樫井川の下流に立つ碑がある。

この広い橋の北詰には大きな碑に

「大阪夏の陣 樫井古戦場跡」とある。

 

 

樫井古戦場跡(大阪府泉佐野市中樫井、明治大橋北詰)

 

この附近で樫井合戦があった。

現在この橋の東側にもうひとつ橋が

あり、両橋の間、約400mの場所が

樫井が合戦の決戦地となった。

 

 

樫井川に架かる大正橋から明治大橋をみる景色

 

ときは、慶長20(1615)年4月。

豊臣方と徳川方がの両軍が、大坂夏

の陣で、最初に激突した合戦である。

 

 

西の明治橋から東の大正橋の間は、かつて

合戦地であった。いまは廃品回収に関わる

大きな工場が両岸にある。

 

 

明治大橋から樫井川に架かる大正橋側を見る。

 

 

 

 

(家康「夏の陣」と豊臣)

家康のことだが。夏の陣の緒戦・樫井合戦

までどういうことがあったか遡ると、家康

の武将としての一端を知ることができる。

 

家康は、秀忠に征夷大将軍を譲った

頃、慶長10(1614)年から豊臣秀

頼との溝はふかまる一方だった。

慶長19(1614)年7月京都方広寺の

鐘銘(「国家安泰」・「君臣豊楽」)

事件が起こる。その後、家康は、豊臣

秀頼が江戸に参勤するか、秀頼が大坂

城を退去するか、秀頼の実母・淀殿

が江戸で人質になるか、いずれを選ぶ

か伝える。豊臣方はすべて拒否。

 

結果大阪冬の陣があり、家康は大坂城

本丸のみを残す条件で豊臣方と講和す

る。ところが、徳川方は、惣構の堀を

を埋めてしまい、豊臣方に伊勢への転

封か、大坂城に抱える牢人の駆逐かど

ちらかを選ぶように迫る。これに対し、

またしtいずれも拒否したため、慶長

20(1615)年駿府城を出陣。

 

同年4月28日徳川方の先陣、紀伊の浅野

長晟の軍勢5千人、一方、豊臣方は大野

治房を主将とし、2万の大軍。浅野方の

先陣は佐野市場に到着。(4月28日)

 

こうして紀州街道筋や樫井川の河原で、

壮烈な戦いが繰り広げられる。

結果、樫井合戦は大阪方の敗北となり、

樫井合戦から9日後の5月7日に大阪城

は落城し、秀頼と淀殿は自害し、豊臣

家は滅びる。

 

 

大坂城(山里丸)での淀殿・秀頼の自刃の地

 

樫井川と並行にある紀州街道を歩く。

樫井川堤防下には、ほぼ並行して、

狭い紀州街道の街並みのなかに史跡が

あり、またその近くに寺院や神社など

がある。

 

<明治大橋(北側)>

(福正寺)

浄土真宗本願寺派 香花山 福正寺

 

 

大阪府泉佐野市南中樫井530-1

 

(若宮神社)

 

 

若宮神社(泉佐野市南中樫井627)

 

<大正橋付近>

(正法寺)

 

 

正法寺横の淡輪六郎兵衛重政の墓

 

淡輪六郎兵衛重政は、古くから和泉国

淡輪(現岬町)の豪族で、六郎兵衛の

姉は豊臣秀次の側室の小督局(おごう

のつぼね)で、その子のお菊も夫とと

もに豊臣方として戦う。

六郎兵衛はその樫井合戦の先鋒隊とな

り、4月29日早朝、塙団右衛門とと

もに紀州街道を南下し、樫井で待ち構

える浅野軍に突入し、乱戦の中で討ち

死にする。

 

 

樫井川右岸の紀州街道沿いの檀団右衛門の墓

 

壇団右衛門はこの地で討死、ときに

48歳。

五輪塔は紀州の士・小笠原作右衛門

が造立し、石灯篭は討ち取ったとい

う八木新左衛門の孫が奉納する。

250回忌の明治元(1868)年に団

右衛門の子孫の櫻井氏が補修し、観

音寺に位牌を納め、以後、当地の人で

守られている。

 

時代は変わり400年も経った。

変わったようでいて、東京や大阪の

都心部とはずいぶん違う。

大阪南部のこの辺は、高齢者の街で、

家屋が空き家、老朽化した家が多く、

子どもや若者の姿がみられない。

 

(南部公園サッカーグラウンド)

樫井合戦の樫井川左岸には、サッカー

の大きなグラウンドがあり、少年たち

がサッカーの試合をしている。

 

 

 

樫井川沿いの南部公園サッカーグラウンド

 

約400年が経ち現在に至る。

この間、季節は移りゆき、時代が

かわってゆく街の姿の景色を見る。

 

 

 

 

 

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