大河ドラマ第8回、家康は「三河一揆

でどうする!」。

家康ほど、どうする?と迷い、窮地・

絶望に直面した武将はなく、三河一

揆でもそうだが、三方ヶ原の戦いでは、

あわや命を奪われるところまでいく。

 

今川氏滅亡

ー武田信玄と家康ー

永禄11(1568)年、武田信玄が今川氏

真との同盟を破棄し駿河への侵攻を開始。

これを受けて、家康は引佐(いなさ)郡

の井伊谷三人衆といわれる菅沼忠久・近

藤康用(やすもち)、鈴木重時を道案内

人として、今川氏の領国の遠江に侵入す

ると、高天神城主・小笠原氏介や馬伏塚

氏興といった今川氏真の家臣が家康に降

伏。

家康は武田信玄から駿河を武田氏が併合

するかわり、遠江を家康が併合するとい

う密約をもちかけられたいうが、史実か

どうかわからない。

 

家康(三河から遠江)

ー今川氏真と家康ー

その頃今川氏真は、居館のある駿府まで

武田軍に攻め込まれたため、重臣朝比奈

泰朝を頼って遠江の掛川城まで逃れてい

る。

家康が掛川城を包囲したため、今川氏真

は、翌永禄12年5月降伏開城して、海路

から相模の北条氏康を頼って落ちのびて

いった。今川氏真の正室が北条氏康の娘

だったからである。

こうして200年以上にわたり駿河・遠江

を治めていた戦国大名の今川氏は滅亡す

ることになる。

 

ー織田信長と家康ー

家康が遠江平定に乗り出したところ、家

康の同盟者である織田信長は、足利義昭

を擁して上洛し、室町幕府の実権を握っ

ていた。

(織田信長と朝倉義景)

織田信長は「天下静謐(せいひつ)」を

名目に諸国の上洛を命じたが、越前の朝

倉義景は従わない。このため元亀元(15

70)年4月、信長は越前への侵攻を開始。

家康はこの越前攻め参陣、信長と同盟を

結んでいた北近江の浅井長政が朝倉方に

寝返り作戦は失敗し、家康は信長ととも

に越前から撤退し、京に戻る。このあと

家康は京から居城の岡崎城に帰還する。

 

(姉川の戦い)

一方、岐阜に戻った織田信長。2ヶ月後

の6月、謀反を起こした浅井長政を討つ

ため北近江に侵攻。家康も5000の大軍

を率いて参陣。これに対し、朝倉義景も

浅井長政に加勢したことから、6月28日

、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍

が姉川をはさんで激突する。いわゆる姉

川の戦いである。

徳川軍の奮戦で朝倉軍が崩れ、織田軍が

浅井軍を撃破し、浅井・連合軍が敗れる

。ところで、信長と家康は姉川の戦い後

も、浅井、朝倉勢に苦境にたたされる。

 

ー家康と武田信玄ー

その頃家康は嫡男の信康に岡崎城を譲り、

遠江の曵馬城を大幅に改修して浜松城と

改め、自らの居城としていた。

これには、わけがあった。家康は駿河を

併合した武田軍が遠江に侵入してくるこ

とを危惧していた。

 

(武田信玄と家康)

元亀2(1571)年3月武田信玄が2300

0の大軍を率いて三河に侵入。

武田軍は野田城を落として、吉田城に迫

ると、家康も2000の兵を率いて吉田城

の救援に向う。

結果、織田氏や北条氏の動きを警戒した

武田信玄が撤退したことで窮地は救われ

る。

 

<武田信玄と北条氏政>

ところで、相模の北条氏康が没すると、

跡を継いだ子の今川氏政は、武田信玄

の娘を正室に迎え、北条氏と武田氏と

が同盟を結ぶ。これにより、武田信玄

は、相模に備えていた軍勢を遠江にま

わすことができるようになる。

 

ー三方ヶ原の戦いー

元亀3(1572)年晩秋。

武田信玄は甲府から軍旗の「風林火山」

の如く25000の軍勢を率いて北遠江に侵

入、天竜川を下り、徳川方の城を残さず

潰し、後詰めを絶ち、奪った城を手駒に

して兵を増やしていく。

一方、このときの徳川軍。家康の伯父水

野信元、織田家家老の佐久間信盛率いる

3000の援軍を足しても11000ほどの軍

勢だった。どうする家康。

 

武田軍は家康の居城を攻めることせず、

そのまま西に進軍していく。

家康は浜松城を討って出た。が武田軍

は、三方ヶ原台地を下ることなく、徳

川軍を待ち構えていた。

 

夕刻午後4時にはじまった戦闘は2時間後、

日没に勝敗は決し、徳川兵の死屍累々と

なり、三方ヶ原の台地を覆い尽くした。

その夜、家康の討死が岡崎城と岐阜城に

伝えられた。

翌朝武田軍は陣を引き払い、西に向けて

出立。家康は、本多忠勝(平八郎)、榊

原康政(小平太)、鳥居元忠(彦右衛門)

に守られながら、三方ヶ原付近の集落に

潜んでいた。

のち家康は命からがら浜松城に帰還する。

 

<家康としかみ像>

家康は信玄を三方ヶ原で迎え撃つも大敗

を喫した。敗北を承知で、同盟者として

義務をつらぬいた家康は、他の武将か

ら信頼を得ることになる。

 

 

家康の「しかみ(顔をしかめた)像」

 

家康には、三方ヶ原の戦いは大きな教訓と

なる出来となった。

将であるのに、命からがら、馬上で脱糞

するほどの恐怖を味わった家康は、この

体験を自ら戒めとすべく、「自分の恐怖

に震えた体とゆがんだ顔を絵に写しとけ」

と命じ、家康は焦燥の色が浮かぶ「し

像」の絵死ぬまで手元に置き、生涯

の教訓にしたという。

 

 

岡崎城の家康のしからみ像

 

 

 

 

 

 

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