◆ 玉鋼(けら)の杜
~金屋子縁起と炎の伝承~ 12
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遅くとも21時には就寝します。
月に一度ほど早朝3時起きもありますが。
したがって記事は
12時と20時を予定に上げます。
またコメント返信等も
仕事日は26時頃まで、
お休みの日は21時までとなります。
さて…本題。
今回は「金屋子神」金山彦命説を。
現在の主祭神でもあり、十分にあり得ることかと思われます。
■ 「金屋子神」金山彦命説
◎吉備津彦神の出雲振根征討
紀の崇神天皇六十年に「出雲神宝」を巡る事件が記されます。
━━天皇は出雲の神宝を見たいと思われ、武諸隅を使者として派遣した。その神宝を管理していたのは出雲振根であったが、筑紫国へ出掛けていて不在。代わりに弟の出雲飯入根が神宝を使者に差し出した。
吉備津彦命の征路は、
備中→伯耆南部→能義郡→比田地方→仁多郡(「斐伊川」上流を抑える)→飯石郡田井・多久和・粟谷→「三刀屋川」を下り→「斐伊川」下流へ
このように粗方推定されているようです。
そして「比田」付近一帯は和鉄の中心地で、比太神社の向かいの山すそに製鉄神の総本家金屋子神社が鎮座があったと、比太神社の吉川宮司は話されているとのこと。
◎吉備国家の出雲西部支配
門脇悌二氏は「古代の出雲史」の中で、三刀屋城公園の松本1号墳(未拝)や神原神社古墳(記事未作成)はその特色から、吉備から進駐してきた指揮官のものと考えているとのこと。
また吉備国家の出雲進出は、吉備国家と意宇王(出雲東部)との前もっての妥協ないし強調によってなされたことも想定できると。
吉備国家は出雲振根勢力下の勢力を抑え、杵築大社(出雲大社、記事未作成)の祭祀にも当たることに。大和朝廷との対立関係に入り、長くは続かず勢力を弱め、代わって意宇王が支配体制を整えていったとしています。
◎金山彦命が出雲で祀られる
出雲国庁付近では金山彦命が多く祀られています。以下「出雲風土記」記載の社を。
* 世理陀社
* 久多美社
* 田村社
* 河原社
* 須田下社 (いずれも未参拝)
◎温羅侵攻
「温羅(ウラ)」とは言うまでなく、「桃太郎伝説」の吉備の鬼のこと。桃太郎は吉備津彦命に比定されます。
「たたら師鎮魂」という寺林峻氏の書には、
━━備中神楽(国重要文化財)は、吉備津彦命が地主神、岩山明神の依頼を受け、鬼の温羅を退治する物語である。この温羅は、百済の王子で、この地の新山に居城を構え近くの岩屋(鬼城山)には砦を築いていた。さかんに悪事を働いていて人々を恐れさせた。「吉備冠者」の名をほしいままにしていたともいう。これだけでは温羅を首領とする百済人集団が産鉄の仕事をしていたということにはならない。それにも拘らず、吉備津彦命の凄まじい温羅攻撃は、鉄技術奪取への執念にもとずいていたと思われてならない━━と。
またさらに当著者の安部正哉氏は、
━━古代産鉄の一つのメッカといえる日野郡日南町宮内(伯耆国、鳥取県の南端、備中や出雲との境界近く)に、東西二つの楽楽福神社がある(*)。主祭神は両社とも孝霊天皇(吉備津彦命の父)であるが、脇祭神は東は、若建吉備津日子命、西は吉備津彦命である。ここでも鬼退治の話が伝わっている。吉備津彦兄弟は、百済の石蟹魁(イシカタケル)荒仁を首領とする鉄集団を攻略したことを述べておられる。すなわち、吉備氏自身、鉄作りを手に入れたとされている。とすると、出雲に進駐した吉備津彦命自身、金屋子神の手を借りるまでもなく、鉄の指導に当たったのではなかろうかとも推測される━━
* 「西楽楽福神社」は平成十六年に「楽楽福神社(東楽楽福神社)」に統合、現在は跡地のみ(いずれも未参拝)。
吉備津彦命は第7代孝霊天皇皇子。
つまり大和王権側の人物(神)であるわけで、こちらの地方で奉斎されていたのは、鉄山の神である金山彦命。
吉備津彦命の出雲進攻征路は浮き彫りにされており、その征路を踏まえると、
「金屋子神」は金山彦命であることは十分にあり得ると思われます。
次回はその他の「金屋子神」説として、網羅されている多くの説に触れていきます。
出雲国の御神宝を御神体とする、河内国石川郡 美具久留御魂神社。
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。