時代は移りゆき今に至る。
この間、いつの時代も変わらないという
思いがしてくる。
家康の生涯もそうだったようだ。
(元康「厭離穢土(おんりえど)」)
ときは永禄3(1560)年5月三河の岡崎。
元康(松本潤)は、覚悟を決める。
松平家八代の墓が並ぶ大樹寺で「すまぬ
…わしは帰れぬ」と瀬名を想い、「厭離
穢土欣求浄土…」と汚れたこの世を離れ
、極楽浄土へ行けのお経を唱える。
介錯は本多平八郎(忠勝:山田祐樹)。
(竹千代と織田家)
岡崎城で誕生した竹千代(のち松平元康・
家康)。
竹千代の母・於大は竹千代3歳のときに
離別。父・広忠の妻・於大の兄水野信元
(刈谷)は織田氏と同盟を結んだために、
今川氏に庇護されていた父・広忠は於大
と離婚する。
広忠は織田家に対抗し、今川家の本拠駿
府に竹千代を送るが、このとき護送の責
任者(田原城主戸田康光)が裏切り、織
田方に引き渡す(天文16年)。
織田信秀(信長の父)は、広忠(家康の父
)に離反させないように人質(5歳ー7歳)
にし、7歳のときに信長の兄と人質交換で
桶狭間の戦いの元康18歳まで今川の人質
となる。
(兎と狼「厭離穢土」)
尾張の織田家で人質になった竹千代。
小姓らに苛め抜かれ、信長はいう。
「この世は地獄じゃ、お前じゃ!
まわりは地獄じゃ!」、「弱気になるな
白うさぎ」、信長を倒し「竹千代は兎で
ない、寅じゃ!」といい、すぐ放りなげ
かえされ、「地獄生き抜け!」といい、
兄と交換することになったと告げられる。
(元康「欣求浄土(ごんぐじょうど)」)
住職の登誉上人に学んでいた榊原小平太
(榊原康正:杉野遥亮)曰く。「厭離穢
土欣求浄土」とは、「汚れたこの世こそ、
浄土にすること目指せ」という意味だと
つぶやく。
<家康と三河武士「欣求浄土」>
浄土宗は、鎌倉の時代に法然によって開か
れた、そして戦国期に浄土宗中興の祖にな
った存牛(ぞんぎゅう)がいる。
存牛は、三河出身で、家康の祖先・松平親
忠の五男で、天下の浄土宗をひきいる800
0の寺院の門主となる。それに存牛の祖父・
信光も三河に信光明寺を創建する。
家康誕生の三河の岡崎城(愛知県岡崎市康生町561-1)
家康が本能寺の変の報せが堺から京に戻ると
きにはいった。明智勢に街道沿いを押さえら
れ、「死ぬ!」とわめき「恥をとらんよりは、
急ぎ都にのぼりて知恩院に入り、腹きって織田
殿と死をともにせん」と言ったという。
家康が「知恩院に入って死ぬ」とわめいたのは
家康が遠い祖先からうけついできた「浄土欣求」
という念仏信者であったことによる。
徳川二代将軍徳川秀忠寄進の日本最大の知恩院山門
三河は、浄土を欣求する心がつよく、この信仰
で一向一揆をおこした国柄である。家康のまわ
りの三河人もそうで、戦陣には「欣求浄土」の
文字をもって旗印としていた。
2023.1.9
2023.1.15