ー家康と今川氏真ー
桶狭間の戦いで今川義元が敗死した(永禄3
・1560年)。
これでも家康はまだ自立はできなかった。
義元の嫡男・今川氏真が健在で、家康はじ
め家臣らの妻子は人質としてとられたまま
だった。
<家康(清州同盟)>
今川義元戦死の翌年永禄4(1561)年に伯
父の水野信元から進言を受けた信長から和
睦を打診されたときも、家康は即決しなか
った。
松平氏が生き残るために、織田方につくこ
とに決め、家康は自ら信長の居城である清
州城に赴き、会盟したという。
<家康「人質交換」>
清州同盟により、今川の人質になっていた
家臣の妻子らは、そのまま駿府に留めおか
れたままになる。
ところで、家康は鵜殿長照の三河西郡城に
攻めて生け捕りにした長照の子・氏長と氏
次を人質交換により取り戻す。
鵜殿長照の正室は、今川義元の妹で、今川
氏真も見殺しにはできなかった。
ー家康と三河一揆ー
家康は今川氏と断交し、織田信長と同盟を
結ぶ。信長との同盟で、家康は外交的には
安定した。
だが、三河国内では、永禄6(1563)年9
月大規模な一向一揆が勃発。
<三河一揆「本願寺派(三河三か寺)>
この一揆は、一向宗と呼ばれた浄土真宗派
の門徒による一揆であった。その頃三河で
は、上宮寺・本證寺・勝鬘寺という本願寺
派寺院が三河三か寺と呼ばれ、教線を拡大
させており、家康は上宮寺からの兵糧米の
徴収をし、このことに端を発して一揆が起
こる。
<一揆蜂起「領主・家臣」>
一揆には東条城主吉良義昭や上野城主酒井
忠尚ら家康と対立する領主層も支援してい
た。しかも、本多正信や松平家次らのよう
に門徒となっていた家臣が一揆側に立って
戦うなどがあり、家康は追い込まれる。
一揆側は、連帯して戦う術がなく、しだい
に家康が反攻に転じ、翌年永禄7年2月には
三河一向一揆を鎮定する。
これにより吉良義昭は上方に逃亡し、酒井
忠尚は、今川氏真を頼って駿河に出奔した。
家康は門徒であった本多正信や松平家次ら
をどうするかと迫られる。
家康は本多正信や松平家次の帰参を許した。
家康自身も浄土宗に帰依していたから一揆に
ついて事情を理解していたが、国内の本願寺
派の寺院・道場はすべて破却している。
ー三河平定ー
家康が三河一向一揆を鎮定したあと、今川
方であった二蓮木城主戸田重貞、牛久保城
主牧野成定といった東三河の諸将が帰順し
た。さらには、今川方につく吉田城主大原
資良(小原鎮実)や田原城主朝比奈元智を
攻めて城を奪う。こうして家康は、三河一
揆を鎮定し、ずか4ヶ月で三河を平定する
ことになる。
<家康「覇者と家臣(三奉行)」>
三河の統一を果たした家康。
家康は永禄8(1565)年に奉行をもうける。
奉行に登用されたのは、高力清長、本多重
次、天野康景の3人で、俗に三河三奉行と呼
ばれ、「仏高力、鬼作佐、どちへんなしの
天野三兵」と謡われている。
作佐は本多重次の通称・作左衛門で、三兵
は、天野康景の通称・三郎兵衛のことを指
す。要するに「仏」のように仁成した高力
清長、「鬼」のような軍事に秀でた本多重
次、「どちへんなし」、即ち偏りがなく公
平な天野康景をもって、家康は覇者として
三河を治めた。
<家康(岡崎城)と大林寺>
岡崎城の天守閣から大林寺が見える。
大林寺は岡崎城から北約300mのところに
あり、大林寺には家康の祖父・松平清康
(7代)、父・松平広忠(8代)の墓がある。
家康の祖父・父の墓がある大林寺(岡崎市魚町1-6)
大林寺は家康の祖父・清康(7代)が岡崎
城を拠点に三河領国を支配していたが、家
臣に暗殺され、家康の父・広忠(8代)は、
10歳のとき岡崎を追われ、今川義元の援助
で復帰し、今川氏傘下の一武将となる。松
平広忠は水野忠政の娘・於大と結婚し、翌
年に松平竹千代(のち家康)を誕生する。
大林寺の附近は、江戸時代には岡崎城の大
手門があった地である。
徳川250年の礎を築いた家康。
家康ほど生涯にわたりつらいめに多くあい、
生きてきた人物は珍しい。
岡崎城の竹千代像と家康公像
岡崎城(愛知県岡崎市)
2023.1.9
2023.1.16
2023.1.20