宮(記事未作成)に詣でたとされます。ここで「金屋子信仰」と「八幡神」とが繋がります。「八幡神」は鍛冶神であるということに。
そして当書においては「豊薩軍記」という書から以下を引用しています。
━━八幡信仰を運んだものが金屋であり、しかしてこの神の名が金屋子神であるということを考えるとき、当然に因縁の浅からぬものを感ぜざるを得ぬのである。のみならず、降臨譚には神を運んだものが白鷺であったと伝えている。白鷺とは八幡の遺し女であり、かつ、朝日長者の福神でもあった━━と。
また八幡神(=鍛冶神)が宇佐に残らず、中国山地に発達することになったのかについては、
━━ここには量質ともに豊富な砂鉄があり、それによるいわゆる鑪吹きの技術が古来最も盛んであったからに外ならない。いい替えれば、その信仰の基盤とも称すべき条件が、ここではもっとも安定していた━━としています。
そして宇佐の八幡神が国家第二の宗廟として中央からの影響を蒙ったのに対し、この地は都からも遠く比較的純粋のまま、火の神の伝統を継がしめたとも。
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ここまで前編から引き続き、民俗学者 石塚尊俊氏の説が記されてきましたが、他氏の説を。
◎村岡浅夫氏(「ひろしまみんぞく」著者)
「神・村下・ヲナリ」は八幡神の伝説と同系と考えられるとしています。
また金山彦命はいわゆる鉱山の神であるとし、金屋子神は広く技術者・鉱山所有者・鋳物師・金売買業者等鉱山関係者の神であると。それは八幡信仰の多様性にも通ずるとしています。
今回はここまで。
このくらいまでがほどよい長さかと思いますので。
正月期間中は暇であった仕事の方も徐々に忙しくなり、またそろそろ敬神活動もゆっくりと開始していこうかと予定しています。
自身の負荷も考え、今後はこのテーマの記事を上げるペースが少々落ちるかと思います。