大河ドラマ「どうする家康(9)」

家康は岡崎城主になったとき、一向一揆

おこり、寺院の勢力を注ぐことに成功し、

戦国大名としての一歩をふみだした。

 

岡崎城(一向一揆)

本多正信(一向一揆)

三河一揆(1563-1564)のときに家康は

裏切った家臣を不にしている。そのひと

りに一向宗の本多信がおり、家康は本多

正信を国から追放した。

 

その後家康は、本多正信を家臣を迎え入る。

 

 

本多信(松山ケンイチ)と家康(松本潤)

 

本多平八郎忠勝(三河平定)

本多忠平八郎忠勝(1548-1610)は、通

平八郎という。

松平家の最古参の譜代本多氏・本多忠高の

長男で、父が戦死し、伯父・本多忠真のも

とで育つ。

本多平八郎忠勝は徳川四天王のひとりで、

家康に62年従い、57回の合戦を経験し、

一度もかすり傷をおわなかった武将として

知られる。

忠勝は、武田信玄から「家康にはもっ

いないほどの男」、織田信長には、「花

も実もある武将」、秀吉には、「日本第

一、古今独歩の勇士」とたたえられた。

 

 

榊原小平太康政(杉野遥亮)と本多平八郎忠勝(山田祐樹)

 

岡崎城(家康と本多忠勝)

岡崎城は、別の名を龍ヶ城と呼ばれている。

岡崎城の隣には龍城神社、家康館の隣に本多

忠勝の像がある。

 

龍城神社(岡崎城)

 

 

徳川家康・本多忠勝を祭神とする龍城(たつき)神社

 

本多平八郎忠勝像(岡崎城)

 

 

岡崎公園にある本多平八郎忠勝像

 

三河一揆後の本多正信

本多正信は家康より4歳上で、もともと鷹匠

あがりで、単純な武辺者が三河者に多いなか、

謀士型の男で、家康は年とともに珍重し、家

来というより賓友(ひんゆう)をもって遇し

た(従五位下佐渡守、2万2千石)。

 

三河一揆から58年後。家康江戸幕府開き、慶

長17(1612)年秋。本多正信には息子・本

多正純(まさずみ)がいる。

 

三河一揆後の大久保氏

大久保氏は、家康の祖父・松平清康から松平・

徳川氏に仕える。

 

大久保忠教「三河物語」

松平忠世(1532-1594)の父・大久保忠員

の長男で、本多忠俊の本家をしのぐようにな

る。

松平忠世は三河一向一揆(1563)、方ヶ

原の戦いで活躍。

松平忠世の弟・大久保忠教(通称彦左衛門)

書いた「三河物語」によると、武田信玄に

「ささて、勝ちてもおそろしき敵か」と

称賛さたいう。

 

本多正信と大久保氏

慶長17(1612)年。世間は騒動しくなる。

まず役人で、本多正純の家来で役人の岡本

大八が、九州の大名有馬氏から賄賂をとり、

有馬氏は取り潰しとなる。

 

翌年慶長18年4月鉱山奉行の大久保長安が

没する。このとき大久保長安は、かつて金

銀の山を拓き、賄賂や隠し財産をもってい

たと、お咎め厳しく7人の子どもが切腹。

さらに信州松本の石川氏はじめ大久保長安

ゆかりの大勢が改易や流罪となる。

 

本多正信と大久保忠隣

大久保家嫡流の大久保忠隣(ただちか)。

大久保忠隣の甥の大久保彦左衛門は「三河

物語」を書く。

通称彦左衛門は彦左衛門教といい、嫡流

・大久保忠世(大久保平八郎忠勝の子)の

弟になる。

 

大久保忠隣の甥

 兄・大久保忠勝

 弟・大久保忠教(通称彦左衛門「三河物語」

 

家康と大久保氏「小田原」

慶長18(1614)年12月

大御所家康は江戸から駿府城への帰途、

保忠隣の居城、小田原に泊る前日だった。

もと大久保忠隣の家臣・馬場八左衛門は、

本多正信に面会したあと、家康に謀反の疑

いありの目安状を渡す。

このときに家康は、突然駿府行きと小田原

宿泊をとりやめ江戸城に帰る。

 

翌慶長19年1月5日大久保忠隣は、京にて

切支丹弾圧の命を受け小田原から出立。

京では天主堂を焼きキリシタン捕らえる。

その最中1月19日に江戸中で、筆頭老中

大久保相模守忠隣の改易処分が発表される。

 

本多正信と大久保「三河物語」

大久保彦左衛門の「三河物語」に、『佐渡守

政信は、大久保の失脚後、三年を出でずして、

顔に梅毒が出、顔かたちが崩れ、奥歯までむ

きでて死んだ。

正信の子上野介正純は改易されたが、れは

忠隣をおとし入れた因果の報いか』と書いて

いる。

本多正信は元和2(1616)4月に家康が亡く

なり、家督を嫡男・正純に譲り、同年6月7日

本多正信没、享年79歳。

 

<大久保忠隣と彦根龍潭寺>

改易を言い渡された大久保忠隣は、井伊直孝

に御預けの身となり、彦根の龍潭寺(りょう

たんじ)にて幽閉することになる。

 

 

井伊谷から彦根に移った井伊家が建立の龍潭寺

 

井伊直孝は、家康の死後、将軍秀忠に罪を

図ろうとしたが、家康にそむくと、大久保忠

隣はこれを断った。

出家した大久保忠隣は、渓庵道白と号し

75歳で没。

なお、大久保忠隣の武功が大きかったため、

の後に大久保家の家督は継ぐことが許され、

子孫は小田原藩主として、復帰を果たしている。

 

現在、龍譚寺境内に、大久保忠隣公幽居の趾の

石碑があり、境内には石田三成公の銅像もある。

 

 

龍譚寺境内の大久保忠隣公幽居の趾 

 

 

 

 

 

 

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