■表記
昆支王(コンキオウ)
昆伎王、琨支王とも

*読みについては「コニキシ」とも。「コニ」→「大きい」、「キシ」→「王」。
*実際には「王」とはなっておらず、そうであるが如く崇められているため、単に「昆支(昆伎)」とも。







■概要
百済の王族。「軍君」とも言われます。
事績等は記紀や「三國史記」に記され、また周辺の神社や古墳等から多くを類推していくことが可能。「三國遺事」(高麗の僧による著)や「宋書」百済伝からもわずかに導くことができます。

◎紀の雄略天皇五年(461年)の条、兄の加須利君(百済第21代蓋鹵王、ガイロオウのこと)により人質として日本へやって来たとあります。
これはいわゆる「捕虜」等の意味の人質ではなく、倭国へ忠誠を誓うための差出人的な意味合いのもの。

この際に加須利君の婦(愛人のことか)を貰い受け嫁とし向かいます。ところが既に加須利君との子を孕んでいてしかも臨月、産まれたら母子ともに百済へ送り還すようにとの命を受けています。そして翌月に筑紫の各羅嶋(加唐島)で嶋君が産まれたので、母子ともに送り還しています。嶋君は後に百済第25代武寧王となります。

少々不可解な内容が含まれています。真相は昆支王は単身で倭国に渡り、倭人と婚姻関係を結んだのでないかとも。或いは加須利君(蓋鹵王)の婦ではなく、昆支王の純粋な妻と渡来したのではないかとも。

当時は「中国北朝・高句麗・新羅」と「中国南朝・倭国・百済」とが、それぞれに同盟関係を結び対抗し合う戦乱時代でした。百済は特に高句麗に対して緊張感を抱いていた時期、倭国との関係を深めようと考えていました。

昆支王は翌々月に都入り。既に5人の子がいたと記されます。

雄略天皇二十年(475年)に百済国は高句麗に滅ぼされます。久麻那利を汶州王(百済第22代文周王)に与え、わずかな残存兵が集まった倉下(熊津)で百済を成した(再興した)とあります。

雄略天皇二十三年(478年)には百済の文斤王(百済第23代三斤王)が薨じます。天皇は昆支王の五人の子のうち聡明な第二子の未多王を内裏に呼び、百済国王とさせました。それが百済第24代東城王のこと。

記には雄略天皇五年(461年)の都入り以降、昆支王そのものの事績は見えません。

◎「三國史記」には、第22代文周王三年(477年)に、弟(昆支王のこと)を内臣佐平と為すとあり、三ヶ月後に内臣佐平卒すと記されます。これを取るなら昆支王は百済で亡くなったこととなります。

◎「宋書」百済伝には、百済王余慶(蓋鹵王のこと)が大明二年(458年)宋に上表文を提出、百済将軍11名が将軍号を授かったとあります。うち征虜将軍号を授かった「左賢王余昆」が昆支王のことではないかと見られています。

◎昆支王を祖とする一族は飛鳥戸氏。河内国安宿郡(あすかべのこほり)がその拠点であり、氏神として式内名神大社 飛鳥戸神社が鎮座し昆支王を祀ります(現在の祭神は素戔嗚尊)。

そして周辺には飛鳥戸氏のものと思われる群集墳が存在します。また大県郡にも高井田横穴群が存在し、その丘陵頂には高井田山古墳があり、こちらは昆支王のものとする説が有力。

ところがこれらの群集墳等がいずれも6~7世紀頃のものと見られ(高井田山古墳を除く)、昆支王の時代よりおよそ100年もしくはそれ以上後のもの。

昆支王が最初に拠点とした地については謎とされています。個人的には河内国高安郡だったのではないかと考えています(参照 → 飛鳥戸氏)。


◎上述のように「三國史記」には昆支王が百済で亡くなったが如く記されるも、高井田山古墳が昆支王の墓所とも。

石室内で発見された希少な「熨斗(うっと)」が、百済の武寧王墓で発見されたものと酷似。百済式の横穴式石室が日本にもたらされた最初のものではないかという点、築造時期が昆支王の亡くなった時期と合致、またこの有力者の古墳に見合う他の渡来人が見当たらない…等々。もしこれを取るなら倭国内で亡くなったこととなります。

異なる系譜の文斤王がいながら百済に戻るとは考えにくい(兄の子)、子の未多王(東城王)を倭国に残して百済に戻るとは考えにくい、などと言われています。

◎古代のことであり当時の人物像など断片的にしか知る術もありませんが、母国の激動の時代に母国のために尽力し、また倭国内ではすべての渡来人たちの総リーダー的役割をまっとうし、倭国の文化等発展に大いに寄与した人物ではないかと思われます。

もちろん河内国大県郡をも拠点にしていたということは、何よりも大事なものであった「鉄」の生産鍛冶集団をも率いていたと察せられます。

「王」とはなっていないのに「昆支王」と崇められる理由があるのだろうと思います。「昆」とは「広く大きい」といった意味であるとのこと。



昆支王の墓ではないかとされる高井田山古墳



■百済国王系譜
第21代 蓋鹵王(ガイロオウ、昆支王の父)
第22代 文周王(昆支王の兄)
第23代 三斤王(昆支王の甥)
第24代 東城王(昆支王の第2子)
第25代 武寧王(昆支王の子の一人)

*ただし蓋鹵王を昆支王の兄、武寧王を昆支王の孫とするなどの異説有り



*記事作成に当たり、飛鳥戸神社の拝殿内に資料として置かれている、「昆支王を語る」(昆支国際ネットワーク)の書を大いに参考にさせて頂きました。

*この記事を起こす契機となり、また私の余生をかけて行っている活動に大変に大きな糧となりました。深謝致します。