◆ 玉鋼(けら)の杜
~金屋子縁起と炎の伝承~ 9
体調不良が続くためほとんど敬神活動ができておりません。
したがって「1日1記事」を「7日間限定」でとしていたものを、「14日間限定」に延長します。
せっかく年末年始で新しい読者が増えたのに、
文字量の多い退屈な記事が続き、また読者が減るのかな…。
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■過去記事
2 … 金屋子神の信仰圏
3 … 「金屋子神」八幡神説(前編)
4 … 「金屋子神」八幡神説(中編 1)
5 … 「金屋子神」八幡神説(中編 2)
6 … 「金屋子神」八幡神説(後編)
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前回の記事(第8回)において、
「製鉄部族コン氏」と題して終わりました。
ところが「コン氏」に関わることは一切記しておりません。正しくは「天日槍神と兵主神」であり、既に訂正を済ませております。
■ 「金屋子神」天日槍神説(後編)
◎製鉄部族コン氏
「民族形成と鉄の文明」(宍戸儀一氏)の記述が続きます。
━━天日槍の次に渡来して製鉄技術のうえにむしろそれ以上の大きな影響を与えたのは…コン氏の渡来である。文献には百済の蓋鹵王(ガイロオウ)の弟(子ともされる)なる昆支王の渡来が雄略記に見えるくらいであるが、その子孫は大和の韓人貴族として勢力を持ち、高野新笠と申し上げる光仁天皇皇后のごときはこの家から立たせられている。高野の高も今日では多くイマと読んでいる今井、今川、今野等の今と同じく、もともとコンであり、採鉄冶金との所縁を示している━━
旧来の韓鍛冶は山間に取り残され山神となったするも、そうして崇められるのは運のよい場合で、多くは零落して鬼の類に編入されたとしています。
天目一箇神が「タタラ入道」や紀州の「一本ダタラ」になり一つ目小僧となって妖怪にまで成り下がったと。
一方で新来の製鉄者たちは農具を提供し、農耕の存するところ必ずこれに附帯して存した素朴な製鉄作業は、各地方のいくつかの砂鉄産地に集中せられ、とりわけ中国がその優秀な所産をもって多くの採鉄冶金者を吸収したと。
それらが昆支王といかなる関係を有するかは不明であるが、例の「炭焼小五郎」を初め、虎丸、朝日、泉、眞野などと呼ばれる長者たちも、こういった新来の鉄工業者で、灌漑や農耕の新しい技術を持ち込んだものらしいと。
━━これら新来者の技術は、彼等をして豪族化せしめ得るだけの高度のものであった。そして、そこからもたらされた生産力の増大が氏族社会の基礎をいつとなく覆すに至った━━と。
つまり金屋子神がたとえ天日槍神の系譜に属するとしても、その信仰は中国の踏鞴師などが単に職業的に、しかも中国限定のものであったということで、古代日本の鉄の文明の推移を言うものではないとしています。
◎天日槍神系の文化流入は室町以降か
「古代日韓鉄文化」(阿倍猛氏)は、
金屋子信仰が西漸したことは明らかであり、天日槍神系の文化と何らかの関係が存するかも知れないとしています。
そしてその西漸はそう古いことではなく、すくなくとも室町に入ってからではなかろうかとしています。ただしその根拠は示されていません。
(出石神社)
◎兵主神社について
「兵主神」について「神社辞典」に、この社名は延喜式神名帳の中で最も多く、参河国から壱岐国まで17社が分布。
*伊豆志神社(現在の出石神社) … 天日槍神、但馬国一ノ宮、旧国幣中社
*諸杉神社 … 多遅摩母呂須玖(天日槍神の嫡子)、旧郷社
*中島神社 … 多遅摩毛理(天日槍神の五代目)、旧県社
*日出神社 … 多遅摩比多柯(多遅摩毛理の弟)、旧村社
*比遅神社 … 多遅摩斐泥(天日槍神の孫)、旧村社
ただしこれは「金屋子神」=天日槍神説に基づくものからの推量で、根拠は特に無いようです。
◎「黒田」という地名が意味するもの
大和国城下郡黒田郷に、奈良時代の文献に「鏡作」を名乗る集団が居住していたとしています。
調べたところ、正倉院文書「寧楽遺文」(天平十四年)に、「鏡作首縄麻呂」や「鏡作連清麻呂」の名が記されていることではないかと思われます。
おそらく鏡作伊多神社(宮古)と鏡作伊多神社(保津)の両式内論社が、「黒田郷」に属していたものと思われます。
一方で「岡山県甘美村」「黒田」も産鉄地として存在するとしています。これはおそらく旧真庭郡「美甘村」の誤植かと思われますが。
さらに「出雲国風土記」に「大庭里」にも「黒田」という地が見え、また松江にも「黒田町」があると。「黒田」なる地名は金屋の徒が移動しながら付けた地名であろうかとしています。
◎播磨から「比田」へ参詣
新しい製鉄技術が、播磨から出雲へ伝播したという説を上げてきましたが、ここで一つ逆ではないかと思われるものを一つ上げておきます。
「金屋子神」を詳述する「鉄山必要記事」に、播磨の宍粟郡千種村岩野辺から、遠路出雲の能義郡西比田(金屋子神社鎮座地)まで参詣したことが記されています。
「金屋子神」が飛立した方から降りたった方へ参詣に向かうというのは、セオリーからすると逆のこと。またそちらには「金屋子神」が「比田」へ飛立という伝承はないようです。
これまで、深沢武雄氏などの「より先進的な播磨系の製鉄技術が、ある時期に、もちろん人とともに出雲地方へも伝播していった」などといった説を載せてきましたが、現実にはこのような説もあることを記しておきます。
◎五行思想
真弓忠常氏は、五行思想では「金」は西に配するので、神は西方へ飛立ち、色は「白」とされているので白鷺となっていると述べているとしています。
ここまで見てきたように、「金屋子神」=八幡神説とともに、=天日槍神説もなかなか侮れないもの。
宍戸儀一氏は、「八幡神は或いは初め兵主神と同一の神格ではなかったかと考えられる」ともしています。
次回は「卓素系の神」説に入ります。
(但馬国一ノ宮 出石神社)
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。